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創作大賞2024恋愛小説部門『三つ目のストーリー』2
夕方頃、霜は金剛寺ホテルに到着した。かつてはホテルだったが、数年前から賃貸アパートに変貌した。霜はこの古びた三階建ての建物を見回し、また道端の反射鏡に映った自分の姿を眺めた。このど田舎で安価な住まいは、刑務所から出たばかりの彼女にぴったりなのだ。「まるで私みたいだわ」と、霜は錆びついた鉄門を押し開け、中に入った。
部屋はほぼホテルの客室のままだが、清潔で整った客室とは違い、生活感が溢れている。前の住人は退去時に掃除の仕事をせずにそのまま霜に残した。無慈悲ではあるが無理もない。なにしろ家賃は月三万円しかないからだ。
霜は不満をこぼさず袖をまくり、スカートの裾を上げ、着々と部屋の片付けを始めた。ほぼ8年間「家」と呼べるところで暮らしていないけれど、長年主婦として身についたスキルは全く衰えていない。カーテン、壁紙、床、テーブル、あっという間に元の姿に戻した。トイレ掃除の時にスカートを汚して、普通の人なら捨ててしまうほどの状態になった。霜はスカートとストッキングを脱いでたらいに放り込んで、下着一枚のままトイレの掃除を終え、汚れた衣服まで洗った。
十一月という寒い季節に、暖房のないこの部屋はとりわけ寒さく感じる。霜は手提げバッグから唯一の着替えの下着を取り出した。それは黒いベロアフレアスカートで、見たところ十年も前のデザインなのだ。軽やかに身に着けると、霜の気品を絶妙に引き立ててくれた。しかし、ファスナーを閉めると、やはりウエストが少し大きめのため、霜は鏡に向かって困った顔をした。手提げバッグを隅々まで探しても、ベルトは見つからない。とっさの思いつきで、霜は暗赤色のシルクスカーフをベルト代わりに使うことにした。暗赤色のシルクスカーフは霜の雪と同じように白い指の間を通り、スカートのウエストループに通され、横に精巧な蝶結びが出来上がった。これで霜のスカートは無事に整った。
少し座って休もうとしたときに、ドアノックの音が聞こえてきた。外に立っていたのは、四歳の男の子盛一郎だった。
「誰を探してるの?ぼうや。もうすぐ暗くなるというのに、見知らぬ女性のドアノックをするのはダメだよ。」霜は少し子供をからかうように言った。
盛一郎は何も言わなかった。
霜が少し怖がらせようとしたとき、盛二郎を抱えた文乃がやって来た。「盛一郎、こら!何度も言ったでしょう、勝手に他人のドアを叩いてはいけないって、失礼だから」盛一郎を叱った後、文乃は急いで霜にお辞儀をして「本当に申し訳ありません!」と謝った。
「大丈夫ですよ、子供のすることですから」
霜が責める気がなさそうだから、文乃は盛一郎の手を引いて西側の部屋に向かって行った。
霜は母子3人の後ろ姿を見てドアにもたれてしばらく立っていた。
文乃が一歳ほどの盛二郎を抱っこしていると、盛一郎がふとした隙に母親の手を振りほどき、霜の斜め向かいの部屋に駆けつけ、どんとドアを開けた。いたずらした盛一郎はまた走り行き、文乃は追いかけていくことしかできなかった。
霜は自分の部屋に戻ろうとしたところに、盛一郎が開けた部屋にいる若い男性に注意を引かれた。
その部屋の居住者は32歳の朝倉雅旭。長い間失業していた彼は先月ここを借りた。優秀な弁護士を目指して司法試験に向けて準備を進めている。実家は老舗のうなぎ屋を経営しているので、後継者として彼に大いに期待を寄せた。東京で仕事を失い実家に戻ってからも地道に家業を手伝っていたが、やがて大きな決断を下し、「出奔」することにした。
雅旭はハシゴにのぼって不器用そうに天井の電球を取り替えようとしており、部屋の前に来ている霜にまったく気づいていない。
「ねえ!十秒で済むよ!」と、いきなり霜が言った。
