小説『コペルニクス的転回にチョコレートを』

コペルニクス的転回にチョコレートを
 (登場するイベント会場とチョコレート菓子は実際に存在します。またチョコレート会社とデパートの回し者ではありません。作者の趣味全開となっております)星空ヱトランゼ様主催のアンソロジー、『心に溶ける合同誌【Melt Book】』に収録されていた作品です。


 二〇一九年一月関西某所 二三時半頃


 日付が変わる直前、狭い部屋で地道(じみち)裕(ゆう)は携帯に喋りかけていた。その画面には流行りのスマホゲーム『明けない夜』が表示されている。内容はいわゆる鬼ごっこで、一人の追跡者と四人の脱走者による捕まえるか脱走するかというものだ。脱走者が逃げ切るにはパスワードを手に入れる必要があり、そのためにはアイテムを解析しなくてはならない。解析している脱走者を捕まえる追跡者、追跡者から仲間である脱走者の奪還がハラハラさせ、このゲームが根強い人気を誇る理由なのだろう。
 裕は『明けない夜』と同時に通話用アプリを起動させて、友人たちと喋りながらのゲームにふけっていた。
 これが外面を良くしすぎるせいで、ストレスを溜め込みやすい裕にとっては至福の時間である。家という落ち着ける空間で、気の置けない友人と楽しくゲームができるなんて!それも酒だって飲める……適量を守ることが勿論大事だけれど。そう思いつつ、裕は一口ビールを煽った。独特の苦みが口の中いっぱいに広がるのを感じる。旨い。
『追跡者、接近中。俺がこっちで引き付ける』
 淡々としたトクさんの声が、エアコンの稼働音のみが響く部屋に通った。篤(とく)介(すけ)、通称トクさんこと中江篤介は今ゲームをしているメンツの中では最年長で、年季の入ったゲーマーである。最近嵌っているゲームについて尋ねたところ、七十五年前のヨーロッパでスナイパーをするというものだった。裕は時代背景的に突っ込んではいけないものを感じて、適当な相槌を打つにとどめた。
『じゃあ、追跡者はトクさんに任せますね。僕は鍵でゲートを開けます』
 強い口調でヨッシーこと義(よし)仁(ひと)は言うと、ゲートの方に一目散へ駆けていく。状況判断の上手い義仁は判断力が高く、頼りになる。逆に言えば、勝利条件を満たすことができないと思ったら、仲間を囮にしてでも引き分けに持ち込もうとする。……全体の利益を優先するっていえばいいのだろうか。得意なのはFPS。ゲームの世界では『最大多数の最大幸福』を実現しているタイプだ。現実世界ではそんなことはない。そうだったら、口も利かないだろうと思う。
『ねえ、ユー!あたし達どうすればいいのかな……?』
 不安げに訊いてきたのは通称茜(あかね)こと八王子茜だ。声から戸惑っているのは十分に伝わるが、茜のPCは無表情に焦点の合わない目で裕をみているだけである。いつもやっているゲームは可愛いキャラクターを育成するもの、自分の村でのんびりと虫取りや魚釣りを行うものである。気に入ったらかなりやりこむタイプで、村には茜の作った立派な建築物がいくつも建っていた。ついでに血飛沫が飛ぶようなホラー系はNGであるらしい。この手のゲームは不慣れなようでアワアワと走り回っては、度々追跡者に捕まっている。
「茜はヨッシーについていって!私はトクさんの状況を確認しつつそちらに向かうから」
『分かった!』
 茜は元気よく返事すると、障害物に肩や足をガンゴンとぶつけながら駆けて行った。……ヨッシーと茜が脱出できた時点で引き分けに持ち込めるし、自分かトクさんが脱出した時点で勝利できる。このまま追跡者を妨害しつつ四人で完全に逃げられれば……。


『あの追跡者マジ強かった……あー、悔しい。あれで引き分けは悔しい』
 でも楽しかったねえ、という朗らかなトクさんを裕は羨ましく思う。でもそんなことは直接言わず、ゲーム画面から目を少し逸らしてひっそりと吐息を零すに留める。こんなこと言ったところでどうなるわけでもないし、場が白けてしまったらみんなで折角時間を合わせて集まったのが無為になりそうな気がしたからだ。
