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玉ねぎの薄皮

自分と向き合うということをし始めると、初めのうちは大きな驚きとよろこびに包まれる。それまで”私”だと思っていたこの私は、本当の私のごくごく一部分であることを知り、それまでほとんど無自覚で知らなかったもっと大きな自分の本質に触れる方法があることに驚き、まだ知らぬ(と思っている)自分を知ることができるという事実に歓喜する。

何せ私たち日本人は”自分と向き合う”ということを学校でも、おそらく家庭でも一度も教わることなく大人になる。

自分が何を感じているかよりも、相手の気持ちを慮ることが大切だと教えられる。
徹頭徹尾、教育がそうなっているから、柔らかくて純粋な子どもであった私たちは、まるでスポンジボブのように教えられたことを”正しいこと”だと自らに刷り込み、それができなかったり、違和感を感じたりする自分が”悪い”のだと思い込む。

”正しい”と言われることに違和感を感じたり逆らったりしたら、この世界(社会)は生きづらくて仕方ないばかりだから、従っておいた方が都合が良いし、抵抗することほど無駄でおバカなことはないなと、いちいちそこに疑問や不快を感じる自分を封じていく。そうしてそのうち、封じたことさえ忘れ去る。

本人は忘れていても、封じたものは封じられたまま、封じられた場所に留まり続け、消え去ることはない。

自分に向き合うことに馴染んでくると、その封じられたものたちが蠢き出すのだ。 まるで自分が仕掛けてきた時限爆弾のように。

最近の私は、まさに、その時限爆弾が次から次へとカウントダウンを始めたようだ。 

私たちは幸せになるために生まれてきて、そこに至るまでに様々な体験をし、そこで沢山の感情を味わうことを、実は自分で設定して生まれてくる。だから、この肉体を持った私にとっては味わいたくないと感じるようなネガティブなことも、本質の私からすると自ら設定してきたゲームのようなもの。だから本来良いも悪いもなく、感じられること全てがヨロコビなのだという。

そんなことあるわけないだろという人もいるだろう。でも私はこの考え方が好きだ。 そうしてこの考え方を採用すると、どうやら本質の私は、人生後半に盛りだくさんに気づきのたねを植え込んだらしい。

時限爆弾のノックが聞こえるたびに、この肉体を持った私は、ひーひー言いながらそこに向き合い、玉ねぎの薄皮を一枚一枚剥がすように本質に近づいていくんだろう。一枚一枚剥がしていった最後にはどうなる?

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