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喜ばせたいのは人か、自分か

私は昔から、
人の顔色や評価、相手と良い関係を
築けているかどうかが気になる人でした。

といっても幼少期からそういうタイプではなく‥むしろ小学中学年くらいまでは
短期で気性も荒く、怒りだしたら一人でプンプンし、友達の悪口も言ってしまう人。

小学校卒業間近、
ある友達の前で文句を言い、
傷つけてしまいとてつもなく後悔に襲われ。
でも他の人には、
「あなたはとても優しい」とも言われ
自分がよくわからなくなりました。

それからかもしれません。
皆と良い関係を築かなくてはいけない、
人が喜ぶような事をしなくてはいけない。
私の発する言葉や行動が、
相手が望んでいることなのか、
むしろ期待されていることも
瞬時に察して動くようなところが
ありました。

今思えば。
中・高は部活動もしていたけど、
家に帰ってからは
布団へ沈むように寝ていた。
ご飯を食べるためにどうにか起きて
また寝て‥。
いつもぐったりしていました。
相当、外で気を張っていたのだと今では
思います。

そして大学から、心理学を基礎に仕事にしたいと考え、様々な訓練を受けるうちに、
人とのコミュニケーション・パターンとして
私は「人を喜ばせなければならない」
が人間関係の価値観になっていることに
気づきました。
目から鱗とはこの事。
この一言で、自分を現してくれたかのような衝撃があったのを覚えています。

いろいろ元をたどると。
母がそういう人。
でも反面、世渡りはすごくうまいのです。
そして父は昭和らしい人。
いつも私は無意識に機嫌をとっていました。

だからといって
親がどうとか、親に対して何かを思うとか
そういう感情ではありません。

親も親で、必死に社会を生きてきた。
その親のメッセージを、
私は受け取り自分に取り込んできたのだろうと思います。

でも気づくと、
それは私には多少辛く、
いわゆる「人間関係」に疲れやすい思春期を
過ごしてました。

喜ばせたいのは誰か。
そして、喜ばせなければ「いけない」のか。
それを自分の課題として考え始めた時、
すごく体が軽くなるのを感じました。

まずは、私は自身を喜ばせたい。

そして大事な人も、喜ばせたい。
でもそれは「絶対」の義務ではなく、
私自身が満たされて余裕がある時。
また、条件なんて必要ではない、
無償の愛を感じる時。

それまでは外にあった軸が、
はっきりと私の中に光る軸として
浮かび上がった瞬間です。

でも人間なので。
どれが正しいとかではなく、
いったりきたりするものです。
今でも、少し疲れたな〜と気づいた時には
私の中の軸を思い出すようにしています。


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