 如何せん、裕は何事にも負けたくないと思うところがある。負けると悔しさばかりが胸を焦がすから、ゲームは好きだけどこういう時は少し苦手だと思ってしまう……みんなと遊べるのは楽しいからこそ、こういう自分の性格に嫌気がさす。軽く息を吐くと、裕は上を向いてぐいっとビールをグッと呷った。
『あ、またユーが一気飲みみたいなことしてる』
 地獄耳の茜が一番に気づいた。くすりと笑いながらヨッシーが尋ねる。
『今日もゲームしてる時、プシュッ・ゴクゴクって音が聞こえたけど。ユーは飲みすぎじゃない?それで何本目?』
「言わなーい」
『ちょっとちょっと、俺と違ってまだ若いんだからユーは無理な飲み方しちゃいかんよ。この前、二日酔いかなんかで青い顔してたでしょ』
 トクさんの妙に年を食った喋り方に、裕含む三人はどっと笑う。
『言うて、トクさん僕らと二つ違いじゃないですか』
『えー、でも最近加齢を感じるんだよね。すぐに大学院までの坂道で息切れるし』
『やだー、ちょっとほんまにやめてくださいよ!』
 ケラケラと笑う茜は楽し気だ。いつも素面でこうも朗らかだというのも、一種の才能みたいなものだよなと思いつつ裕がゲーム画面に目をやると『イベント期間』と書かれた文字にハートマークがついている。何だろう、と思いつつ開くとハートマークが画面いっぱいに散った。
《『バレンタインイベント!』期間限定のアイテム販売中》
 と書かれたゲームアイテム販売ページには、チョコレートやイチゴ、ミントなどをあしらったPCの衣装がある。
「なんかバレンタイン関係で可愛い衣装とか売ってる」
『ああ、期間限定のやつか。再販しないやつもあるし、気に入ったんなら買っといたほうがええんちゃうん?このピンクのやつとか茜好きそうやな』
 ヨッシーがそう言うも、茜はページが見つからないらしく
『え、そのページってどこ?どこ?』
 と言っていた。フフッと微笑まし気にヨッシーは笑ってから茜に言った。
『あとでスクショして送っとこか?』
『ヨッシー、ありがとー!助かる』
 ヨッシーも茜も同い年なのにそう思えない。ヨッシーが妙に大人びているからなのか、茜が天然だからなのか、それとも両方か。兄妹をどうしても連想してしまう。実際はヨッシーが次男で、茜が長女というのがまた面白い。
「にしても、バレンタインなんて縁がなさ過ぎて、文字が出てくるまでなんのことかさっぱり思い出せなかったな」
 小声で裕がぼやくと茜が同意した。
『友チョコとかはしても、相手がいないとあんまり縁ないよね』
「テレビとかゲームとかしてても、彼氏へのイベントって感じが強くて馴染めないというか…………別世界のことみたいに感じるんだよね」
『ああー、なるほど。僕も家で姉貴とケーキ焼いたりする程度やな』
 さらっとお菓子作りができるというアピールをしてきたが、ヨッシーのことだ、他意はないのだろう。菓子作り……自分でやるのは面倒かも、と思いつつ裕は酔いに乗せて尋ねてみた。
「言うてヨッシーはそういうイベント通過してきたタイプやろ?」
『んーまあ、何個かはもらったことはあるけど』
 美丈夫だもんな、という裕の言葉よりも先にトクさんが
『君、綺麗だもんね』
 と言った。
 「君、綺麗だもんね」という言葉を裕は人生で初めて聞いた。それが恋人同士の会話でもなくただの雑談で、酒をかっぱらっている最中であろうと誰が思っただろうか。裕は吹き出しそうになった酒を辛うじて飲み込んだ。
『あ、ありがとうございます?』
 困惑しつつもヨッシーはなんとか返答することができたようだ。偉いぞ、ヨッシー……と内心拍手を送った。爆弾発言をした本人は、どうやら下戸のくせに飲んだ酒に飲まれてしまったようで
『顔が整ってるってやつだね。顔のパーツのバランスが良いってやつだ。整形外科のお医者さんが言ってたんだけど、やっぱりバランスの良い人とそうじゃない人とでは整形の到達点?に違いがあるって言ってたな』
 トクさんも茜と方向性は違うものの、独特な人でそう思われる根拠はこういうところにあるんだと裕は思う。
『にしてもさー、さっきバレンタインとは縁がないとか君たち言ってなかった?』
