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【映画感想文】「ぼくたちの哲学教室」

映画「ぼくたちの哲学教室」を観てきました。

北アイルランド、ベルファストにあるホーリークロス男子小学校。ここでは「哲学」が主要科目になっている。エルヴィス・プレスリーを愛し、威厳と愛嬌を兼ね備えたケヴィン校長は言う。「どんな意見にも価値がある」と。彼の教えのもと、子どもたちは異なる立場の意見に耳を傾けながら、自らの思考を整理し、言葉にしていく。授業に集中できない子や、喧嘩を繰り返す子には、先生たちが常に共感を示し、さりげなく対話を持ちかける。自らの内にある不安や怒り、衝動に気づき、コントロールすることが、生徒たちの身を守る何よりの武器となるとケヴィン校長は知っている。かつて暴力で問題解決を図ってきた後悔と挫折から、新たな憎しみの連鎖を生み出さないために、彼が導き出した1つの答えが哲学の授業なのだ。

公式サイトより

背負った歴史から目をそらさず、真っ向から子どもたちと向き合う先生たちがかっこよかったです。「どんな意見にも価値がある」を地で行くケヴィン校長の、「哲学は思いやりの学問」という言葉に、思考停止している自分の部分を突き付けられた気がして耳が痛くもありました。

問いに対して子どもたちが真摯に向き合っている姿も印象的でした。諦観に基づく嘲笑や揶揄に逃げるような子どもはおらず、空気を読みあうような抑圧もなく、恐れず自分の考えを発信する姿に感銘を受けました。

翻って、この国はどうなんでしょう。正解不正解を決めつけられ、誰のためかわからないルールや忖度に大人たちが縛られて、弱きがより弱きをくじく、そんな姿を見て育つ現代の子どもたちは、生き延びるためにもしかしたら、シニカルにならざるを得ない部分もあるのではないでしょうか。

生きづらさという言葉の実感が残念ながら膾炙して久しいですが、そりゃそうだよなと思うのです。「だって○○(例えばインフルエンサーなどの強者)がこう言ってるんだもん」で思考停止した人々や、ルッキズムという非常に動物的な価値観に囚われてうわべだけを装飾する人々や、はみ出さないように個性を殺すことを是とする空気を吸いあうような人々のひしめく世の中です。息苦しくて当然です。むしろ、そんな薄汚い空気をうまそうに吸うような人間のほうが、どうかしています。そして今は、そんな「どうかしている」人ほど、大手を振って歩いている印象です。

特に学校という閉鎖空間では、「多様性」だの「個性を尊重」だのをスローガンとして掲げておきながら、結局、はみだした子どもたちを全力で排除しています(あくまで経験談ですが)。問題の責任を取れない、取ろうとしない教師はじめ大人たちのみっともない背中を、子どもたちはちゃんと、絶望感をもって見つめていると思います。

映画「ぼくたちの哲学教室」では、子どもたちの成長に伴うさまざまな葛藤やトラブルに真剣に寄り添う先生たち、その先生たちの本気に真剣に応えようとする子どもたちの姿が生き生きと描かれています。言うまでもなく、学問の出来不出来は一切関係なく、「思索する」ことに重きを置いて信頼関係を築いていくのです。そこには、一種の愛の形を見た気さえしました。

もちろん、哲学は万能薬ではありません。しかしながら、自分で考えて行動する、そのプロセスそのものに価値があると思えれば、子どもたちは安心して間違ったりトラブったりして、そこから学びを得ることができるのではないでしょうか。

間違うことを悪として赤ペンで派手に「×」をつけるような教育は、教育の皮をかぶった恫喝です。100点満点の答案用紙からは、なにも学ぶことがないと思うのです。

これはあくまでも私個人の意見や感想ですが(「それってあなたの~」や「はい、論破」的な言い回しは、思考停止の最たるものですね)、対話なき文化は暴力だと思っています。自分と異なる意見の人とこそ、「論破」ではなく「対話」を重ねて落としどころや共感帯を紡ぐことが、人の営みの中で重要なことだと感じました。

私はまず、自分自身の思考停止部分に考えを巡らせることを始めたいと思います。久々に映画館で映画を観ましたが、観てよかったと心から思える作品でした。上映館が限られてはいるようですが、もしもチャンスがあれば、ぜひご覧になることをお勧めします。

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