『鬼滅の刃』 現代の鬼再び 3剣士の自我
この記事が含まれているマガジン
今回は、善逸、伊之助の物語上の役割について、心理学的な観点から話をしていく。はじめに、物語から読み取れる過去の生い立ちや経緯から、二人の性格傾向について触れる。
1)善逸の自我
善逸のキャラは、非常に怯えやすく、恐怖を前にして慄き、絶叫する。いうなれば単なる「ヘタレ」だ。
作品ではこれらの感情を極端にコミカルに描く。おそらく原作者も本能的に描いているこの演出は、結果的に陰性感情に対する好転作用が生み出されることになる。そして、善逸の隠された能力との「ギャップ」を生む。
一般的にシリアスな恐怖シーンは、主観的な陰性感情に入りやすく、ネガティブなスパイラルに嵌りやすい。人間の恐怖との対峙は、極めて深淵な課題であり、後にも述べるが克服することが非常に困難なことが多い。
このような場面で、大袈裟にコミカルタッチの笑いを意識することで、恐怖という主観的には深刻で対峙しにくい感情を、客観的(自分にはあまり関係ないよう)な心情に修飾できる。
これにより非常にマジカルな心情的変換を見ている者の心に与える。なにもそこまで深く洞察しなくとも、と思われるかもしれない。
そう、このような手法は、今までの漫画やアニメにも多々あった。しかし、ここでもう一つ重要な要因がある。善逸の内面の心境と、「伊之助」との対比である。これは、後ほど説明することにしよう。
このような手法は単純に、気分を転換する作用だけでなく、見ているものに「そこまで怖がらなくても・・・笑」と、心に余裕を生みだし、恐怖の対象におののく性格さえも好印象を与えるようになる。
人は、自分自身が本当に恐れをなすものと対峙すると必ず怯む。大概の人は、自らの恐怖にまともに向き合おうとはしないし、向かうことができない。
しかし、このこの物語で、恐怖におののきながらも、みっともない姿を見せながらも、たとえそこから逃げようとも、周囲の人の支えで、最後まで逃げない「善逸」の姿を見る。
その弱さを描くことで、本当の恐怖に立ち向かう意思を何処に据えるかべきか、恐怖に対峙する本来の心根の在り処を教えてくれる。
それは、剣士に育てた「爺ちゃん」が言い続け、彼の心に奥深く彫り込まれた言葉、「逃げるな」「諦めるな」にある。この逸話が、恐怖と対峙する方法を間接的に穏やかな語りとして私たちの心に深く刻み込まれていく。
シリアスな場面に、笑いや頓智を効かせて如何に真意を伝えるか。お釈迦様でも難しいこの課題に、原作者が意図的に表現しているわけではないにしても、これらの手法で、恐怖を克服する過程を、深刻から真剣さへ映し換えることができる。
そして、恐怖に対峙する真剣さは、勇気や精進、誠実さや努力、謙虚さや希望を見る者の心境に生み出してくれるのだ。
恐怖はまた、自信と信頼に大きく影響される。
善逸は、自分に自信が持てず、非常に自己肯定感が低い。そもそも自分自身への信頼がない。無意識の中まで真っ暗闇の状態が彼の心情なのだ。親も、たよる親戚もいない身の上。その身一つの「善逸」を、「爺ちゃん」が諦めずに育ててくれた。
その恩義に一矢を報いたい善逸だったが、どうしても怖がりだけは治らなかった。全てを投げ出しそうになり、弱気になった善逸に、「爺ちゃん」はこう言った。
「一つのことしかできなければ、
それを極め抜け…
極限の極限まで磨け…」
その言葉を噛み締めながら、鍛錬の時期を乗り越え一つのことを極める。一を聞いて十を知る。世の摂理の全てはつながっており、一つのことを極めれば、必ず周囲にも関わりのあることが見えてくる。
鍛錬の最中に雷が落ち、髪の色が変わるエピソードがある。※彼の必殺技も「雷の呼吸」となる。
それは、無意識のうちに放たれる一撃、霹靂一閃。超人的な能力を持つ善逸の一撃。こうなると無意識の解説も必要だが、紙面の関係で今後触れることにしよう。
このギャップ感が、超絶に善逸のキャラクターを輝かせている。
2)伊之助の自我