 カンッという甲高い音が携帯のスピーカー越しに響く。トクさんが机の上にチューハイ缶を置いたのだろう。
「……言いましたね」
 主に言ったのは自分なので、悪いことをした子供のような気持ちで裕は名乗りを上げた。
『いかんよー、そんなんじゃさー。ユーはチョコ嫌い?』
「いや、チョコは好きなんですがバレンタインの雰囲気についていけなくて……」
『そんなん気にしなかったらいいんだよ。というよりあの場所では気にしてる人の方が少ないというか』
 そう言うと、トクさんの声が暫し途切れた。あの場所ってなんだろう……と思いつつ、裕は白湯をズズと啜る。ゲームのBGMだけが暫し場を支配した。水面に石を投じるようにヨッシーが声を発する。
『トクさん、もう寝ます?というか、寝てます?』
 問いかけにトクさんがしっかりとした声で応えた。
『いや、寝てないよ。ちょっと検索しててね。裕はさ、今話題の分厚すぎるパンフレットって知ってる?』
「いいえ、知りませんけど……」
 裕はツイッターやインスタグラムをしていないので、テレビや新聞に載っているニュースは知っていても若者に流行りのトレンド等にはとことん疎い。それに対してトクさんはツイ廃と呼ばれる人であるらしい。
『あたし知ってるかも。あのデパートのやつですか?』
『へー、そうなんあるんや。調べてみよ』
 ヨッシーはそれきり黙ってしまったので、ネットの海に飛び込んでいったのだろう。こうなると帰ってこない、グッドラックだヨッシー。
『そうそう、ネットで見たんだけどすごい量だったんだよ。何ならデータ送ろうか?』
 トクさんの熱の篭った語りにどう反応すべきか分からず、裕は曖昧に返事をした。
 そうすればドルンッとなかなか大きなデータが送られてきた。読み込むのに時間がかかったが、開いてみるとフルカラーのパンフレットであった。
「二百ページ越え……これもう本じゃないですか」
 スマホに指を走らせバラバラとページを捲りつつ、裕はなんとも感想を言い難くため息をついた。
 もちろん商品やお店を紹介しているというのは分かるのだが、どこの店にどんな特徴があって美味しいかというのが分からない。なんせ情報が多すぎる。トクさんはよく回る舌で話を続ける。
『そうなんだよ、そこが凄いよね!おまけに無料なんだよ。結構、日本で有名な店から海外のブランド……日本の小さなお店や輸入業者の人まで参加しててね』
 トクさんは今日一番楽しそうな声で
『みんなで行ってみない?』
 と提案した。


 二〇一九年二月某日阪急梅田催事会場 一四時頃


「トクさーん、こっちですよー」
 茜が鈴の鳴るような声で呼びながら、手を大きく振った。トクさんは困ったような顔をしながら、ごめんごめんと謝った。
「いやー、色々見てたら遅くなっちゃったよ」
 トクさんの両手には色とりどりの紙バックがぶら下がっている。
「トクさん、もう買ってるんですか。めっちゃ気合入ってますね。僕らより何分ぐらい早く来てたんです?」
「ん、朝から並んでたよ。朝の七時頃にはデパートの外にいたね」
 それを聞いた茜が丸い目をさらに丸くして
「もう七時間もここにいるんですか、トクさん!ずっとチョコ見てたんですか?」
「いやー、流石にずっとは見てないよ。二回は足を運んでるし、それにこの人混みでしょ?長時間見て回るだけで疲れちゃうしね。パンフレット読み直したり、本屋に足を運んだりしてたよ」
 そう言って膨れたリュックを指さした。さながら本とチョコレートの運搬業者である。
「今思ったんですけど、デパートって朝十時開店ですよね?そんな早朝からチョコ売ってるんですか?」
 裕が尋ねると
「チョコじゃなくて、チョコを買うための整理券だよ。それでこれ買ったんだよね『イヴァン・ヴァレンティン』のトリュフ。全種類買っちゃった」
 お気に入りの玩具を取り出す子供のような顔でトクさんは紙袋を漁った。そこから出てきたのは白地に黒い文字が印刷されたシンプルな箱だ。同じパッケージの箱がちらりと袋から見える。
「わあ、いっぱい箱ありますね。美味しいんですか?」
「ふふ、美味しいなんてもんじゃないよ、絶品!これ、本当にレアなんだよ。ちょっと中身、見せるね」
