『鬼滅の刃』 現代の鬼再び 1心理分析
はじめに
鬼滅ファンの方々には、いまさら物語のあらすじを説明する必要はないだろう。今回「鬼滅の刃無限列車編」公開に合わせて、note 配信する。
今回の note シリーズ 「娯」が、現代の闇を生きる私たちのこころの養生ガイドとしてお役立ていただければ幸いである。
また、いつものようにネタバレの内容を含むため、本編をご覧でない方の閲覧は、ご遠慮いただきたい。
この記事が含まれているマガジン「娯」
1)鬼滅との出会い
ある心理系の女性が、この漫画を絶賛していたこともあり、アニメ全26話(2020年10月16日現在)をU-NEXT配信で鑑賞した。
その後の、漫画最終話までの経緯は、私自身鑑賞していないため、アニメ26話の段階での評論となる。
2)鬼滅にハマる
この記事を読まれる方は、既に「鬼滅」にハマり、正直どの場面に遭遇しても、再生する「鬼」の如く記憶が蘇るはずだ。
今回の趣旨は、特に内面の「自我」に潜む「邪鬼」に絡めた話をしてみたい。したがって、内観的立場から、それぞれのキャラクターの心境を解説する。
そのため、ここでは、漫画やアニメの詳細なあらすじや制作秘話などの外部情報にはほとんど触れない。
本編も一度見ただけだが、それだけで十分すぎる印象を残した。これは、物語の表現手法が鮮やかだったからと回想している。そして「鬼滅」を note にしたためたくなった。
また、原作者、「吾峠呼世春」さんが女性ときいたとき驚いたが、なるほど女性ならではのストーリーラインがちりばめられている。
3)主人公と妹の心理的解釈
主人公、竈門 炭治郎と妹、禰豆子は、単なる兄妹の関係ではない。
心理学的に、炭次郎と禰豆子の関係性は「自我」の構造そのものといってよい。
はじめに、「自我」の構造を把握する際によく利用される、定番の交流分析の見立てを見てみよう。
交流分析の基本的自我状態を以下に示す。ご存知の方は、確認程度で読み流していただこう。
CP( Critical Parent:支配性)威厳的な父
厳しい心。自分の価値観を正しいものと信じて譲らず、責任を持って行動し、他人に批判的。この部分が低いと、怠惰な性格になる。
NP( Nurturing Parent:寛容性)保護的な母
優しい心。愛情深く、他人を思いやって行動し、世話好きで保護的で親切。この部分が低いと、冷淡な性格になる。
A(Adult:論理性)合理的な兄
論理的な心。現実を重視しており、知的で計算力が高く、聡明で頭脳明晰で合理的。この部分が低いと、非合理的な性格になる。
FC( Free Child:奔放性)自由な弟
自由奔放な心。明るく好奇心旺盛でユーモアがあり、自我中心性で自己中心的。この部分が低いと、閉鎖的で暗い性格になる。
AC( Adapted Child:順応性)従順な妹
協調的な心。他人からの評価を気にし、言いたいことを言わずに我慢してしまい、従順で遠慮がち。この部分が低いと、マイペースな性格になる。
以上に、炭次郎と禰豆子のキャラクターを重ねてみよう。
① 炭次郎の性格傾向
基本的に炭次郎は、兄のA的「自我」を持つ。しかし、この性格傾向は、社会性を担うことによって次第に開かれてくる性格である。したがって幼少時の炭次郎にはまだ明確なA的自我が形成されてはいない。また、炭次郎自身の言葉、「長男だから我慢できたけど、次男だったら我慢できなかった」というセリフがあるが、この通り彼はCPも強い傾向があり、人一倍責任感が強い印象をもつ。
これは、特に第一子に威厳的な父親CPの性格傾向が受け継がれやすいからだといえよう。ちなみに第二子はFCが強い傾向がある。
そして、炭次郎には、母親的な献身的で面倒見のいいNP的性格傾向も併せ持っている。実は、このCPとNPのバランスの良さが、彼の性格的な印象を好ましいものに仕立てている。
