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『愛の美学』 Season3 エピソード 4  「愛の蓄積」(3696文字)

このシリーズでは、『性知学』という新たな学問領域を提唱している。フィロス』とは『ソフィアである、の示すところを、私たちが抱えるエロスの課題を通して、『愛』の本質を知ろうというこころみである。

『愛の美学』Season3 エピソード 4  「愛の蓄積」

「蓄積」は、言語ツールで言えば「書く」そして「聞く」ところにあたる。今回は、言葉のツールについてはあまり触れないが、たとえば「書物しょもつ」としてカタチに残るもの、あるいは話を「聞いて」記憶に残るもの、すべてを「蓄積」と考えてよいだろう。

1)自然界の求愛と「告白」

自然界は、秩序の世界にあり、その姿は完璧に表現されている。

この言葉を、文字通り受け止めるなら、どの求愛行動も完璧であり、たとえ最終的につがいにならなくても、それは結果として完璧な姿なのだ、ということになる。

事実、そうなのであろう。

クジャクの羽もウグイスの声も、蝉もコオロギも、その完璧なフォルムに自然界の真理と美しさを備えており、ここから求愛という行為が始まるわけだ。

これら全ては自然な流れに沿って行われる。そこには完全なフォルムがあり、それが欠けたり、なかった場合は当然、選ばれることなく結果的に自然淘汰される。

一方、人間の場合はどうだろう。意中の人に告白し、もし断られたら・・・。自尊心は傷つき食事も通らず全てのものは色褪せ、消えてしまいたいと思うかもしれない。好きな人を想えば思うほど、断られたときの「切なさ」が身に染みる。

これが自然界の完璧な姿だと言い聞かせてもただ落ち込むだけで、そんな上辺の説得は毒になり得てもクスリにはならない。

ところが、ある事が分かるようになると、この心境は変化する。それが何であるかは人によって異なるが、その変化の兆しはまず「蓄積」に顕われる。

普段から、いちいち愛とは何か問うことはないだろう。

もちろん、そんな問いの答えが見つからなくても、経験は心に残る。そして次第に失恋も「愛」なのだと分かるようになる。だが、はじめからそんな簡単には納得できはしない。もし初めから納得している自分がいるとしたら、それは単なる痩せ我慢か、本当に「スキ」ではなかったのだろう。

2)「愛」と「スキ」の違い

以前も触れたが、私たちが「愛」と感じている感覚は、たいていが「スキ」という感情をもとにしている。

この、「スキ」は、感覚的に「己」のエゴであることが多い。わが身が張り裂けるほど「スキ」な感情を、あえて表現するなら、とくに「身」が前面に出てる状態とでも言おうか。

日本語で言えば「身勝手」「身のほど知らず」「身のたけ」などの言葉があるように、それは、「自分」が「己」を通して見た自己の表現だ。

しかし、このような身勝手さは、人間のあるべき姿でもある。ことさらにそれを悪くとらず、むしろ「イヤ」という自己主張や、「自愛」の念に気づくためには、「身の丈」に合う自己感覚は必要不可欠だ。

この「身の丈」の自分を見るには、身の回りを客観的に見定めていく「フィールド」がある。それらが、周囲を取り巻く六つ(正確には七つ)の項目エレメントである。
(※「身」の後ろに「理」が存在し、全部で七つの項目エレメントがある)

項目エレメントフィールドの違いについて:それぞれを構成された項目エレメントとは、「身」「体」「精」など一つひとつを指す。フィールドとは、それらの結びつきも含め全体を指す表現。

これらの構成には「記憶」が深く関係する。この「フィールド」には、過去の様々な「愛情」の欠片かけらが蓄積している。

親から育てられた記憶の多くは、下の「社」に蓄積される。この部分には、失恋などの失敗をしても回復力レジリエンスを持ち得るか、貯金のようなシステムが存在する。

私たちは、過去の出来事から様々なことを学ぶ。そしてその時々ときどきの心境を記憶し、その後の判断材料とする。「知の面」(緑の面)にある、「伝達」「表現」「蓄積」は、最終的に「蓄積」で記憶として残る。

ここでもう少し構造的な話をしておこう。

先ほども触れたように、「尺度」から始まる「言葉の構造」は「知の面」(緑の面)の4つの象限クワドラントにマッピングされる。

同じ構造図を下に示す。「尺度」は「精・身」、「伝達」は「神・体」、「表現」は「理・会」、「蓄積」が「心・社」である。
(※「理」は「身」の後ろに隠れて見えていない)

