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『アリスのための即興曲』 Vol.25 中山伊織と宇宙人

習作『アリスのための即興曲』というのを書いております。
ラストを書き直しております。
もしご興味がありましたら、ぜひ。


あらすじ

大学3年生の坂本は、華道の講師である祖母とふたり暮らしをしている。
ピアノを弾くことが趣味の、どこにでもいるような学生だ。
ある日偶然見つけたフランス語レッスンの張り紙を頼りに、彼は古びた洋館へと向かう。
レッスンを担当するのは、アリス・デュボワというフランス人の女性だ。
彼女はレッスン料を請求しない代わりに、毎回、不思議な頼み事をする。
坂本はアリスに惹かれながら、抗いがたく「兎穴」という闇の中に引きずり込まれていく…。

初めての方は、こちらからどうぞ。

Vol.1  兎を追いかけて

前回のストーリーは、こちらから。

Vol.24 優しい噓


本編 Vol.25 中山伊織と宇宙人




 教室から出るとき、学生たちの姿に混じって中山伊織の後ろ姿が見えた。白いセーターにチェックのミニスカートとショートブーツという格好だった。彼女のふくらはぎはすらりとしていて形がよく、黒いぴったりとしたタイツで覆われていた。肌が透けて見えるほど薄い素材だ。寒くないのだろうか。僕の視線を感じたのか、彼女が振り返った。
「坂本くん!」
彼女は微笑み、僕のほうに駆けてきた。冬の朝に思いがけず射し込んできたひかりのような笑顔だった。
「坂本くんもこの講義取ってたんだね。元気?」
彼女は快活に言った。
「うん、まあ。中山さんは?」
まさか君の脚に見とれていましたと言うわけにもいかない。
「元気よ。学期末だからレポートとかに追われてるけど」
「ああ、そういえば『不思議の国のアリス』についてのレポートがあるんだよね。どう?書けた?」
「やだな、覚えててくれたんだ。うん、もう提出したよ」
彼女は心なしか頬を赤らめているように見えた。僕が彼女のレポートのテーマについて覚えていることが、なぜ「やだな」という発言につながるのかわからなかった。何か気に障ることを言ってしまったのだろうか。すると彼女が言った。
「あの、坂本くん、この後授業入ってる?もしよかったら、ちょっとカフェテリアに寄っていかない?あの、ここにいるとほら、寒いし」

    ああ、そういえばこの子は「あの」というのが口癖だったなと僕は思い出した。散歩の途中でよく見ていた猫に、またふと出逢ったような気分になった。まばゆいひかりの射す空の下で、猫はあくびをし、ぐんと伸びをする。猫と僕の目が合う。猫は小さな声で鳴き、身を摺り寄せてあいさつしてくれる。そしてまた気の向くままどこかに行ってしまう。僕は少しだけ明るい気分になって家に帰る。罪のない、ささやかな幸せだ。



 僕はここのところ一連の騒動で疲弊しきっていた。たぶん、自分で思う以上に。いつのまにか足を踏み入れていた、歪んだ世界から抜け出したかった。まったく事情を知らない誰かとくだらない話がしたかった。中山伊織は、ちょうどそのようなときに居合わせたのだった。僕は無邪気に日向を求める子どもみたいに、彼女と一緒にカフェテリアに向かった。



 カフェテリアにはあまり人がいなかった。午後の弱いひかりが、薄い膜のように部屋を覆っていた。僕たちはそれぞれ飲み物を買い、窓際の席に座った。寒くないかと尋ねると、彼女は「窓際が好きなの」と言って微笑んだ。笑うと小さな口から白い歯がのぞいた。彼女はいつもより濃いリップを塗っているようだった。それはみずみずしいさくらんぼにべったりと塗られた赤いソースのように、どことなく不自然に見えた。もちろん僕はそれについては何も言わなかった。ただ、口の端に微笑みを浮かべてみせた。


 僕たちが座っていた席からは、空がよく見えた。冬の空はきまぐれな画家が描いたように、灰色と白がまだらに混ざりあっていた。時折、雲が途切れて青空が見えた。目が痛くなるほど鮮明な青だった。それは一瞬だけ微笑んでくれた神みたいに、きらきら輝きながら雲のあいだに隠れてしまった。
「冬って、きらいじゃないな」と中山伊織が言った。
「朝に吐く息が白いのとか、草花が霜に濡れているのとかを見ていると、気分がきりっとしてくるの」
「わかる気がする」と僕は言った。
人が少ないためか、僕たちの話し声は妙に響いて聞こえた。まるで客の入らない劇場で虚しくセリフを発する役者たちみたいに。そのせいだろうか、僕の知っている日常が、急に小さな箱の中に閉じ込められたおとぎの世界のように感じられた。



