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創作大賞2024恋愛小説部門『三つ目のストーリー』1


あらすじ:

八年前、過失で夫を殺した霜は、出所後に故郷に戻り、隣人の雅旭と出会った。失業した雅旭は弁護士になった初恋の女性に憧れ、自分も司法試験に挑もう決めた。雅旭は宇多津で家庭教師をしており、霜も近くの書店で働いていることから、霜を乗せて往復している。そのうちに、霜は痛ましい過去を背負いながらも、シャイな雅旭に心を打たれた。雅旭も徐々に霜に心を開いていった。しかし、二人の間には十五歳の年の差と、雅旭の忘れられない初恋という乗り越え難い壁がある。雅旭が初恋とデート後、霜とじっくり話し合おうとした矢先、思いがけない出来事が起こった。霜は仕事を辞め、一人で北海道へ向かった。彼女が臨む運命は何だろうか……


 霜はここに座ってかなり時間が経った。彼女は脱水状態で死にかけた魚のように口をぱくぱくと動かしていた。やがて係員がこの水の教会がもうすぐ結婚会場として使われることを知らせてきた。この厳かな広々とした教会で、霜は目の前にいても聞こえづらい声で「お邪魔しました。すぐに出ていきます」と言った。気温が0度に近い寒い外に、ベロアワンピースにコートを羽織った霜はためらいもなく教会を立ち去った。「たったった」とブーツの響く足音は一刻も早くここから逃げ出そうとしているように、ますます急ぎ足になった。「これ以上不幸を広めるわけにはいかない。自分のところで終わりにすればいい」と、霜は思った。



 バスの中に空席がちらほらあり、ほとんどの乗客は自分のことに集中している。同じバスに乗っていてもそれぞれ別の世界にいるようだ。霜は窓際に座っている。古びた小さな手提げバッグが通路側の座席に置いてある。それが彼女の唯一の荷物なのだ。日差しが木の葉の隙間から霜の肌白い顔に差し込んでいる。窓が完全には閉まっておらず、入ってきた風が隣の若い女性の前髪を乱す度に、彼女はそれを整える。霜にはそのような悩みはなく、どんな状況におかれても落ち着いて対処できるように、黒髪をお団子にまとめて後ろに結びあげている。色づいた葉っぱを眺めながら、霜は目を細めた。

 再び目を開けると、晴れていた空はいつの間にか雨になっていた。外の鬱陶しい空模様を見つめたところ、嫌な記憶がタイミングをはかって脳に侵入してきた。



 それは八年前の夏の夕暮れだった。明るい稲妻が走るとともに、遠雷が鳴り響き、大雨が迫っているようだ。

 薄暗いアパートで、霜は夫の森尾と激しい口論を続けている。森尾は苛立って、怒りのあまりに、テーブルの上にあったティッシュボックスを手に取り、霜に向かって投げつけた。出血していないかと確認しようと、霜は手探りで頭に手を伸ばした。また一本の稲妻とともに、電気が消えた。暗闇の中、霜の伸ばした手を反撃しようとしたのと勘違いした森尾は素早く霜の手をしっかりと掴んだ。このままじゃ殺されると思い、霜はどこからともなく力が湧いてきて、力強く森尾を押し付けた。森尾は怒鳴ろうとした瞬間、テーブルの近くの床にこぼれたスープに足を滑らせた。転倒した森尾はテーブルの角に頭をぶつけ、血が噴き出して意識を失った。あまりにも暗い中、何が起こったかわからない霜は力が抜けて冷蔵庫の前に座り込んだ。森尾がすぐに起き上がって、自分の髪を掴んでボコボコに殴ってくるんじゃないかと息がつまりそうになりながら心配してた。今度こそ、もう逃げられない。さっきの抵抗で力を尽くしたから、もうこれ以上森尾に逆らう気力がない。

  鈍い雷鳴が一時的に止んだ。部屋の中は静まり返り、壁の時計の振り子の音しか聞こえない。徐々に落ち着きを取り戻した霜は、ようやく森尾の異常に気付いた。息を呑みながらゆっくりと森尾に近づき、何かの悪い予感がした。指先が森尾の顔に触れそうになったとき、まぶしい稲妻に照らされて、目に映ったのは森尾が頭の傷口から真っ赤な血がだくだくと噴き出した様子だった。その光景は霜の心に深く刻まれた。

 森尾は死んだ。その死を招いたのは妻である霜だった。

 雨が降り続き、夜明けまでようやく止む気配を見せた。雲の間から昇ってきた朝日とともに、パトカーが事件現場となった森尾宅に駆けつけた。


 
 雨粒が車窓に滴り落ち、窓に向かってる霜は泣いているかのように見えた。

「Light rain will fall from the afternoon to the evening, and the temperature will drop, so please take precautions against the cold」と、霜は小さな声で英語でつぶやいた。



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