上図の右下の赤い矢印の方向から見た図を下に示す。

蓄積は左下の象限クワドラントになる。そこには「心・社」が入っている。「心」は「心境」や「心象」が映り込む部分である。

最終的に、この心境をグレーの曇り空から、クリアーライトの光の下にいざな転換点ターニングポイントは、「社」から「心」、そして「会」の部分にある。

構造的に、下にある「心」「社」「会」の三つに「自分」が納得できたとき、ことわり」が見えてくる。この「理」は、周囲の全ての「フィールド」を改めて自分なりに「理解」する関係を結ぶ。この時に、 「苦悩」を肯定的に捉える作業を通し、周囲各々六つの「項目エレメント」の評価が相対的にポジティブなものに変化する。

最終段階として、当然「人格」の変容も生じるだろう。そうなれば「神対応」もできる、だろう。

3)「愛」と感情の旅

「陰性感情」の「悲哀」と「嫉妬」を感じることで「悩み」が表面化してくる。それを白日の下に晒し身を挺して受け止めることで「悩み」から解放されていく。一つの「悩み」からの開放は、「悲哀」や「嫉妬」を克服したあかしである。

しかし、そう簡単に「受容」は生じ得ない。それは段階的に、あるいは山を登り谷を降り、そのような繰り返しの中で次第に生じてくるものであるからだ。もし、この「心境」に至れば、「イヤ」の次にみられる原初の「恐れ」をも克服することができる。その部分は「精」であり「愛」であった。「嫉妬」は反応的な「スキ」感情の裏返しである。このことが分かると本来の「愛」の感覚も蘇る。

以前、陰性感情の詳細については、エピソード6「愛の心象」で触れたので、今回は、陽性感情の詳細について解説しよう。

右下の六角は、ポジティブ感情を示している。三大ポジティブ感情として、喜び、共感、肯定という感情がある。これらの感情は、基本的にネガティブ感情より、より高次の感情的認識が必要だ。転換点ターニングポイントは、「肯定」だ。物事をある程度、肯定的に捉えることができるか。さらに高次の感情には、辞譲じじょう惻隠そくいん免赦めんしゃがある。

この段階に至るには、当然のことながら、さまざまな経験を必要とするだろう。しかし、その経験を振り返ってみたとき、少しでもよいので物事を肯定的に捉えるような余裕やゆとりをもつことが大切だ。

つまり「苦悩」に至ったとしてもそれを肯定的に捉える努力をすること。すると、この段階では、辛うじてではあるが、他者と共感することができるようになる。

この感覚は、本来の「喜び」というより「喜悦きえつ」、自分だけでえつにいる状態ではあるけれど、それを自分自身が素直に「共感」できるかにも依る。

① 肯定的な対応(良いところを見る)

② 共感が得られる(自己との共感性)

③ 悦びから喜びへ(自己から他者へ)

初期段階の①肯定感は、取ってつけたような薄っぺらいもので構わない。それが、自己との共感性(自分なりの納得)を生じることによって、悦に入る心境に至る。そこで、さらに他者からの助言や肯定的な言動により、②の共感性は他者への共感へと開かれていく。そして、③の「喜び」も自己から他者へと分ちあえる「喜び」に変容する。これら三つの総合的な受容力によって、次なる高次の陽性感情の処理段階に進む。

高次の陽性感情④は辞譲じじょうである。簡単に言えば心に余裕が生まれ、相手に譲る心が生じる。さらに、惻隠そくいん、相手により寄り添う気持ちも生まれてくる。最終的に陽性感情の真骨頂である、⑥「免赦めんしゃが姿を顕すことになる。

上図の高次の陽性感情における中央の黄緑の球は、単なる「身」ではなく、より高次の「身」、しいて言えば「親身しんみ」なのかもしれない。物事を自分事のように、「親身」に考えらる「身」を持ち得るようになる。

今回見てきたように、これらの感情は、陰性感情から陽性感情を巡る長い旅路の末に再び「身」に戻ったとき、一回りも二回りも成長した「身」になっているだろう。

「身に付く」というのは、まさにこのことを言う。このような自分の感情の旅路を知ることはとても有意義なことだ。

そこに大きく関わっているのが、「蓄積」であり、全てにおいてそれは「記憶」と繋がっている。記憶とは「愛」からくる。

その内容は問わない。それを評価するのは、「自分自身」だからだ。


つづく









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