雅旭はどこからか聞こえた声に驚いて周りを見渡したら、ドアのところにいる霜に気づいた。
「あれっ、ドアが開いてる...すみません、僕に話しかけてますか?」
霜は雅旭のところにまっすぐ歩いて行き、彼の手から電球を受け取ってハシゴから降りるように表情で示した。雅旭は状況が掴めていないけど、おとなしく霜の指示に従って行動した。このほっそりとした中年女性が、自分が立っていたハシゴに上って電球を取り替えてくれた。霜が落ちないようにと雅旭はしっかりとハシゴを押さえている。本当に落ちてしまったら、怪我をさせないようにだき抱えてあげないとって考えた。
「よし!」素早く電球を交換した霜はハシゴから降りようとする。
少し邪魔そうに感じたから、雅旭はやっと手放した。「すごい早いですね!ありがとうございます!でも、もう少し時間をくれれば、自分でもできたと思います」
「そうかしら」霜は雅旭の容姿を下から上へまで眺めた。
細身で背が高くない男の人、ズボンも上着もシワだらけで、髪もパサパサ。でも顔立ちが綺麗で、小鹿のように潤んだ目で新しく取り替えた電球を見つめている。霜はにっこりして部屋を出ていった。
「なめられたか」と雅旭はため息をついた。
司法試験の本で埋め尽くされた机に戻り、勉強を再開した。時には二時間、時には半日、さらには朝から晩まで机から離れない頃もある。新しい発明に没頭する科学者と同じぐらいだ。つい最近、長時間座ると痔のリスクが高まることを本で読んだことから、朝に三十分間ジョギングをして、それから簡単な朝食をとった後に勉強する習慣をつけるようになった。朝食だと言っても、コンビニのパンやおにぎり程度で、食欲がない時は納豆だけで済ませることもよくある。食事と簡単な運動以外の時間は、ほとんど勉強に集中している。
しかし、猛勉強は高効率を生むわけではない。朝に復習した知識が、午後の科目集中答練でまったくできなくなることがしばしばある。勉強に追い詰められた雅旭は、このままでは倒れてしまうんじゃないかと心配した。二週間前のある日、朝のジョギングから帰ってきた彼は机に向かうことなく、目的もなくドライブに出かけた。車の窓を開けて、耳元を駆け抜けた秋風が悩みを吹き飛ばしてくれるかのように感じた。その日の終わり頃、彼は宇多津で家庭教師のアルバイトを見かけた。気分転換にはちょうど良さそうだし、報酬も悪くないから、彼は快くその仕事を引き受けた。
カップ麺の蓋を開けると、豚骨ラーメンの香りが部屋に広がる。カップ麺って人類の最も便利な発明だなとよく思う雅旭は、机で夕食を食べ始めた。
夕方に止んだ雨は、夜になるとまた急に降り出した。「ビア五つ、人生五十路、うば桜……季節の言葉が足りないかな」霜は窓際に座り、ビールを飲みながら隣から若いカップルの笑い声が聞こえてきた。
金剛寺ホテルからバス停までは徒歩で約十分の距離。一度バスに乗れれば、どこへ行くにも特に問題がないのだが、ど田舎の場所にあるため、バスの本数は非常に少ない上に、時刻表通りに運行されることも少ない。お日様が上空にガンガン照らしても朝の便が来ないこともあれば、お日様が暮れる前に最終便がすでに終わってしまうこともある。
霜はバス停で震えて寒さに耐えながら待っていたが、結局バスは来なかったから、仕方なく金剛寺ホテルに戻った。
敷地内には雑草が生い茂っている。規則的に四隅に生えているため、住民の生活には特に支障を与えていない。人間に追いやられて隅でひっそりと生き残っているかのようにすら見える。東側の空き地には数台の自家用車が整然と止まっている。霜は自分の赤いスカーフと同じ色の小型車に目を引かれた。何気なく助手席のドアを引いてみると、驚いたことにドアが開いた。自分を招き入れるかのように感じた霜は、深く考えずにそのまま助手席にに座り込んだ。