 トクさんが取り出した小さな八センチぐらいの箱に、表面がデコボコとした白と茶色のトリュフが入っていた。
「これが蕩けるような口どけなんだよね。日本では販売店がなくて、この時期に日本で三か所のみ販売してるんだ。一日、二五〇個をバレンタインフェアがある三週間売り続けてるんだけど、平日ですら限定品は朝八時頃までに並ばないと買えないからね」
 そう言われると味が俄然気になってきた。それを知ってか知らずか、そっと蓋を戻して箱を閉じたトクさんの弁にも熱が入る。
「まあ、今日は美味しいチョコレートを俺が紹介するって話で集まってもらったわけで……つまりはチョコレートのイベントは恋人達のためだけではなく、みんなが楽しめるものなんだよってことを知ってほしくてね。物事には色んな側面があるんだから、それを一面からしか眺めず報道しないっていうのが俺は嫌いでね。それで変なイメージがついているせいで、チョコレートを普通に買いに行きたい人が難しくなっているんじゃないかって心配になる」
 トクさんは社会の動向について研究している院生なだけあって、説得力と目の色に凄味があった。自分が熱くなってしまったことを自覚したのか、少し深呼吸をしてからトクさんは話を再開した。
「ま、そこは置いといて……本当にここのデパートは様々な工夫が凝らしてあって凄いんだよ、チョコのコミケが三週間連日開催されているといっても過言ではない!」
 そう断言したトクさんの瞳は輝いていた。ここ二か月程度、昼食を素うどんにしていたのはこのためだと言っていたっけ。……『こう毎日素うどんだと飽きるね』と悲し気に言っていた姿が裕の瞼裏に浮かんだ。
「チョコのコミケ、ですか……コミケは行ったことないんですけど、凄さみたいなのは分かってきましたね。ここまでとは僕、思ってなかったです。この催しにフロア全部使ってますよね?」
「そう、そうなんだよ!この広いフロアを使い、それを区切って様々なニーズに応えてるっていうのがまた良いんだよね」
「確かに、色々あってお洒落でいいですね!お店も全部可愛いですし。会場もすごく飾り付けてあって、インスタスポットがたくさんありますね」
 チョコフォンデュタワーをモチーフにした店、天井の中央から伸びていくパステルカラーのフラッグ。ゆらゆらと揺れるチョコレートのイラストが描かれたパネル。そういや来る途中にチョコソフトの立ち食い場みたいなのがあったな、と裕は思い出した。確か、【チョコスイーツスタンド】って書かれてたっけ。そこにあったミントグリーン色の壁紙の上で《CHOCOLATE SWEETS STAND》というポップな文字が踊っていた。その前でソフトクリームを持って撮影している人がいたっけ。
「あ、チョコレートだけじゃなくいろんなスイーツを売ってるんですか?なんかテーマパークみたいで楽しいですね」
 そう言いながら、にこにこと笑いながら茜は辺りを見渡した。開放的な大広間に所狭しと人と店が詰まっており、広間を見下ろすように設置されている扇状に広がるクリーム色の階段では多くの人が飲食をしている。その中にいるのはパフェの盛られたカップに口をつけている人、茶色いパンに挟まれたサンドイッチを食べている人、緑色と茶色が螺旋を描いたソフトクリームに口をつける人がいた。……様々な人が色々なものを食べ、楽しんでいるようだった。
「あれは『銀のぶどう』の〔炎のホットチョコレートパフェ〕。アイスの横に添えられてるチョコテリーヌの蕩けるようなくちどけが人気でね、チョコテリーヌはロングセラー商品だよ。サンドイッチは『銀座千疋屋』のバレンタイン限定商品〔銀座ショコラサンド〕だね。ここからだと分からないけどイチゴがサンドしてあるよ。『銀座千疋屋』といえば果物を中心に扱っているお店だから果物の味は勿論、見た目も可愛いしチョコ味のパンと良くマッチして美味しいよ。ミントチョコソフトクリームは『Ek(エク) Chuah(チュア)』の〔チョコミントソフトクリーム〕だね。ミント感が結構強めで、チョコミント好きには堪らないんじゃないかな。どれも日本の企業のやつだよ」