これは、炭次郎の幼少時のエピソードと関連してくる。炭次郎は幼少時に父親を亡くしている。つまり、彼の父親的キャラクターは、母親から受け継がれているものがある。
特に、心理分析ではよくあるデータだが、母親と父親の関係性が良く、母親から父親が立派な人だったと聞かされながら育った子どもは、無意識的に理想的な父親像を構築する傾向がある。
これは、ファンタジックではなく、実際に起こることである。このようなことから、炭次郎のバランスのよい性格傾向が出来上ったと言えよう。
逆に、父親の悪口を聞きながら育った子どもは、病理的な父親像を構築し、極端に権力を崇拝したり、歪んだ社会像を持ちながら優しさに欠ける傾向が出やすくなるという。
② 禰豆子の性格傾向
AC( Adapted Child:順応性)従順な妹的な性格傾向を持つと考えられるが、もともと、禰豆子はしっかり者で、母性愛も強く子供好きであったことから、母親的NPだけではなく自由な子供FCの性格傾向も強い思われる。
しかし、鬼の襲撃により「鬼化」した心理的変容をどのように捉えるかがここでの課題だ。交流分析的には、もともと妹はACが強く、おそらく禰豆子もそうだと仮定しよう。
何よりも「鬼滅」における心理分析で、一番変容するのは、「鬼化」する禰豆子のACだ。従順であるはずの「妹」禰豆子が、「鬼」に化ける。これは、超絶的FCへの変容とも言える。
③ SC(Super Child)の存在
ここで、「鬼化」を超絶FC、その名もSC(Super Child)と呼称してみる。
交流分析のFCは、性格傾向にユーモアのセンスなど一定の陽性感情があるが、SCは一切そのようなものはない。
SCは、本質の自我を剥き出しにして、自分のしたいことを全うする欲望と、言語化できない情動のみの世界に佇む最も利己的な自我を想定している。
ここでは一つにACに対決するSC的FCという構図が出来上がる。
AC的妹には、従順に人の話を聞く自我があるが、もしその本心が、自分のしたいことを抑圧し、人の言いなりになり、自分をごまかし、自我をなだめすかしているとしたら、いずれその抑圧に耐えきれず「切れる」。
これが「鬼化」の一つの現象だ。
そして、禰豆子が他の「鬼」と異なるのは、「人」を食わないこと。他の「鬼」は人を食らう。そしてこれが「鬼」の最も好む欲望として描かれている。
この非道な行為に、はじめは禰豆子の中でも葛藤があった。しかし、炭次郎の必死の呼びかけで、かすかに残る人の「自己」を取り戻し、人を傷つけたり殺めることは良くないという正義が発動した。
そして、炭次郎の育手(師匠)、鱗滝左近次の「人間を守れ、鬼は敵だ」という暗示により、確実に正義を纏い非道な道を歩まずに済んだ。禰豆子と、他の鬼との最大の違いはここにある。また、ここで掲げた非道や正義については、次回以降で触れたい。
本来、自我の欲求や欲望に対応するのが、A的な自我である。A的な自我は、一般的に言語能力を駆使し、周囲との関係性を構築し、社会的に人格的であろうとする。これは、とても社会生活や人間関係において大切な姿勢であるといえよう。
④ SA(Super adult)の存在
この役割の一端を担うのが、炭次郎の精神にある、家族への想いや禰豆子に対する愛情であろう。
これをSA(Super adult)としてみよう。この自我は最も利他的な自我を想定している。このSAとSCの対峙も、今後の重要な見立てとなる。
過去において現代の鬼ともいえる、酒鬼薔薇聖斗の事件があった。あまり思い出したくもないが、この辺りのジェネレーションから、本当の意味で現代の鬼が侵出してきたのではないか、と感じている。
これについては、「鬼滅の刃」に登場する、さまざまな「鬼」のキャラクターと合わせて、次回以降に解説していくことにしよう。
次回につづく
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