家庭教師の時間になると、雅旭はいつものように出かけようとした。今日は早く帰って部屋のお掃除をすることにした。昨晩、寝る前に天井にいたクモに気になる彼は捕獲道具を準備したところ、どうしても見つからなくなった。クモは一体どこへ行ったのだろう?もしかして見えないところにたくさんいるかもしれない。次はいつ現れるのだろう?運転中に居眠りなどしてしまったら、それはきっとそのクモのせいに違いない。クモのことで頭がいっぱいになった雅旭だが、運転席に座ると、目の前にはクモよりも驚くべき人物がいた。
同じくらい驚いたのは霜だった。
「すみません……いや、どうして僕の車に?」雅旭は混乱に陥って、シートベルトを締めることすらできなさそうだった。
今時、これはあの電球をうまく取り替えられなかった人の車だということに霜は気づいた。「お金が必要だから、宇多津に行ってお仕事したいの」
「僕もそこで働いています。中学生の家庭教師として」
「それならちょうど同じ方向だね。行きましょうか」
「そうですね、行きましょう」
会話の流れが自然すぎて、逆にどうして自分の車にいたのか問い詰めることができなくなった。霜がシートベルトを締めると同時に、車は正門に向かって走り出した。
雅旭は見慣れた沿岸道路を車を走らせている。交通量が多くない道なので、いつもの速度ならそろそろ宇多津に着くはず。もしかして、あのクモがこの女性に憑りついて自分を困らせに来たのではないか?見知らぬ女性が車内にいると、雅旭のぼんやりしていた頭に炭酸飲料のようにシュワシュワと泡が浮かんでいる。早く目的地まで送ろうと考え、一気にアクセルを踏んで前方の遅いトラックを追い越した。バックミラーに映るトラックがだんだん小さくなっていくのを見て、雅旭は自分の判断が正しかったと思ってほっとした。
「あら~アクセルの踏み方乱暴だね。さっきスピードオーバーしたでしょう?見た目からすると、制限速度を必死に守るタイプじゃないかと思っていましたよ」
またなめられたことに気づいた雅旭は、少し不快に思いながらも、穏やかな口調で「いや〜安全の範囲内なら、少し速く走るのも普通のことです。それに、さっきのトラックが視界を遮っていたので、後ろでノロノロついていくほうが危険ですよ」と言った。自分が早く彼女を降ろしたいという気持ちをバレないように、「交通安全規則って元々安全のために設けられているものなんで、安全のためなら少しのスピードオーバーも問題にならないです」と雅旭はさらに付け加えた。
「うん〜確かにその通りね」霜は手で顔を支えて雅旭に視線を向けた。冷静そうに見えるが、その極力に隠そうとしている不安を霜に敏感に感じ取られた。それが逆に、もっと彼のことを知りたくたった。
雅旭はついに口を開いた。
「どうしたの?そんなに見つめないでくださいよ……落ち着かないんですから」正直に話す方がいいと雅旭は思った。
「こっちを見ないと気づかないでしょう?それに、ここは私たち二人しかいないの。そっちを見ないと誰を見ればいいの?」
「外とか」
「外を見ると車酔いしてしまうから、吐き気もするかもしれない」霜は困ったふりをして言った。
「じゃあ……退屈なら、前方の収納ボックスにタバコが入っています」雅旭は霜が喫煙者だと勝手に決めつけ、自信ありげに言った。
霜は足を組んで、いらずらっぽい口調で言った。「イケメンの若い男性の隣に座っていて退屈に感じるわけないでしょう」これは霜の本音。近くで見たら雅旭の顔はイケメンでしょうがない。昨日初めて会った時の乱れた印象と違って、仕事に出かける彼はちゃんと身だしなみが整っている。
「じゃあ……好きにどうぞ」霜のスカートから覗ける細い足をちらっと見て適当に返事をした。
許可をもらった霜は遠慮なく目の前の収納ボックスを開け、タバコを取り出した。
「この銘柄を吸うの?」
「僕はタバコを吸いませんよ。この前友達が置いてたものです」
