見出し画像

創作大賞2024恋愛小説部門『三つ目のストーリー』6 最終話

   霜は雅旭の部屋のドアを押し開けた瞬間、壁に貼ってある数十枚のポイントが書いてある付箋が一斉に揺れ、鳥が羽ばたくような音を立てた。白いカーテンが風に揺れ、カップラーメンの匂いが漂っている。霜は靴を脱ぎ、裸足で部屋の中を歩き回った。掛け布団はぐちゃぐちゃに丸められてベッドの隅っこに押しやられ、コバルトブルーのコートはきちんとクローゼットに掛けてある。ゴミ箱がいっぱいになって、カルピスの空き瓶がゴミ箱の隣に転がっている。机は相変わらず本や問題集で埋もれており、途中まで解いた試験問題にはカップラーメンの油の跡が残っている。霜は指先を机の端から端までゆっくりと滑らせ、椅子の前に座った。しばらくして、彼女は上着のポケットから一枚の紙切れをゆっくりと取り出した。そこには「誕生日プレゼントとしてうなぎ丼を作りますから、待っててください」と書かれている。それは雅旭が鰻を買い出しする前に霜の部屋のドアに貼ったもので、この世界に残した最後のメッセージとなった。

 部屋の中の光が次第に暗くなり、椅子に座っていた霜も消えていった。ベランダに干された雅旭の衣服だけが冷たい風の中で揺れていて、何かを呼びかけているようだった。



 車窓の外では雪がしんしんと降り続け、その音は列車の轟音にかき消された。霜は水の教会を出て、釧路行きの列車に乗り込んだ。霜の隣の車窓に時折雪の結晶がぶつかり、すぐに溶けていく。この世には雪のように純粋な人がいた。その人は子供たちと一緒に楽しく笑っていた。

    霜は脚立に上って上段の本棚の本を整理した。そして、肩をほぐしていたら、窓越しに見えるいくつかの建物の間に、電球をうまく替えられなかったあのイケメンが車椅子に座った子供とテラスで笑いながら話しているのを見かけた。霜は脚立を駆け下り、カウンターに置いてあった本を手に取ると、再び脚立を駆け上った。脚立に腰掛けると、その角度からテラスを見づらいことに気づいた。再び梯子を降り、角度を調整してから、何事もなかったかのように小説を手にして腰を下ろした。

「どうしたの?ここに座らないの?君、この椅子が好きだって言ってたんじゃなかった?」南方さんは脚立に座る霜を不思議そうに見た。

「今はもう好きじゃなくなったの」霜は雅旭がいるテラスを視線を向けてにっこりと答えた。



 釧路までの道のりはまだまだ長い。霜は南方書店でよく読んでいた小説を取り出した。雅旭の事故があった1月末に南方さんに辞表を出した。

「娘が田舎で大きな家を買ったんでね、老後はそこで一緒に暮らそうってさ。家には3月末に入居できる予定だから、それまで書店は続けるつもりだけど、それまでお願いできないか……」

 南方さんにそう言われたら、断る理由がない霜は、毎日早朝のバスと最終のバスに乗って南方書店と金剛寺ホテルを往復していた。冬が過ぎ、春風が心地よい3月末。南方さんと南方書店に別れを告げる日がやってきた。

「給料は全部払ったよね?忘れ物がないか確認してね。閉店したら文句言っても知らないから。あと、この本は君にやるよ!」

 南方さんの皺だらけの手にしたのは、霜がよく読んでいた小説「阿寒に果つ」だった。


   正午、列車が釧路駅に到着した。空腹な乗客の多くは、駅に着くやいなや飲食店へと急いで向かった。最後に下車した霜は、人波が引いた後のホームで、空っぽになった鉄道に向かって一人で腰をおろした。空腹の時が最も頭が冴えると言われているが、五日間も食事をとっていない霜は、まさかホームで眠りに落ちてしまったのだ。

