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『哲学』の散歩道 SEASON3 「こころ観のこころみ」 Vol.3(2133文字)

「主」/「客」の相違


「こころ観のこころみ」では、身近な話題を通して「こころ」を見つめ直す、その世界観を提言する。

前回、主観と主体の違いをお話した。

「主観に主体的に関わる」

この姿勢が最も主人あるじに忠実であり、人生の主人公として自分が世の中に関わる最も好ましい姿を表現する言葉だろう。

哲学領域には、「認識論」と「存在論」あるいは、「観念論」と「実在論」と言われる領域がある。

少し表現は異なるが、これらの論争の行き着くところは、結局は「主/客」の観立てなのだ。

学問的に言えば、「現象学」と「科学」のどちらの手法を取るかである。

この論争は未だに続いているのだが、せんじ詰めればやはり「主観」と「客観」どちらが先か、ということだ。

「先」、というのは若干語弊があるが、いずれにせよ物事の本質を掴んでいるのは一体どちらか、ということに他ならない。

1) 「観」を観ずる


この命題に応えるには、ものの見え方や捉え方をいささか巨視的にする必要があるだろう。それは、「木を見る西洋人、森を見る東洋人」にヒントがあるように、言葉が異なれば、考え方や、考え方のプロセスも変化し、結果的に理解にも違いが生じることになる。

「主」には、「主観/主体」があり、「客」には「客観/客体」がある、というのは、日本語を母語とする私たちには馴染みがある。

今回の「主/客」の相違は、それを踏まえた上で、「主/客」それぞれの「観/体」のうち「観」、まずは「主観」「客観」について見立ててみよう。

つまり、より「自分」に「身近」な表現である「観」を主題に置いてみたい。

なぜこのような命題を問うのかといえば、心の構造を知る上で、どのような視座からこころを見通すかで、全く異なる事象が生じるからだ。

以前、三つの側面で、基本四象限という観察面アスペクトの話をした。そのシェーマが下図である。

「観」の主観的な目線は、立体モデルで「知の面(緑の面)」と呼ばれる。

ここは「能力」が現れる面であり、尺度、伝達、表現、蓄積の過程プロセスや可能なこと、つまり用務の「可否かひ」を観る「面」である。世に多くの用事があるが、その全てのプロセスがこの「面」を担っている。

一方で、主体的であるのは、「体」が前提となっているが、果たしてこの「体」とは一体何か。

これは、立体モデルで、「理の面(青の面)」と呼ばれる。ここは「結果」が現れる面であり、精神、心理、社会、身体の「公私」の境界を観る「面」と定義する。

2)主客の構成


もう一度、「主/客」の関係性を見ておこう。主体や客体、主観や客観という日常的に使われる表現を立体的に透視すると下図のような構成になる。

『哲学』の散歩道 Vol.21『思考のこころみ』 命題3 意味と価値と真実(2)

これは、表面的な構成段階であり、もう一つの視座、「主格」が未だ登場していない段階ステージのモデルである。

はじめに「知の面(緑の面)」の「観」に注目する。

言語的動物としての人間は、「個人性と集団性」の二面を持つのみならず、「私人性と公人性」という二面を持っている。ここでいう私人性とは、人前では容易に示しえない私(ひそ)かな感情や理屈のことであり、それは英語のプライベートに対応している。

その逆の公人性とは、人前であからさまに表現し、そうすることによって他者から理解されようとする活動のことを指す。というのも「公」とは、その漢字の形象に示されているように「私」を切り開くことであるからだ。そしてそれは英語のパブリックに対応する。

ここから、さらに立体化して、本来の視座からの眺めをご覧頂こう。

3)「主格」という「主座」の登場


個々人と集団を通る上下の軸を見通す前後軸が現れる。これが本来の視座であり、ここに「主格正面」という「主座」が生まれる。

赤い面、これを「感の面」という。この面は、情動、感情の面というが、他の言葉で表現するなら、「価値」や「欲求」を司る面としてよいだろう。

これが「格」として生まれることにより、同時に「自分」そして「自我」が登場する。

本来の「主/客」を見通す「主座」は、この中心の位置から奥行を透視する方向に現れる景色によって生み出されている。

単純だが、この「主座」が、自分本来の「視座」となる。

したがって、「主格正面」は「視覚正面」と同じ意味だ。

生まれた時から、私たちは正面以外に視線を向けたことはない。視線はいつも正面だ。自らの視線を横から眺めることはできない。自らの顔を横から眺めたことがないように。

このことは、立体的なモノを見通すときに、「かさばり」として感じている部分は、全て奥行をともなっていることに気づかされる。

視覚情報が立体的に見て取れるのは、あらかじめ立体という情報をもとに、「かさばり」の距離的「幅」を自身が認識しているため、視覚に投影されているモノが立体として映っているのである。

この奥行の話は、最終的に「主/客」に関与してくる。


奥行にはいつも「時間」が入り込む。これにより、見るものの「主格正面」に、奥行だけがもつ、独特の空間が生まれてくる。これは単なる距離ではない。それが、「次元命題」にも関係するのだが、このお話はまた次回。


つづく







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