「そうなんだ」霜はさらに収納ボックスを漁り始めた。
「ライターを探してるんですか?奥にありますよ」
霜は手を止め、雅旭の顔を見つめながら尋ねた。
「私が見ちゃいけないものはないの?」
「何のこと?」雅旭は質問に戸惑った。
「例えば……君の年頃の若者が好むような……」霜は雅旭に顔に近づけてゆっくりと言った。
「見られて困るものなんて一つもないです」雅旭はキッパリと霜の言葉を割り込んだ。一連の曖昧な言葉遣いに、雅旭は不快感からイライラしてきた。
霜は再度収納ボックスに手を入れ、すぐにライターを取り出した。
銀色のライターが生き生きとした魚のように、霜の肌白の小さな指の間で動き回った。霜がタバコを吸う気配がないことに気づいた雅旭は、「吸わないの?」と思わず尋ねた。
「私は車の中でタバコの灰を撒き散らしちゃう人だからね」
「少し窓を開けて、外に灰を捨てればいいですよ」
「嫌だよ。寒くなってきたし、このワンピース以外、何も着ていないんだから」
「ワンピース以外、何も……」雅旭は霜をちらっと見た。
確かに、ワンピースと肌の密着具合からして、彼女は嘘をついていないはずだ。雅旭はすぐに自分が要点を外したことに気づいた。窓を開けて冷たい風が入ってきたら、彼女はきっと凍えるだろう。けれども、寒いのにどうしてそんな薄着をしているのだろうか。薄着だけならまだしも、どうして家にいないで宇多津に行こうとしているのだろうか。稼ぐためだとしても、こんな格好で行くのはどうなのか。こんな薄着で宇多津で何をして稼ぐつもりなんだろう?雅旭は霜が謎だらけで理解し難い女性に思えた。
「音楽でも聴こうか!」としか言えなく、しっとりとした曲を流し始めた。
車内はすぐに沈黙に包まれた。霜は何も言わず、雅旭も彼女を相手にしなくて済むようになった。この曲は人々に静かにするよう無言の命令を下しているかのように穏やかでありながらも逆らうことのできない雰囲気を醸し出した。
少し前まで隣にいるイケメンの男に興味津々だった霜は、温もりと優しさに包まれた中で、あっという間に眠りに落ちてしまった。こんなに安らかな熟眠はどれだけ久々だったか覚えていないくらいだ。
「あのう、すみません……」
霜は目を開けた。曲はいつの間にか止まった。起こしてくれた目の前のイケメンを見て、まだ夢を見てるのではないかと疑った。体にかかった毛布を触ったとき、やっと先ほどの記憶とつながった。
「目が覚めましたか?ゆっくり休んでほしかったんですけど、宇多津に着きましたので」耳元で雅旭の優しい声が聞こえた。
霜は体を起こし、外の街の風景を見ながらゆっくりと言った。「なんだか早いわね。やっぱり美男子さん一緒にいると、時間が経つのが早いわ」
先ほどと同じような不快感に襲われた雅旭は、急いで話題を逸らした。
「僕が家庭教師をしている場所がすぐ先にあります。どちらへ行かれますか?」
「前方で停めてくれればいいわ」
「わかりました」
雅旭は車の速度を落とし、ゆっくりと車を道端に停めた。
霜は毛布をきっちりと折りたたんで車から降りようとする。
「ありがとう、美男子さん。お名前は?」
「朝倉雅旭」雅旭は顔を赤らめて答えた。
「君にぴったりお名前ね!私は霜、星野霜」そう言って霜は毛布を軽く雅旭に投げつけ、胸のところに当たった。霜はドアを閉め、向かいの通りへ歩いて行った。
顔の赤みはまだ消えきれない雅旭。それも無理はない。毛布を抱えた彼の気持ちは花魁さんが投げてきた手鞠を受け取った気分で、霜の去っていく姿を見つめる目には未練と心配が混じっている。この謎の魅力的な女性は、きっと他人には知りえないつらい経験してきたのだろう。霜が斜め向かいの店に向かって歩いていった。「daze club……か?」と雅旭はため息をつき、隣の狭い路地に入っていった。
