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『アリスのための即興曲』Vol.27 時子の卵焼き


習作『アリスのための即興曲』というのを書いております。
ラストを書き直しております。
もしご興味がありましたら、ぜひ。


あらすじ

大学3年生の坂本は、華道の講師である祖母とふたり暮らしをしている。
ピアノを弾くことが趣味の、どこにでもいるような学生だ。
ある日偶然見つけたフランス語レッスンの張り紙を頼りに、彼は古びた洋館へと向かう。
レッスンを担当するのは、アリス・デュボワというフランス人の女性だ。
彼女はレッスン料を請求しない代わりに、毎回、不思議な頼み事をする。
坂本はアリスに惹かれながら、抗いがたく「兎穴」という闇の中に引きずり込まれていく…。

初めての方は、こちらからどうぞ。

Vol.1  兎を追いかけて

前回のストーリーは、こちら。

Vol.25 中山伊織と宇宙人


 僕は兎穴の中にいた。
穴の中はひんやりと湿っていて、土の匂いがした。濡れた落ち葉や虫の死骸などもきっと地中に埋まっているのだろう。でも僕にはそれは見えなかった。そこは救いようのないほど暗い場所だったからだ。兎穴から見上げる空は墨を流したように真っ暗で、月も星もどこかに隠れてしまったようだった。僕の指はかじかみ、吐く息は白く、歯の根が合わなかった。どのくらい前からそこでそうしていたのか、見当もつかなかった。これはおそらく罠のようなものなのだろうと僕は思った。便宜的に「兎穴」と名付けたけれど、そこは野兎が棲む場所ではなく、人間が動物を追い込むために作った場所ではないかという気がした。そこには兎たちのやわらかな毛の匂いや、規則正しい寝息や、親密な温かさといったものが欠如していた。あるのはただ、暗い風の音と、穴の外から聞こえてくる獣たちの絶望的な叫び声だけだった。
 そうだ、僕は罠に落ちたのだ。



でも、どうやって? ―わからない。
どうすればここから出られるだろう。 ―わからない。
僕は死ぬまでここにいるのだろうか。 ―わからない。
胸の中で自分の声がこだました。耳鳴りがするほど闇は深かった。沈黙に耳を澄ませていると、頭がどうにかなってしまいそうだった。
―アリスはどうしているだろう。
耳元で彼女の笑い声が聞こえたような気がして、僕は辺りを見回した。
―アリス、アリスなの?そこにいるんだろう。隠れていないで、出ておいで。
けれど答えはなかった。闇はあいかわらず門番みたいにそこに立ちはだかっていた。星屑のようなアリスの声が、兎穴の中にいつまでもこだましていた。


 僕はそこで目を覚ました。目覚めたとき、自分がどこにいるのかわからなかった。僕の目にまず飛び込んできたのは、白い天井だった。天井には水の染みがあちこちにあり、泣いている幽霊の顔みたいだった。そのままの姿勢で眼球だけを動かすと、磨り硝子の向こうに浴室が見えた。浴室は青く翳っていて、白っぽいひかりがおぼろげに射し込んでいた。ああ、そうだ。僕は昨晩洗面所で意識を失ったのだった。僕は自分の顔を手で覆い、30秒ほどそうしていた。そしてゆっくりと起き上がった。躰中の関節がきしみ、背中が妙にこわばっていた。




 部屋に戻ってひと眠りしようと思っていると、祖母のスリッパの音が聞こえてきた。彼女は洗面所の引き戸を勢いよく開けた。そこで僕を見つけると、ひゃっとものすごい声を出した。
「ああ、びっくりした。あんたがいるとは思わなかった。こんな時間にどうしたの?」
祖母は青白い顔をして、胸に手を当てている。小花模様のパジャマの下の胸が大きく波打っている。それから彼女は激しく咳をした。僕は祖母の背中をさすってやった。手のひらに骨の感触があった。まるで動物の死骸でも触っているみたいに、固くごつごつとした骨だ。祖母はいつのまにこんなに痩せてしまったのだろう。彼女の脆弱な息遣いが、背中の皮膚を通して伝わってきた。
「時子さん、病院に行った方がいいんじゃない?」僕は百度くらい繰り返したであろうセリフを口にした。
彼女は返事をするのも辛そうに首を振り、ただひとこと「水」と言った。僕は急いで台所に行き、コップに水を注いで洗面所に戻った。祖母はその水をごくごく飲み干し、僕にコップを渡すと大きなため息をついた。心なしか頬に赤みが差し、呼吸もいくらか落ち着いてきたようだった。
「医者には行かないよ」
彼女は弱々しい声で言った。僕はあきれた。頑固にもほどがある。
「病院ってのはね、病気じゃない者だって病気にされてしまうところなんだ。やれ血圧がどうの、コレステロール値がどうのって言ってね。あたしはそんなところで機械に繋がれて死ぬくらいなら、住み慣れた我が家で死にたい」
それは彼女が日頃から主張してきたことだった。少なくとも十年くらいは言い続けている。僕はそのセリフを聞くたびに半ばうんざりして、はいはいと聞き流してきた。けれど今日彼女が発した「死」という言葉には、冷たい影のようなものが寄り添っているような気がして、僕は思わず身震いした。
「そんなこと言うなよ」
口から勝手に言葉が出てきた。それは低く、掠れていて、自分の声ではないみたいだった。祖母はちょっとびっくりしたように僕の顔を見た。
「この次、冗談でもそんなこと言ったら本気で怒るからな」
僕の唇は震えていた。涙の塊が喉元にせりあがってきて、痛い。鼻先がつんとする。まるで自分の中にもうひとりの人間がいるみたいに、躰の反応を制御することができない。祖母の心配そうな顔がじわりと揺れる。僕は彼女に背を向け、急いで階段を上り自分の部屋に閉じこもった。

