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『愛の美学』 Season3 エピソード 3  「愛の表現」(3418文字)

このシリーズでは、『性知学』という新たな学問領域を提唱している。フィロス』とは『ソフィアである、の示すところを、私たちが抱えるエロスの課題を通して、『愛』の本質を知ろうというこころみである。

今回の『愛の美学』 Season3 エピソード3「愛の表現」は、私たちが普段使用している基本的なコミュニケーションに必要なツール、「話す」「聞く」「読む」「書く」の中で、表現に関与する「話す」「書く」について話を進めていく。


「表現」の手法は、集団に対してどのようにアプローチするかを見れば明らかなように、コミュニケーションツールは圧倒的に「話す」「書く」によるものであろう。

動物も、異性に対し、様々な表現を使っていく。

鳥類にとっては、その豊かな色彩を異性へのアピールに利用するものもいる。また、ウグイスのように「歌声」を競うものもいる。昆虫も「鳴き声」(正確には羽をすり合わせ発する音)であったり、蛍のように「光」の認識であったり、実にさまざまな「表現」を使い、日々異性との繫がりを求める壮大なドラマが繰り広げられている。

この中でも、鳴き声は、いわば「話す」ことに関係しているし、色彩や光は、一種の「認識」であり、これらは特別に用意された「カリグラフィー」の一つと考えれば、その表現が「書く」ことの原初とあまり変わりはないようにも思える。

人間は「恋文」を「書く」ことにより、相手に気持ちを伝えるのであるが、その原初は、思いを伝えることに特化するならば、象徴的な絵文字、例えば「ハート」ひとつでも一つの愛の「表現」になり得る。


しかし、そうはいっても、甘い言葉や、素敵な文章で異性の気持ちを魅了するのも、鳥や虫が果てしなくある表現法の中から、一定の方法を選び出したように、人間のいとなみの中から生まれた、愛すべき表現方法なのだ、ということも事実である。

この愛の読本は、よりスマートに愛を表現したり、その方法を身に付けたりするハウツーを深める方法論ではない。「愛の表現」そのもの、つまり「表現」自体が「愛」そのものであることを「問う」ことにある。

そして、どんなことでもそうなのであるが、このこと(つまりそれ自体が「愛」である)を「問う」と、必ずついて回る課題が頭をもたげてくる。おそらく、全ての取り組みがそうであるように、そこには何らかの「動機モチベーション」が備わっているという事実だ。

いつもこの課題は、物事を成し得るときに、その筆頭に掲げられるのだが、ひとつの意欲、意志、あるいは望み、願望、そのような心根の「動き」が伴っている。「表現」の前に、愛の源泉が何処どこからくるのか。そして、これら願望や意欲は、少なからず「価値」と結びついてくることになる。

この話は、言葉は違っているかもしれないが、常に「愛」という抽象的な言葉を説明し、あるいは修飾するときに、必ずといっていいほどついて回る。言語活動が、「尺度」「伝達」「表現」「蓄積」と巡るように。

また、この「価値」という概念自体も、いささか厄介な解釈を必要とする代物である。「価値」と言った瞬間に、そこには何らかの「評価」や「判断」が迷入することになるからだ。「愛」は「無私」「無欲」である、とするときに、このような解釈は、当てはまらないとする意向もありうるだろう。

だが、「表現」は開花だ。成功しても失敗しても、その価値に差はない。真の愛に目覚めたとき、それは、全てが唯一無二の出来事であるから、比較の対象というものがない世界へと誘われる。また、単に循環、あるいは回転の中から生じてくる「流れ」の過程プロセスであると受け止めることもできる。

この感覚は、一種特異なのであろうか。

そう、特異であるからこそ、この「表現」のクワドラントの大奥には大きな陰性感情が表出することがある。

それが、高次の二次的な陰性感情の「嫉妬」である。

一つのつまずき(トラップ)とでもいうのだろうか、他と比較し評価する。この評論的な手厳しい判断が折り重なり、軽安な心根は鉛のような重圧感に苛まれることになり、天使の羽も、天女の羽衣も身軽さを失うことになる。