daze clubは宇多津の繁華街に位置しており、サラリーマン、作業員、農家、学生、主婦など…イワシの群れのような人混みが毎日ここを通っている。daze clubのすぐ隣は南方書店という目立たない古いお店。豪華な奥様のようなdaze clubと比べると、南方書店は質素な田舎のおばあさんのように見える。霜は今ここで一生懸命働いている。
お客さんの多くは読んだ本を本棚に戻す習慣を身につけている。それでもそれだけで整理の仕事が軽減するわけではない。灯台に喩えられる分類ラベルのような存在があっても、南方書店という海で方向を見失う船の数は少なくない。霜がやっているのはこの海域で迷子になった船を航路に戻す手助けの仕事なのだ。このような複雑な作業は、初日勤務の新人ならば誰でも頭が混乱してしまうだろうが、霜は様々な本を素早く整理しながら、ついでに本棚の埃をきれいに拭き取ることまでできる。どんなイワシが入ってきても、霜はすっと餌を与えることができる。イワシたちが夢中に呑み込んでいる間に、霜は隙間を見て花たちに水をやったりすることもできる。店主の南方さんの話では、霜が来てから南方書店には自分の幽霊姫が現れたみたいとのことだ。
十五歳の羽柴は、ペンを耳にかけ、手で顎を支えて、ぼうっと青空を自由に飛ぶ白い鳩を見つめている。
雅旭は本で軽く羽柴の頭を叩き、少し厳しめの口調で「おい!早く書けよ!」と言った。
「痛いよ!」羽柴は軽く文句を言いつつも、おとなしくペンを取り、英語の問題集に取り組み始めた。
「よし、このページが終わったら休憩しよう。テラスに行って日向ぼっこでもする?」
「うん、ありがとう」
雅旭はガラス戸を開け、細心の注意を払って羽柴の車椅子を押して、テラスに出た。羽柴の家の二階のテラスからは、特に目を引けるような自然景色は見えず、目に入るのはどんよりとした屋根や壁ばかりだ。しかし、耳を澄ませば、隣家の赤ちゃんの可愛らしい笑い声や、顔も知らない女子高生たちが恋バナをしている騒ぎ声、競馬ファンのおじいさんたちが運の悪さを自虐する大声、公園から聞こえてくる野球がバットに当たる音……生き生きとした世界が目の前に広がる。それが雅旭と羽柴はテラスに出て気分転換するのが好きなわけだ。十七歳年の差の二人の受験生は、この小さなテラスで存分に癒されている。
「大熊チームは今日負けそう」歓声が聞こえる中、羽柴はぽつんと言った。羽柴は公園での野球試合を音だけで聴取するため、打撃の音が重いチームを「大熊チーム」と名付け、チアガールの応援があるチームを「白鳥チーム」と名付けた。二人で野球の試合を聞きながらコメントするのが習慣になっている。意見がほとんど一致している二人は現地で観戦しなくても十分に満足感を得ている。雅旭が返事をしなかったため、自分の見解と食い違っていると思って羽柴は補足した「白鳥チームは八本のホームランを打っているし、覚え間違っていなければ、大熊チームはまだ二点差で負けているはず。もうすぐ試合終了の時間だし」
「そうだったか。ごめん、試合の状況を聞き逃していた」雅旭が野球の試合を聞く時に気が散るのは珍しい。普段なら羽柴よりも鋭く試合の展開を把握できて羽柴に感服させられている。しかし、後半が始まって間もなく、彼は黙り込んでいた。試合結果に気になって声を出せないのではなく、通りの向かいにある南方書店で、霜が脚立に座って読書している姿を見かけたからだ。
「そういうことだったのか!」雅旭は再び呟いた。羽柴の勉強を指導をしている間に、霜を乗せたことも、霜という人の存在もすっかり忘れてしまっていた。daze clubで客に笑顔を振りまく人は自分のことを覚えようとするはずがないから、自分もそのような人のことを心を残そうとする必要はないと考えていた。しかし、自分が勝手に誤解したことがわかったら、雅旭は、彼女のことをちゃんと心に留めようと決意した。
