ニュートンとゲーテ「性格」と「強み」㉓(2080文字)
朝晩はだいぶ凌ぎやすくなってきた。食欲の秋でもあるが、読書の秋、物思いに耽るのも「秋の夜長」にうってつけだ。
このマガジンも20回を超え、ボリュームも今回で4万文字を超えた。
ここまでキャラクターストレングス(ⅭS:強み)の下位分類を参照しながら、構成と成り立ちを検証してきたが、今回から、また違った角度からCSの成り立ちを検証していく。
前回まで、下図のように「人間性—知恵」「節制—正義」「超越性—勇気」という関連性を確認した。
これは、現時点ではきわめて直観的な見解で、少なくとも科学的な検証に耐えられるとも言い難い。
しかもここからは、全く未開な「知」を開拓する孤独な作業となるはずだ。そして、先駆的な芸術家のセンスに必要なことは、いつ何時も、
群れない、慣れない、頼らない
この三つだと、ある妙齢の女流画家が言っていたことを想い出す。
さらに、祭りもそうだが、最初に踊り出す「ばか」がいると、その場が和む。これは少し「勇気」のいることなのだが、その最初の「ばか」に率先してなろうと思う。皆が乗って頂くために。
さて、本題に入る前に、もう一度、キャラクターストレングスの要素を確認しておこう。
下図は、それらの配置である。
これを、減色法と加色法の色味に分けて関連性を検証する。
この六芒星を単純に眺めているだけでは、その形が示す奥の世界を見出すことは難しい。ここに東洋の叡智や知恵を導入することで、その形の持つ意味が見えてくる。
東洋医学的には、身体には流注(氣の流れ)があり、心色相関の▲は「手」に、▽は「足」の経絡に属している。実は、これがとても重要な観点になる。
加色法の色味
「手」との関係
加色法▲は、そもそも「光」の下でしかその色味を知ることができない。「光」があることが前提となる。この「光」を出すのは、これから説明するが、「他者」側の光であり、その「光」を授かることから、加色法▲の世界が始まる。
基本的に光を与える者は「他者」であり、「光」を授かる側、それが「自分」である。したがって、「光」を与える者がいなければ、自分本来の色味を確認することができない。
また、私たちは「手」で精神を創造していく。もし、私たち自身が「光」の存在であるなら、「手」こそがその象徴であるとしてもよいだろう。
こうなると、どこぞの宗教教団のようになるが、「手」の存在自体は、様々な機能のなかで、指示したり方向を見出すような、心や精神を表現することがある。「光あるところに幸あれ」この「手」に「愛の光」を感じとることができる。
もし、それができないとしたら、是非感じ取ってほしい。「手」の温かみや「太陽」のように輝くその「手」からほとばしり出る「光」を。
日本語には「手当て」という言葉がある。これは、間違いなく手を触れ、手によって施されるなにがしかの「恩寵」である。
そして、人々は助け合う。このときも「手に手を取り合い」「手を差し伸べる」。
そのとき、人は握手する。この形を表現するなら、自分側から見た「加色法」の▲は、相手側から見ると、減色法▽になって見える。つまり、「他者」に自分が「光」を与えるのだ。
ここに、上下左右の反転が、前後関係をもとに生じている(と、現段階では仮説として解説している)。
「手」は、自分に対し▲を装う。より自分に近い、つまり身近なことを行うのに上肢要素は必要不可欠である。顔を洗ったり、身体を洗ったり、歯を磨いたり、細々したことをするのは全て「手」である。
それを、相手に向けるとき、それは「愛」の「手」となり、相手に「光」を与え、授けることになる。自分から見ると、相手からの「手」は減色法▽となり「光」の所作となる。
今までの復習になるが、それぞれの側面に、どのように関連しているが、マッピングの図を参照し確認しておこう。
これも配置から推測できることであるが、「心」「神」「会」は、「身近」なことに関与することになる。
それは加色法▲が「手」に関与することからも想像がつく。詳細はまた、次の減色法▽の色味の説明を終えた後に行うことにしたい。
次回は減色法▽の色味について解説しよう。
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