「ねえ、坂本くんって、いつも何を考えているの?」だしぬけに彼女が尋ねた。
「は、え、何?」僕はものすごく間抜けな声を出した。
一瞬、彼女が何を言いたいのかがよくわからなかった。僕は何と言えばいいのだろう。

「あの、気を悪くしたらごめんね。なんていうのかな(彼女は前髪をいじった)、坂本くんって、ほら、クールというかミステリアスな感じがするから。普段、どんなことを考えてるのかな、って」

僕はちょっとびっくりした。他人が見る自分と自己像は常にずれているものだと思うけれど、それにしたってかけ離れすぎではないだろうか。「クール」という言葉は、森田のような男にこそふさわしい。けれど彼のことを思い出すと、苦いカプセルを噛んだみたいに口の中が渇いた。僕は虫歯でも我慢しているような顔をしていたのだろう。彼女は僕の沈黙を違う意味に解釈したようで、ものすごい早口で付け加えた。

「変なことを訊いてごめんね。あの、わたし、よく変わってるって言われるの。思ったことをそのまま口にするとびっくりされるから、あまり言わないように気を付けてるんだけど。だからね、時々、誰かと一緒にいると何を話していいかわからなくなっちゃうの。あの…」

彼女はほとんど泣きそうになりながら言った。白かった顔が首元まで赤くなっている。それはまるで悪性のウィルスか何かのように、彼女の指先まで染めてゆく。僕はなんだか気の毒になった。

「中山さんが変わってるなんて、一度も思ったことないよ」と僕は言った。彼女を喜ばせようとして言ったわけではなく、それは本当のことだった。それで彼女はいくらかほっとしたようだった。

「それに、気を悪くしてなんかいないよ。君の質問について考えていたんだ。僕が考えてることなんて、別に大したことじゃないけど…」

彼女は座り直して、真剣な顔で僕の目を見つめた。緊張してぎゅっと寄せられた眉毛は、初めて会った日のゴマアザラシのような彼女の顔を思い出させた。僕はふといたずら心を起こした。ゆっくりと息を吸い、「誰にも話したことがないんだけど」と前置きをした後、こう切り出した。



「実は昨日、宇宙人が僕のうちにやって来たんだ」
彼女は息をのんだ。実際にごくりという擬音が聞こえてきそうだった。僕は澄まして続けた。

「背丈は人間の子どもくらいで、とても大きな頭と、細い手足をしている。目が大きくきらきらしていて、顔の半分はありそうだ。銀色に輝くメタリックの肌で、指は3本しかない。そいつの話す言葉は電子音みたいに甲高くて、とても耳障りなんだ。だから僕はピアノを弾いて気を紛らわそうとした。ベートーヴェンの『運命』をね。ダダダダーン!って」

僕は実際にピアノを弾いているみたいに、何もない空間に指を乗せて大げさに空気を振動させた。彼女はびくっと身を震わせたが、すぐに座り直した。

「その宇宙人はどうやって坂本くんの家を見つけたのかしら」
彼女はとても小さな声で尋ねた。

「いい質問だね。もしかしたら彼らの住む世界にも、タウンページのようなものがあるのかもしれない。あるいはテレパシー能力があって、脳波を通じて地球人にアクセスできるのかもしれない。その辺りのことはよくわからない。とにかくまあ、ある日そいつが僕の家の目の前にいたんだ。庭には小型の宇宙船がちょこんと置かれていた。大人しい子犬みたいにね。僕はちょっとへんだなと思ったけれど、気にせず家に入った。当然のことのようにそいつもついてくる。腹が空いてるみたいだったから、祖母が料理を用意してやった。味噌汁と、白いご飯と、鮭の蒸し焼きと、煮物。やつはものすごい勢いで平らげた。言葉はわからないけれど、なんとなく満足そうな様子は伝わってきた。そのあとそいつは風呂に入ってテレビを観て、すっかりくつろいでしまった。見たところ、悪い輩のようには見えない。でも人間の味方なのかどうかもわからない。そもそも正体も目的も不明だからね。だから、困ってるんだ。そいつを撃退するべきか、それともこのまま置いておいてやるべきかってね」

「なるほど…」彼女は考えながら言った。腕組みをして、眉根はますます急角度で寄せられていた。彼女は突然落ちてきた隕石から地球を守ろうとする天文学者みたいに見えた。たっぷり30秒ほどの沈黙の後、彼女は言った。

「私だったら、とりあえず匿っておくと思う」
「どうして?」
「だって仮にも宇宙人なんだよ。もしかしたら、人類なんて及びもしない、うんと高度な文明を持つ星から来たのかもしれない。もし彼らがそういう知識を人類と共有したがっているとしたら、歴史に残る大進歩かもしれない。そうしたら、坂本くんは人類で最初に宇宙人と交流した人ってことになるんだよ」