「そうだね。やっぱり大熊は白鳥には敵わないか……」羽柴はいつも大熊チームを応援しているが、今日の大熊チームのパフォーマンスにがっかりした。「朝倉先生、戻ろう!」
「うん、戻ろうか」霜は脚立から降りてお客さん対応で雅旭の視界から消えた。我に返った雅旭は羽柴の車椅子を推して部屋に戻った。
最後に届いた新刊を本棚に並べた霜は、腰を伸ばしながら拳でこんこんと腰を軽く叩いた。四十七歳の彼女にとって、一日の仕事は体への負担が少なくない。ガラス越しで橙色の光が店内に差し込み、たそがれが静かに訪れた。
「ご苦労さま、霜ちゃん。初日からこんなに頑張ってくれてありがとうな」南方さんが霜のところにやって来て言った。
「とんでもないです。南方さんが受け入れてくれなかったら、いまだに居場所がわからなかったはずです」夕日に染まった南方さんの金色の髭を見つめながら、霜は心から感謝の意を表した。
「いいよ、あとは私がやるから」南方さんは地面に置かれた空っぽの本箱を拾い上げて言った。
「いいえ、私が整理してから帰りますから」霜は急いでしゃがみ込み、南方さんの手伝いをした。
「午後から止まってましたよ。あの車、君を待っているでしょう」
「そんなわけないですよ」霜は考えもせずに笑って言った。
南方さんの視線を追って見たら、自分のスカーフと同じ色の乗用車があった。車の前部しか見えないから、雅旭の車かどうか判別できない。家庭教師の仕事が終わったら、とっくに戻っているはず。ここで待っている暇なんてないだろう。たとえここにいたとしても、ほかに用事があったりするに違いない。いずれにしても自分を待っているわけがない。霜は空っぽの箱を一つずつ広げ、紐でまとめて倉庫に運んだ。床をすべてきれいにした頃には、街はすでに灯火で輝いている。
霜は重いシャッターを下ろし、今日の仕事がこれでようやく終わった。冷たい風が吹きわたり、霜は俯いてくしゃみをした。顔を上げると、雅旭が車の中から彼女を見つめていた。目線を合わせたら、雅旭が午後からずっと待っていたのが自分であったことが確信できた。
霜は少し鼻がツンとした。さっきのくしゃみのせいか、それとも今までこんなに自分を待ってくれる男性がいなかったからかもしれない。でも彼女はすぐに、雅旭をからかったり冗談を言ったりする状態に戻り、微笑みながら車に歩み寄った。
霜が近づいてくると、雅旭は朝に霜が言った話を思い出し、また気まずくなるだろうと予想した。どうやって返事すればいいかわからなくて早めに降りてもらおうとするかもしれない。しかし、彼は午後の時間を使って十分覚悟を決めた。できるだけ話しかけないようにしようと。
「待ってたの?」霜は車のドア越しに微笑みながら雅旭に尋ねた。
「うん、乗って」雅旭は答えた。
いつも賑わいのある金剛寺ホテルの三階の廊下には、今夜はひときわ静かなのだ。霜と雅旭はそれぞれ自分の部屋のドアに向かい、少し気まずい雰囲気が漂っている。
彼女は何も言わないのか?本当に仕事で疲れているのか?帰りの車内では二人はずっと黙ったままだった。雅旭はその沈黙を楽しむというよりも、沈黙の後に何が起こるかということに気になる。このタイミングで霜がまた冗談など言ったら、それは静かな湖に石を投げ込むように自分の心に波紋を広げることになるだろう。もういい、考えるのをやめよう。そのまま部屋に入って勉強しよう。そう思っても、雅旭はポケットから鍵を取り出そうとしていない。
「おやすみ……こんなことを言いたくないけど、こんなど田舎で何をできるかというと、誰かが一緒におしゃべりしたり、お酒を飲んだりしてくれたらなぁと……」霜は鍵を回してドアを開けた後、突然雅旭に向かって冗談っぽく言った。
「おやすみ」雅旭は素早く鍵を開けて部屋に入り、急いでドアを閉めた。
「かわいい」霜は目的を達成したかのように満足そうに笑った。