 夢の中で霜は、南方書店で働き始めて二日目の日に戻っていた。その日は書店が閉店で、雅旭もアルバイトがなく、二人でおしゃべりをしながら、霜には馴染み深く、雅旭には不慣れの場所を歩いていた。

「子供の頃、ここが大好きだったの。先生に褒められたら工作がクラスメートにハサミで壊されたとき……友達の片思いしている男の子が私の靴箱にラブレターを入れた翌日、靴の中に釘を入れられたとき……好きな芸能事務所に写真を送り続けたけど、デビューの枠が雑誌のグラビアを撮ったことのある平凡な女の子に取られたとき……」霜は両手を広げてバランスを取りながら廃れた鉄道の上をふらふらと歩いていた。

 どこからか吹いてきた風が霜の服の裾を揺らした。雅旭は周囲を見渡し、まばらに生えた樹木が遠くから静かに見守り、鉄道には雑草が生い茂っていた。劣化の程度から、この鉄道が昔輝かしい時代を経験したことは容易に想像できたが、今では誇りを失い、疲れ切った英雄のように、広々とした孤独な荒野に静かに横たわり、最後の時を迎えている。鉄道が無限なく伸びてゆき、霜の誰にも言えなかった悲しみや苦しみが、遥か彼方に運ばれていったかのように見えた。

「君は?子供の頃に好きな場所はあった?」と霜が雅旭の思いを不意に遮った。

「ありました。ヒューム管です。家の近くに小川が流れていました。赤髪の女の人が経営するタバコ屋の前に小さな石段があって、それを下りると、名前も知らない野花や草がたくさん生えてたの。何本かのひまわりのところまで行くと、小川に面してデカいヒューム管がいくつか置かれているんですけど、誰が何のためにそこに置いたのか分からなかった。初めてその中に入ったのは小学校の低学年の頃で、確か僕の誕生日の日でした。両親が誕生日ケーキを用意してくれなかったから、お店で大勢のお客さんが食事をしている中、大騒ぎして父親にビンタを食らっちゃいました。火照る顔を押さえて泣きながら飛び出して、タバコ屋の前に着いたとき、同じくらいの年の子供たちが小川のそばにすごいものがあると言っていて、僕はそれを聞いて小川に向かって走ったんです。怪物でもいて、すぐに僕を食べてくれればいいと思いましたよ。でも結局、日が暮れるまで怪物なんて現れなかったけど、雨に降られて仕方なくヒューム管の中に避難したんです。幸いなことに、そこでヤマザキのケーキを見つけて、あまりにお腹が空いたからどれだけそこに放置されていたかも気にせず、袋を破ってすぐに完食しました。それ以来、僕はよくそのヒューム管に遊びに行くようになって、そこが僕の秘密基地になったんだ。そして行くたびに、必ずヤマザキのケーキを持って行くようにしてました」

「その夜はどうやって家に帰ったの?」と霜は何年も前の雨の夜に帰りが遅くなった子供を心配するような表情を浮かべた。

「覚えてないんですよ」と雅旭は淡い笑みをこぼした。

 雅旭の心の奥底には、すでにかさぶたになった傷があるはず。それを無理に掘り返そうとすれば、傷自体には影響がないとしても、思い出したくない記憶を蘇らせる。誕生日に大勢の人の前で父親にビンタをくらい、ヒューム管の中で出どころ不明のケーキを拾い食ったあの男の子は、母親に傘をさしてもらって背負われて帰ったのか、それとも雨が止むのを待って自分で帰ったのか、何年も経った今「覚えていない」と答えた以上、霜もそれ以上問い詰めなかった。