一方、伊之助は、特攻的で衝動性が強く、 「猪突猛進」の一言で、イノシシの如く突進する。好戦的で負けず嫌い、単独行動を好み協調性がなく、判断も超ドストレートで野性的、怖いもの知らずの無鉄砲。
それもそのはず、彼は幼少時に止む無く親に捨てられ、野生動物に育てられた経歴を持っているようだ。
受容的より反応的で、特に驚愕センスに反応しやすい。
「すんげー、なんだそりゃ!!俺もやりてー!」
そして、負けず嫌いの性格も重なり「俺もできる」と力を鼓舞する。
しかし、イノシシの仮面の下は、その性格や身体に似つかわしくないほど、色白で女の子のような風貌。これはギャップを狙ったものなのか、その意図は原作者に尋ねるしかないが、善逸の場合と同じように、シリアスな感情を抑え、ギャップを持たせることで、より客観的に怒りを観ることが出来る。
竹中直人さんの「笑いながら怒る人」も、ある意味で同様である。
驚愕に反応する感情は、大抵、怒りや恐怖になる。伊之助の場合の多くは「怒り」を伴う。一番であることで自分が満たされ、他から命じられたり、指図されることが大嫌い。
命令とは大概、そのエッセンスに怒りを伴っている。「怒る」というと相手を威嚇、攻撃する印象が強いが、命令は、「静かな怒り」といっていい。
たとえば、医療現場の指示を「命令」とすれば暗黙に、確実な遂行の徹底を意味する。そこに偽りや誤魔化しがあってはならない。
それが指示通り遂行されず誤りがあったら、どうなるか。指示した側に、怒りの感情が湧いてくる。
ただ、ここで受容的に対応するならば、なぜ指示が守れなかったか、人の問題かシステムの問題か、次なる問いが発動される。これにより、エラーそのものに主題に置かれ、単に人を攻める反応的な感情が前面に出ることはない。
これが高次の自我(真我)を持つ人の対応だ。
しかし物語初期の伊之助はこのようなことにはならない。常に反射的排他的自己中心的な対応に終始していく。
ある意味で、とても分かり易い性格ではある。しかし、物語が進むにつれて、対話的になり最終的に共感性が高まり受容的な態度になる(はずだ)。
特技として、空間認識的なスキルを身に付けて「鬼」の居場所を探知できる。
3)善逸、伊之助のコンビ
この全く違った性格傾向も、推し量ったかのような両極の性格的自我構造を持たせることで、主人公を絡めた登場人物の、精神力動的な抑揚が印象付けられている。
善逸は恐怖、伊之助は怒り。コミカルなシリアスマインドが両方のキャラに付属している。そして、善逸はもう一つのネガティブ感情に嫉妬がある。
無性に女の子好きなキャラで、異性に対する態度も極端に描かれる。この反動で、同性の恋敵などの場合、極度な嫉妬心を生み出してしまう。
伊之助は、共感力というポジティブ感情が育つところが描かれる。第十六話「自分ではない誰かを前へ」で本人も、
てめェェ!!これ以上俺を
ホワホワさすんじゃねぇぇ!!
他人から褒められたり共感や共鳴的感情を受けたことがなく、このような場面での心境の変化を、原作者は細やかに表現している。
ここまで、善逸と伊之助の心理的側面を解説してきたが、心境設定にしろキャラクターデザインにしろ、どう見ても出来すぎといえるほど心の内面構造を上手く表現している。
「こころの立体モデル」に図示すると、善逸と伊之助の心理モデルが非常に対比的であることが理解できる。
善逸は、嫉妬が多く本当の喜びがないところ、伊之助には相手に対する悲哀や本当の共感がないところなど、ネガティブ感情が引き合いに出されているところが、感情の起伏を表現しており、両価的な心境を見事に表出させていることが分かる。
これらの感情が、それぞれ対峙する関係である。
今回は、「家族愛」については書けなかったが、次回、「偽物の絆」に出てくる「鬼」、「累」をモチーフに家族愛の心理的側面を見ていくことにする。
次回へつづく
ここのコメントを目にしてくれてるってことは最後まで読んで頂いたってことですよね、きっと。 とっても嬉しいし ありがたいことです!マガジン内のコンテンツに興味のある方はフォローもよろしくお願いします。