 そこまで一気に言い切ったトクさんに裕は辛うじて
「情報が多すぎて分からんです……」
 と言った。
「んー、まあ、どれも美味しいってことだよ。……方向性とか好きなものから説明した方が分かりやすいかな?」
「ユーとか茜はそうかもしれないですね。僕は姉貴と偶にこういうとこ来たりするんで、大丈夫です」
 淡々とヨッシーはそう言い放った。トクさんはそれを聞いて尋ねた。
「みんなは、何か興味あるチョコとか食べてみたいチョコとかある?」
「こういうところに来る機会もあまりないし……折角なら珍しいチョコとか食べてみたいですね。いろんな味が楽しめるやつとか」
 ヨッシーがそう言うと、トクさんはすぐさま返答した。
「アソートか。目の前の【のみものチョコ】のコーナーに飲み物とコラボしたチョコレート、今回の企画のためだけに作られたものが結構あるからどうかな?」
「へえ、面白そうですね」
「茜はどう?」
「じゃあ、あたし可愛い感じの……チョコとか見てみたいな」
「茜は動物好きだし、『ゴンチャロフ』の動物チョコとかいいかもね。あとは、【チョコ菓子マーケット】とか【ニッポンのチョコ】のコーナーにポップなチョコがあるからそこに行ってみようか」
 歩くチョコ辞典になってるな、トクさん……というかどんだけ読み込んで、足を運んだのだろうか。今更ながらトクさんの手の中にあるガイドブックの付箋の量に裕は戦慄した。
「あ、それとソフトクリーム食べたいです!」
 威勢良く言った茜を宥めるようにヨッシーが淡々と言った。
「移動とかの際に手元になんかあったら邪魔やし、後の方がええんちゃうん?」
「わかった、そうするー」
 茜は素直にそれを聞いてから、裕の方に向き直り尋ねた。
「ユーは何か興味あるのとかある?」
「私は……色々ありすぎて分からないな」
 そう言ってから、これじゃトクさんが困るかと思い、何とか言葉を絞り出した。
「美味しいやつ……どれも美味しいんでしょうけど、カカオの香りがはっきりしてるのがいいかもしれないです」
「それなら、【ワールドチョコギャラリー】と【カカオワールド】の二つを回ってみたらいいかもね。じゃあ、まず近いところから行こうか」


二〇一九年二月阪急梅田催事会場 一五時頃


 【のみものチョコ】のコーナーを軽く巡ってから、裕たちは【ワールドチョコギャラリー】コーナーに来た。
「結構値段も手ごろだったし、これは掘り出しもんかなー」
 そう言うヨッシーの手には『ゴンチャロフ』の〔メゾンドボンボン〕の入った手提げがある。日本全国の酒蔵のお酒が楽しめるといったシリーズで、銀紙の周りにお酒のラベルをイメージした紙が巻いてあって何だか可愛らしい。
「『ゴンチャロフ』とか『Mary’s(メリー)』は安くてバリエーション豊かだからね。本好きには堪らない《ピーターラビット》や《星の王子様》とのコラボなんかが結構良いと俺は思うね」
 一つのコーナーだけでこんなに工夫が凝らされていて、作り手の情熱が伝わってくるようだ。……私が思っている以上にチョコ市場というのは、ずっとお洒落でみんなに開かれているのだと感じた。私は捻くれ者だから恋人・友人・会社付き合いで渡すために買うっていうイメージが思ってたよりも脳にこびりついてたんだな、と裕は思う。
「なんかカクテルのチョコとかもあって、新鮮だった……」
 という裕の手には『Ek Chuah』が期間限定で用意している『Cru(クリュ) de(ド) M(エム)』というシリーズの箱で、四角いつやつやとしたチョコレートの中にカラマンシー・ピニャコラーダといったカクテルをイメージしたクリームが入っている。一方の茜の手にはの『SILSMARIA(シルスマリア)』の〔生チョコレート〕がある。なんでも生チョコ発祥のお店らしい。
「これ、本当にとろってして口の中で溶けて美味しかった!」
「確かに溶ける、っていう感覚が私にも分かった」
 今まで食べた生チョコの中で一番おいしかったかもしれない、と裕は思う。コンビニでしか買わない裕にも、カカオの香りが鼻に抜ける感じが感じられた。その時、美味しいと裕はしっかりと思った。