「やってみる?」と霜は雅旭に自分と同じように歩いてみるように目配せした。

 雅旭は両腕を広げ、レールに飛び乗ったが、足元から目を離さずに慎重に一歩一歩進んだ。一、二、一、二、一、二……二人の足取りはようやく揃ってきたかと思うと、突然の強風が吹いてきた。雅旭は足が震え、両腕も制御不能に揺れ、落ちかけの飛行機のようだった。右側から霜の声が聞こえてきた。「怖がらないで、前へ、前へ、前へ……」その声で雅旭は無限の勇気が湧き上がり、ゆっくりとバランスを取り戻した。太陽は雲に隠れ光を収めた。薄暗い原野の中で、二人は小さくもめげずに進む二羽の鳥のように強風に逆らって寄り添っているのだ。



 プシュッと阿寒湖ホテル行きのバスは、出発前に車内に駆け込もうとする最後の乗客のためにドアを開いた。大きな荷物を抱えた中年の男性が乗車すると、慌てて謝りながら視線が霜の隣の席を狙った。霜は彼女の唯一の荷物である古い手提げバッグを膝の上にのせて席を空けた。男性は遠慮なく座ると、突然げっぷをした。うなぎの臭みが漂ってきて、霜は眉をひそめた。男性がしっかりと抱えている袋を一瞥したら、その中には北海道産のうなぎのタレが数本入っていた。おそらく母親か妻へのお土産なのだろう。

 霜はうな重を食べたのは五日前だった。五日前、彼女は何度もグーグルマップで検索した高松の雅旭家という老舗のうなぎ屋にたどり着いた。

 その店に行く前に霜はまず赤髪の女の人のタバコ店を見つけ、店の前の石段を下り、新緑の誘いに従ってゆっくりと小川のほとりのヒューム管へと歩いて行った。日差しが心地よい春の日、緑、赤、黄、白のどの色も眩しい輝きを放っていた。

 大半は日差しの届かないヒューム管の中で、霜は曲がった内壁にもたれて座っている。ヤマザキのケーキの袋を開けて、少しずつ口に運んだ。川岸の茂った水草が風に揺れ、ちぐはぐとした隙間が時折コバルトブルーで満たされ、また消え、そして再び満たされた。そのコバルトブルーが遠くから近づいてくるのをじっと見つめていると、一匹のコバルトブルーの蝶が水草を通り抜けてヒューム管の方へ飛んできていたのだった。その蝶は管の周りを行ったり来たりして姿を現したり消したりしていたが、中に飛び込むつもりはなさそうだ。人間への警戒心を捨てきれていないのか、それともここに留まる理由がないのかもしれない。

 霜は爪の大きさほどのケーキを一片掴み、そっと日の当たるヒューム管の縁に置いた。ケーキの小さな影が粗いコンクリートの面に映り、人間の親しみを表したい跡を残した。これで蝶は近寄ってくるだろうか?霜は自信が持てず、ただ息をのんで待つことしかできなかった。

 その時、ヒューム管が激しく揺れて静寂が破られた。霜は驚いて頭を上げ両手で管の内壁を支えた。何が起こったのか確かめる間もなく、四、五人の七、八歳の子供たちが次々と管の上から飛び降りてきた。彼たちは釣り竿を担ぎ、小さなバケツを持って笑い声を上げたり歌ったり、小さな体が跳びはねて、小川のほとりは一気に賑やかになった。

 なんて活発で可愛い子供たちなんだろう!

 霜の思いはすっかりこの楽しそうな子供たちに引きつけられていた。黄色い帽子の下に隠れた丸い頭、自分と同じ高さの釣竿を担いでいる細い肩、短パンの下の白くて肉付きの良い小さな足、白い靴下に付いた汚れさえも、好きなのだ。彼らを抱きしめたい気持ちさえあった。

 しかし、そんな失礼なことをするためにここに来たわけではないと霜はすぐに悟った。彼女は最後の一口のケーキを食べ終え、また切り離した小さなケーキの破片をを空っぽの包装紙に入れ、すべての痕跡を拭き取った後、手提げバッグを持ち、ヒューム管から這い出た。