世にいう、天使と悪魔の会話が成立する場目にはうってつけの舞台設定が出来上がっている。「隣の芝生は青い」そんな言葉をよく聞く。はじめから見えなければ、見なければ、知らなければ、そんな想いもしなくて済むのに、ついつい隣と比べて、相手を妬み、自分を卑下してしまう。

そんなことがこの「表現」セクションでは数限りなく行われている。
その理由は、この「領域」が見れば分かる自明な世界だからである。表現とは、ある意味白日の下に晒す行為をいう。私たちが「見る」という行為を通して、共通認識や了承をする明白で確実な領域だからである。相互理解、集団の中での承認など、皆が大好きな、承認欲求がもたらされるのも、この「表現」の領域に跨っている。

感情の原初の反応に対するお話は、以前、受容にまつわる部分でその流れをお話した。幼少期から大体13歳くらいまでには、基本的な感情のマインドセットが完了する。つまり、この世の中への大まかな構えと姿勢というものが確立してしまう。

あまり、強調していなかったので、ここで触れておくが、この嫉妬や虚栄心や承認欲求というものには、ひとつの明確さや、確実性が担保されていることに考えを巡らせていただいてもよいだろう。

乳幼児期に、うんちのお世話、おまんまのお世話、おねんねのお世話、この三つの基本的なお世話により、他人からの安心感や承認が十分に過不足なく与えられ、それが素直に身についたとすれば、精神状態も心身のバランスもそう簡単にはオカシクならないのである。

この辺の理論は、既に何回か触れているが、人間の心身の調整が乳幼児期の自我の核が形成される以前の無意識の段階から、基本的な生理的欲求に対するお世話をされることにより心身の安定化が図られ、永年にわたり欲求に対する基本的な姿勢が培われていくことは、誠に灌漑深いことといえるだろう。

このように、人間的な対応に終始すれば良いのだが、オカシクなる場合は、もう一つの陥穽かんせいがある。これらも、同時になされる可能性もあることだが、それは、恐怖を煽ること、さらに怒りに対する感情、そして不安に陥らせることである。つまり虐待であったり、ネグレクト、無視するなどの対応だ。

「愛」の役割というのは、「ずーっと見続けること、つまり観察」であった。言葉の成り立ちから言っても、愛という意味を理解する上でも非常に分かり易い。これらのどこかがオカシイと、どこかからしわ寄せがくることになる。

ここまでが、一般的な「愛」の理解によって許容できる範囲の段階であろう。

ここまでは、極めてまともな解釈であり、一連の発達論的な解釈から構築された「愛」を理解する論拠を否定する必要はない。

しかし、この解釈はいわば狭義の「愛」の解釈に過ぎない。もう一歩深めたところに本来の愛の生息する「場」がある。

つまり、良き方向に進むという、いわば「予定調和」的な見通しとでもいうのだろうか。このような科学的な発達段階やネガティブ感情などの例を散見しながら、結局は、いい子と悪い子を見定め、このようにすると「良くない」と、それらの対象は常に評価され、また、このような評価に基ずくが故の罪悪感の温床を生むことがある。

それらをも包括するための一つの答えが次の段階の「赦し」である。

これは次回の「愛の蓄積」のところに関与してくることになるのだが、「表現」にも通じるので、導入的に記しておいてもよいだろう。

もとより、このマインドは、最終段階のオーヴァーマインドが、あることを指し示すために介入してくる段階で理解できるようになる。

愛の言葉の理解にもレベルがあるように、愛の対応自体にも段階的な理解に伴う把握の過程が存在する。

ある事と言うのは、単純なことなのだが、そのことが心の底から分かると、本質的な「赦し」が発動し、表面的な対応に終止符が打たれ、「愛」をより深く理解できるようになる。

この問いは、再び「価値」についての課題を私たちに投げかけてくることになる。この「赦し」は、単なる「許し」ではない、ということだ。

次回は、この「ある事」を中心に、「愛の蓄積」に何が生じるのかを見ていくことにする。


つづく



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