     僕はしばらく口を開けて彼女の顔を見ていた。彼女はあくまでも真剣だった。ふざけているようには見えない。小鼻がふくらんで、そこから熱い息が出たり入ったりしている。真っ赤な唇はぎゅっと三角形に尖っている。彼女が真剣であればあるほどユーモラスな表情になった。僕はこらえきれず、笑い出してしまった。笑い声がカフェテリアにこだました。彼女はしばらく人の好さそうな瞳を見開いていたが、やがて事態を察して一緒に笑い出した。



「いや、ごめん。騙すつもりじゃなかったんだ。本当に信じるとは思わなかったから」と僕は言った。
「何それ、ひどい!真剣に聞いてたのに!」彼女は笑いながら抗議した。
「もしかして、サンタクロースの存在を中学生まで信じていたタイプでしょう?」
「いくら何でもそれはないよ。まあ、小学校3年生までかな」
「そうなんだ。僕のうちにはそもそもサンタクロースが来なかったから、信じるも何もなかったけど」
「そうなの?」彼女は笑うのをやめて僕の顔を見た。氷の橋の上であやうく足を滑らせそうになったような顔をしている。僕が家族の話をすると、大抵のひとはそのような顔をする。だからなるべくその話はしないようにしていた。でも黙っているのも妙なのでこう付け加えた。
「その代わり、祖母が毎年プレゼントをくれた。手渡しで、堂々と」
「素敵なおばあさまだね」彼女は微笑んだ。
「うん。祖母は嘘が嫌いなんだ」と僕は言った。
「そっか」
沈黙が下りた。空から落ちてくる羽根のようにふわりと。僕はかるく咳払いして座り直した。



「からかって悪かったよ。まだ、君の質問に答えてなかったね。僕が考えているのは『来世は存在するのか』ということ」
「嘘。それも嘘なんでしょう」彼女は口を尖らせて言った。
「いや、これは本当。来世で会いたいひとがいるんだ」
「ふうん」
それは誰なのかと、彼女は尋ねなかった。僕も何も言わなかった。彼女は黙ってテーブルの上の紙コップに手を伸ばした。中身はたぶん、ミルクティーだろう。彼女は紙コップの中の液体を、ひとくちずつ啜るように飲んだ。僕も自分の珈琲を飲んだ。それはとっくにぬるくなっていて、サハラ砂漠の砂粒でも噛んでいるみたいにひどい味がした。安い珈琲には熱が必要なのだということを僕は学んだ。舌を火傷しそうなほど熱いのがいい。けれど珈琲がもっとも熱い瞬間を逃してしまったら、その後はだめになる一方だ。そこにあった何か大切なものが失われてしまう。いや、元々大切なものなどなかったのかもしれない。僕はもう珈琲を飲む気がしなくなって、紙コップの中の黒い液体を見つめた。表面には小さな泡が浮かんでいて、カフェテリアの電灯を反射して虹色にひかっていた。けれどいつしかそれも底の方に沈んでいってしまった。



 それからも、中山伊織とはたびたび構内で顔を合わせた。会うたびに僕らはちょっとしたおしゃべりをした。音楽や授業に関する他愛のない話だ。新しく仕入れたアーティスト名を提供し合うことが、僕らのささやかな決まりごとのようになっていた。

 やがてフランス語テストの日が訪れた。彼女と僕は隣の席に座った。教室の中は学生たちが持ち込んだ埃っぽい空気や、咳や、筆箱を開ける音などで一気に騒がしくなった。やがて試験監督の合図に従って、テストが開始された。大学の授業で学ぶ「フランス語」とアリスの話していた言葉は、まったく異なるふたつの違う言語みたいだった。紙の上に羅列された文字を、条件法だの接続法だのと解析する作業は、とてつもなく奇妙なことに思えた。まるで彼女の躰を切り刻み、躰の部位をひとつひとつ取り出して、これは心臓でそれは大動脈でと、名前をつけてラベル分けしているみたいだった。



 試験が終わり、中山伊織と駅で別れた。街には冷たい木枯らしが吹いていた。「悔い改めよ、神の国は近づいた」と豪語する街宣車が大通りをのろのろと走っていた。街頭ビジョンでは飢餓に苦しむアフリカの子どもたちに関するニュースが流れ、続いてすぐさま3Dのアバターが「クリスマスまでに彼氏・彼女をゲットしよう!」と叫んだ。僕はそれらの騒音を避けるように雑踏の中を足早に歩いた。世界がどれほど混沌としていようと、知ったことではなかった。ふと見上げると、藍色の空に金色の満月がかかっていた。それは気の狂った猫の目みたいにらんらんと輝いていた。


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