「二人ともガナッシュが好きなのかな?あ、ガナッシュっていうのはチョコレートと生クリームを合わせたもので、口どけの良さが特徴だよ」
「あたし、それ食べたいです!」
 勢いよく言った茜の笑顔が眩しくて、裕は思わず微笑んでしまった。その横でヨッシーが前方を見ながら問うた。
「ん、これ小便小僧ですか?」
 コーナーの入り口にでかでかと置かれていたのは小便小僧のオブジェであった。流石に裸ではなく、コックが被る帽子と服を身に纏っている。なんでこんなものがここに、と一瞬思ったものの小便小僧はチョコの国ベルギーにあったことを裕は思い出す。
「これ全部チョコで出来てるんだって!」
 説明文を指して興奮気味に茜は言った。横からのぞき込むと『Neuhaus(ノイハウス)』というメーカーが作ったことが書かれていた。
「『Neuhaus』はもとは薬局だったんだ。それがボンボンショコラやバロタンボックスっていうチョコレート専用の箱を開発して……ベルギー王室御用達のチョコ専門店になっただなんて不思議な感じがするよね」
「それは確かに中々、類を見ない経歴ですね」
 裕はしげしげと小便小僧の顔を覗き込んだ。そして遠い異国の国へ飛行機を使ってチョコレートを運ぶことになるだなんて、創業者はきっと想定できなかっただろう。そう思うと感慨深いものを裕は感じた。
「ガナッシュってことなら『Stettler(ステットラー)』と『DelReY(デルレイ)』が俺はお勧めかな」
 潰れそうになる人混みの中、ぶつからないようにはぐれないように気を付けながら『ステットラー』と書かれた店の前に四人は到着した。
「大きい!一粒が凄い大きい!」
「ほんまや、さっきのと比べたら大きさが全然違うな」
 白い箱に三センチ角程度のココアパウダーのかかったチョコレートが鎮座している。
「試食されますか?」
 勧められるがままに、裕たち四人は口にチョコの破片を放り込んだ。
「うわ、私この滑らかさ好き……」
「美味しいね」
 幸せ、と茜は顔全体で主張している。ヨッシーは珍しく驚いた顔で
「カカオがめっちゃ上品」
 と呟いた。どうやら我々、すっかりトクさんの術中に嵌り、この空間の空気にあてられてしまっているようだ。酒なんて飲んでいないのに、胸がどこかふわふわして楽しい。
「俺、ここの好きだから追加で買っておこ」
「僕はどうしようかなー悩むなー」
 二人は悩みつつも購入したようだった。そしてトクさんを水先案内人とした一行は人混みをするすると抜けて『DelReY』と書かれた店の前に着いた。
「あ、デザインが可愛い!ハートと宝石がモチーフなんですか?」
 真っ赤なハートに、パステルカラーでダイヤモンドの模様が描かれたチョコレート。それを見て裕は思った。この会場にあるチョコレートはツヤツヤしてたり、ピカピカしてたり……宝石みたいだな。人が惹きつけられるという点でも。
「うん、ここのチョコは〔ダイヤモンドチョコ〕って呼ばれてるんだ。ダイヤモンドの色ごとに味が違うんだけど、基本の味はピンク色のやつだよ」
 それを聞いていた店の人が
「お客様、詳しいんですね。今、仰られていた全ての箱に入っているピンクのダイヤのチョコがこちらになります」
 差し出された楊枝の先のチョコを口に含むと、固そうな見た目に反してとろりと消えてなくなってしまった。
「生チョコ、とはまた違う食感……しっかりしてるところがあるのに口どけが良いですね。似てるようで全然違う……」
「でしょー」
 得意げな顔でトクさんは笑う。トクさんが嵌るのも納得してしまう、これは良いジャンルだ……裕は『DelReY』の箱を購入した。
「あと、ビターなのが気になるって言ってたよね。近くにスペインの『CACAO(カカオ) SAMPAKA(サンパカ)』っていうブランドがあるよ」
 連れていかれた先のショーウィンドウには板チョコが、並べられていた。よく見ると産地や混ぜ込まれたフレーバー毎に分けられているようだ。エクアドル、グレナダ、パプアニューギニア……文字を追っていると
「フレーバーついてない板チョコの試食いいですか?」