 小川のほとりで釣りをしている子供たちの声がだんだんと遠ざかってゆく。その時、突然誰かが大声で「見て!蝶々だ!すごく綺麗な蝶々だ!」と叫んだ。霜は心が締め付けられて振り返ると、あの彼女に忘れられていたコバルトブルーの蝶が、鮮やかな翅を動かして子供たちの周りを飛び回り、彼らと遊んでいるかのようだった。



 午後二時近く、ちょうどピークタイムを過ぎたところ。店内にはお客さんはおらず、厨房で若い男性一人で忙しそうに店を回している。しかくい頭に清潔な白い手ぬぐいを四角く巻いており、一センチほどの短い髪は丁寧に手入れされた芝生のように整っていて、清潔感があり仕事できそうな印象を与えている。彼が雅旭の母親である清子が最近雇った新人の小田なのだ。小田はしかくくて均整の取れた体つきで、頭の形にぴったり合っている。身長は高くないが、清子に「健康そうで良い子」と一目で気にいられた。性格も穏やかであり料理にも熱意を持っていることから、朝倉夫婦に大いに期待されている。

 小田は、そのしかくくて少し不器用そうな指で、目の前の唯一の女性のお客さんに何度もうなぎのタレをつけている。その女性客は古びた手提げバッグを持っていて、地元の人ではないように見えた。店内を隅々まで見回し、時折奥まで気にする好奇心旺盛な様子から見ると、きっと外から来たのだろうと判断した。もしかしたら、この老舗のうなぎの味を求めてわざわざ訪れたのかもしれない。小田はそう思いながら、タレをたっぷりと塗ったふっくらとしたうなぎを香ばしい白米の上に盛りつけた。「当店特製のワサビをお付けしますか?」と尋ねると、女性のお客さんがうなずいたので、小田は微笑みながら小さな木のスプーンでうなぎの上に少量のワサビを添え、「どうぞごゆっくりお召し上がりください」と心を込めて言った。

 より多くのお客さんが評判を聞いてやってきて、自分の作ったうな重を食べて親指を立てるのを見ることが小田の夢だった。彼は調理台の汚れを何度もタオルで拭きながら、食事中の女性のお客さんの反応を気にして見上げていた。

 静かな午後、うなぎ屋の暖簾が再び開かれた。病院の看護から戻ってきた清子はなぜかいつものように小田の深みのある声で「お帰りなさい」と言われなかった。それどころか小田が落ち込んだ顔で彼女に尋ねた「女将さん、やっぱり僕はダメでしょうか?師匠に教わった通りにワサビを調合したのに、せっかく自信作を作ったと思ったら、味が辛すぎるか、さっきの女性のお客様がうな重を食べながら涙を流していましたよ」



 阿寒湖の水中で、一匹の空腹の赤鯛が水草に鰭が絡みついた。絡みを解こうと必死過ぎて、黒いブーツを履いた足が近づいてくるのに全く気付かなかった。一瞬のうちに、白鳥の餌となった。白鳥が優雅に首を伸ばして美味を楽しもうとしたとき、海鷲が墨色の翼を広げてたやすく赤鯛を白鳥の口から奪い、勢いよく空中へ飛び上がっていった。しかし、その海鷲でも最後まで笑えなかった。仲間がすでにそれを狙っており、二匹の海鷲が空中で争っているうちに、哀れの赤鯛は高空から地面へ落下してしまった。瀕死の赤鯛は真っ白な雪の上に横たわり、もう動くことはできなかった。鱗から赤い血が滲み出て、死神を迎える赤い絨毯のように雪の上に広がった。死に臨む赤鯛は、運命の戯れを訴えるかのように口をぱくぱくと開け閉めをした。これほどがらんとした雪原が自分の小さな体の墓場となることは、あまりにも荘重なのだ。赤鯛の前の葉についた霜が徐々に消えていき、雪山の後ろから朝日が静かに昇り始めた。

   おしまい

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?