 それから僕は声を出して泣いた。壊れてしまうのではないかと思うほど、泣いて、泣いて、泣いた。子どもじゃあるまいしと頭のどこかで声がする。けれど僕は泣くのを止めることができなかった。涙はとめどなく溢れてきた。僕は自分の躰を両腕で抱きしめ、子どものように震えて泣いた。けれどそれは祖母のための涙ではなかった。祖母が去った後、兎穴の中にひとりで取り残されるだろう自分のための涙だった。


 カーテンのすきまから差し込むやわらかな陽射しで目を覚ました。どうやら泣き疲れて眠ってしまったらしい。これじゃ本当に子どもみたいだと僕は思った。家の中は優しい沈黙で満ちていた。それは兎穴で感じたのとは違う種類の静けさだった。机の上の携帯電話は午前11時を表示していた。祖母はもうとっくに仕事に出かけただろう。今日、試験はあっただろうかとぼんやりした頭で考えた。けれどそんなことはもうどうでもいいような気がした。


 階下に下り、歯磨きをしてシャワーを浴び、髭を剃った。熱い湯と石鹸の香りに包まれていると、いくらかまともな気持ちになってきた。清潔な服を身に着け、台所に向かった。硝子のコップに水を注ぎ、ひと息に飲み干した。それから食卓に目をやると、メモ書きが残されていた。そこには祖母の手で次のように書かれていた。

「小鍋に味噌汁が入っています。
 大きい方のお鍋にはさわらの味噌煮が入っています。
 卵焼きときんぴらごぼうは冷蔵庫の中です。
 期末試験、もうすぐ終わりですね。
 がんばりなさい」

それからうんと隅の方に小さな字でこう書いてあった。

「次の金曜日、健康診断を受けに行きます。
 心配してくれて有難う。
              時子」


 

     僕はそのメモをしばらく見つめていた。祖母らしい達筆は、心なしかいつもよりほんの少し柔らかく見えた。それから突然、ものすごい音で腹が鳴った。それはどんな議論を差しはさむ余地もない、完全なる空腹を告げていた。よく考えたら昨日の午後から何も口にしていないのだから当然だった。




 僕は台所に立ち、ふたつの鍋に火をかけた。卵焼きときんぴらごぼうを皿によそって電子レンジに入れ(祖母はいつも電子レンジに反対していたが)、その間に茶わんに白米を盛った。すべての料理が温まると、僕は食卓に座ってそれらのものを食べた。味噌汁はほんのり甘い白味噌で、米はふっくらしていた。さわらはよく脂が乗っていてこっくりと味噌が染み込み、きんぴらごぼうは少し歯ごたえが残るくらいの硬さだった。けれど僕が何よりも好きなのは祖母の作る卵焼きだった。小さなころ、台所に立つ祖母の手並みを飽きずに眺めていた。よくこんな風にきちんと四角く焼けるものだと毎回感心したものだった。

 この世界の片隅に、たったひとりでも僕のことを考えてくれたひとがいる。僕がたとえ卑劣な暴行犯でも、世界中の人間から死ぬほど憎まれていても、たぶん、祖母だけはおいしい卵焼きを作ってくれるだろうという気がした。やれやれ、仕方ない子だね、などと言いながら。
 透明なひかりが冬の窓から差し込んでいた。窓は水滴で少し曇っていた。そこから見える空は天国の片隅みたいに静かな青だった。 



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