見出し画像

『哲学』の散歩道 SEASON3 「こころ観のこころみ」 Vol.4(2236文字)

哲学の散歩道 season3「こころのこころみ」では、身近な話題を通して「こころ」を見つめ直す、その世界観を提言する。それは、主観と客観の景観、主体と客体の正体のそれぞれを見出す作業だ。


「身体」と「精神」


1)「主/客」の「境界」


「こころ観のこころみ」Vol.1にて、「身体」の熟語から「身」と「体」の間に「主/客」の境界の存在を見出し、主観/客観、主体/客体の導入として「身体」という語彙を挙げた。今回は、図説を交え、そのポイントをもう一度確認しておこう。

自覚が開く段階に応じて関係性は次のように展開いていく。

①客体に触れ
②主観を感じ
③主体に働き
④客観を知る

① 客体に触れる

私たちが、自分がある(あるいは居る)と感じる以前、つまり自覚がない乳幼児期は、視界に映るすべてのものは自分の体と判断し、自分とモノの境界は不明瞭である。たとえばブランケットをかじっても痛くはないが、自分の指をかじると痛い。このような刺激により初めて自分の境界を認識していく。最も身近な客体は自分の「からだ」が境界であり、体の触覚をもとにボディイメージが出来上がっていくため、自分の「肉体」が最も身近な「客体」の境界となる。

② 主観を感じる

そして同時に主観が育つ。幼年期は主観を育てる時期に生きている。そのものになりきりファンタジックな世界に没頭できる。海賊ごっこをすれば、キャプテンになりきれる。これが主観を育てる時期に必要がエッセンスだ。この時期は、ベースともなる(こころ)の感受性が深まり、主体を形作る土台ベースが創られる。

③ 主体に働く

そして、主体に働きかける時期を迎える。主体とは単に「自分の体」のことを意味しない。日本人であれば、主体を単に体を示す語彙とは受け取らないはずだ。「主体的であれ」といえば、それは自分自身が関わる方法としての「精神」や「意志」のことを意味する。こうして「主観」から「主体」へ意識が移っていく。

④ 客観を知る

最終的に客観を知るとは、相手の身になって考えられるようになることだ。そして、他者からみた自分を感じ取れるようになること。そのような意味合いがある。これに至るには、様々な視点を総合した見立てが必要になることは間違いない。主観という自らの視座を確立し、この視点を観出みいだすことができる。つまり深い「自覚」に至ることでもある。

2)図解「主/客」の境界


今回は、図説を添えて解説していく。
下図は「思考のこころみ」Vol.21 1)それぞれの『観察面』(基本四象限)で示した図である。

①~④の見立ては、私人性の側を手前に置き、上から眺めると下図のようになる。上の立体図と下の平面図を見比べてほしい。

順序は右から①に触れ、②を感じ、③に働き、④を知る、となる。

初めて触れるモノを感じ、その動きや働きを見て、仕組みを知る(分かる)のである。右下の赤い矢印は、初めての導入インプレッションであり、とても重要な「場」だ。

「こころ観のこころみ」の「身近」なことというのは、この「場」のことである。

ここに「精神」と「身体」という二つの語彙をマッピングすると下の図のようになる。

客体に触れるのは、肉体「体」から「身」における作用であり、そこから、主観に移るには「身」から「精神」の「精」、つまり意志や指向性に訴え、主観が「精」を生み出し、より主体的に働くようになると、公の場である客観を観る「神」の領域へ移る。

どのような観立てでもよいのだが、結果的に最も身近かな「場」とは、下図に示すように「身」のところにあるため、全体を45°時計回りに傾け「身」を最も手前に置いてみよう。

身近な問題は、いつも「ここ」で生じている。①触れて、②感じる。

触覚は全ての感覚の原初である。触覚のみならず、聴覚や視覚、味覚、嗅覚は、物理的に何かが触れて生じる。これが「我が身」に備わる一連の感覚器の正体である。

最終的には、下図のようになる。はじめの見立てでは、左下にある薄い矢印の位置、主観的から客観的に中心軸があったが、本来の中心軸は、「身」に近いところから始まり、「神」を貫くライン、それを「自分軸」と表現する。

ここで、「神」ってなんだ? という御仁がおられると思うので、非常に簡単に一言で説明しておこう。これは、ひとつは「人格」のことである。

霊長のおさ、私たちが霊長のプロとして、霊にけた存在であらんとする格調高い「人格」を指す語彙である。最近は、何かに秀でた行動ができる人に対し「神対応」などの言葉があるように、まさに、霊に秀でた行動や言動を示す語彙なのだ。

「格」とは「格調」のことであり、この「場」には「神格化」した「人格」「霊格」が入るのである。

このシェーマから単純に、「精神」の「精」と「神」の間にも、「主/客」の境界があることがわかる。

「体」は「身」を通して客体から主観を生じ、「精」は「神」を通して主体から客観を生じる、ということができる。

はたして、構造的な理解が深まっただろうか。

ただ、この構造は、「個々人」の領域のみを示しており、まだ半分である。あとの半分は「集団」を意識した展開が待っている。

この展開には、前回示した「主格正面」=「視覚正面」に最終的な「あるじ」が出現する。この「主格」が何をベースに生じるかを観立てていくと、本来の「主/客」の関係性が見えてくる。

次回はその辺りから解説をしていこう。


つづく



ここのコメントを目にしてくれてるってことは最後まで読んで頂いたってことですよね、きっと。 とっても嬉しいし ありがたいことです!マガジン内のコンテンツに興味のある方はフォローもよろしくお願いします。