 トクさんがコレとコレを……と指をさしながら指示を出していく。裕たちはそれを口に運ぶ。今までの甘めのチョコレートとは違い、キリリとした苦みと芳醇な香りが広がる。一つ目を口に入れた後に
「味の違いを意識して食べてみて」
 そうトクさんが言ったので、裕たち三人は意識を舌先に集中させた。
「あ、違う」
 最初に声を上げたのは茜だった。
「私にはさっきのよりも酸っぱくなくて、苦い気がします」
 集中している私たちにトクさんは「ブラジルのだよ」と言いつつ、更に試食のチョコレートを渡す。
「あっ、なんつーの……これはフルーティーな感じがして、フルーツ齧ってるみたいな」
「確かに……同じカカオなのに産地が違うだけで味に結構な差が出るんですね」
 驚く裕の顔を見てトクさんは満足そうな顔をしつつ
「カカオ豆本体もあっちに売ってるんだよ」
 と言って人混みの向こうにある【カカオマーケット】のコーナーを指さした。そういえばカカオ豆を齧りながら研究してたな、トクさん……昨年の映像がさっと脳裏をよぎった。もしかしなくても、買うつもりなのだろう……というよりまだまだ回る気満々なのは明らかであった。
「まだまだ回ってないコーナーも結構あるから、まだまだ気合入れていこう!」
 裕がそっと腕時計を見やると、時計の長針は何時の間にか二周していた。


「いや、たくさん買ったしいっぱい回ったね」
 嬉しそうに言うトクさんの横で、裕は抱え込んだリュックサックに顔を埋めるようにしながら
「そうですね……」
 と辛うじて言った。日頃運動をしていないこともあって、歩き通して疲れたのだ。裕と比べて茜はまだ元気が少しは残っているようで、買った荷物の整理をしている。ヨッシーは先程買った『5th Avenue Chocolatiere』のカップに入ったソフトクリームを匙で掬っている。
 明日は筋肉痛だな……と思いながらのろのろと顔を上げるとトクさんの鞄から本がはみ出しているのが見えた。
「トクさん、本が落ちそうですよ」
「え、本当だ。ありがとうね」
 取り出された本に【コペルニクス的展開の……】と書かれているのが見えた。裕は尋ねる。
「コペルニクス的転回って何ですか?」
「哲学者カントが自己の認識論上の立場を表わすのに用いた言葉だね。これまで、われわれの認識は対象に依拠すると考えられていたんだけど、カントはこの考え方を逆転させたんだ。つまり、対象の認識はわれわれの主観の構成によって初めて可能になるとしたんだ。この認識論上の立場の転回をコペルニクスによる天動説から地動説への転回に例えたんだよ」
 その発言にヨッシーが付け加えた。
「発想法を根本的に変えることによって、物事の新しい局面が切り開かれることをそう言うんやで」
「なるほど……」
 という裕の横で、茜が絆創膏がモチーフとなったチョコレートの入った〔CHOCO(チョコ)-AID(エイド)〕と書かれた缶を開けた。
「発想法を根本的に変えるところまで到達したかは分かりませんが……今日だけで私のチョコレートやバレンタインに関する見方はガラッと変わりましたね。当事者じゃないっていう意識がどこかあったんですが…………そう思って勝手に壁を作ってたのは私だったんですね」
 そう言っていた裕の口に突然、茜がチョコレートを突っ込んだ。
「これ美味しいよ!」
 裕には口に入れられたものが何かは分からなかったが、じんわりとしたチョコレートの甘さが口に広がる。それと同時になんだかくすぐったい気持ちになって、自然と笑ってしまった。それを見て、トクさんとヨッシーも楽しそうに笑った。なるほど、笑うというのは『花が咲く』ことが語源だと聞いたことがあるが、確かに花が咲いたようだ、と裕は思う。
 それから、疲れと小腹が空いていたのもあって、各々が自分で買ったチョコを取り出して食べ、笑って語り合い、互いのチョコを分け合った。ああ、楽しいな……また一緒に来たいな、そんなことを考える。
 でも口には出さずに裕はゆっくりと会場を見渡して、静かにほほ笑んだ。

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