雅旭は自分が恥ずかしがり屋だということがよくわかっている。学生時代には体育の授業で女子たちの「朝倉君、頑張って!」という応援の声だけで心拍数が上がったし、社会人になってからも飲み会で同僚たちとお世辞を交わしながら数杯飲むだけで酔っ払ってしまうこともあった。恥ずかしがり屋という性格自体が嫌いなわけではないけれど、他人に知られるのは嫌なのだ。だからいつもバレる前に冷たい態度をとって誤魔化そうとする。実際には逃げているだけなのだ。とはいえ、この方法はまあまあ効いている。
ということで、朝のジョギングから戻ってきて、霜が車にもたれているのを見た時、雅旭はただうつむいて「おはよう」と挨拶をしてそのままロビーへ走り続けた。
「今日はガキの家庭教師に行かないの?」霜が尋ねた。
「羽柴君なら今日は病院に再診に行くんです」霜の疑問を感じ取った雅旭は正直に答えた。
「そうか……」
「星野さんは今日も南方書店にお仕事に行くんですか?」わかっていることだけど、雅旭は足を止めて聞いた。年上の人と話すときには礼儀正しくしたほうがいいと思ったからだ。
「うん、お金が必要だからね」
「車の鍵を渡しますから、自分で運転できますか」
「無理、私は絶対に運転しません」霜はきっぱりと断った。
「……では失礼します」
「ちょっと!」
「勉強に戻らなきゃ……」
「袖口が破れてるよ」
本来なら逃げられたはずだが、これでますます大変なことになる。雅旭はグレーのパーカーの袖口にある約5センチほどの裂け目を見て、顔が真っ赤になった。
霜は机の前の椅子に座って雅旭のパーカーを縫い直している。雅旭は膝を抱えてベッドに座ってその様子を見ている。霜の手でグレーの糸はいい子のように動く様子を見ていると、なぜか雅旭は網を編むクモを思い出した。自分の睡眠を邪魔したクモはまだ見つかっていないのだ。
「はい、できた。着てみて」霜は結び目を作り、余分な糸を歯で噛み切った。
「すごい!破れた跡は全く見えないですね!」雅旭はパーカーを着て、破れた袖口を何回も見てもどこが破れていたか正直もうわからない。
「私にとっては簡単なことよ」
「星野さんってこういう針仕事ができる人なんて見えないですね!」
「君は本当に口がうまくないわね」
「ごめんなさい、ありがとう」
車は宇多津まで走ってきている。
「服のお直しはお礼として受け取ってね」霜が先に口を開いた。
「別に何もしてませんよ。ちょうど勉強して頭が痛くなったから、外に出かけたかっただけだし」
「司法試験のお勉強?」
「うん」
「君もお金が必要なの?」
「いや、ただ弁護士になりたいだけなんです」
「弁護士って、お金さえもらえればどんな事件でも受けるんじゃないの?」
「そんなことはないですよ。星野さんは弁護士に誤解があると思います。実際に弁護士と接してみれば、どれだけ高尚な仕事かわかると思いますよ。みんな、ドラマや映画で歪んだ弁護士のイメージに騙されてる」
「弁解がましいことを言わないで!ただのお金にしか興味がない連中じゃないの!」霜の声が大きくなり、怒りを込めた言葉を吐き出した。
「弁護士は法律を用いって公平と正義を守る人たちです。他の業界より給料はずっと高いけど」
「公平と正義?」霜はなめた口調で雅旭に聞き返した。
雅旭は霜の弁護士に対する偏見に不満を抱えた。自分の憧れの職業が直接的に貶されるのは耐え難いことだ。
「星野さん、もっと詳しく説明をさせてほしいんですけど……」雅旭は霜に聞いてもらうように、できるだけ穏やかな声で話した。
「もういいわ、全然聞きたくない!」霜は怒りを込めた口調で雅旭の話を遮り、体をそっぽ向けてしまった。
霜がなぜそのようなリアクションを示したか雅旭には理解できない。自分はまだ弁護士になっていないけれど、なんだか謂れもなく叱られたような気がした。何だよ、また顔が真っ赤になり、言葉に詰まったりするんじゃないかと心配していたけど、そのどころか、今の状況を見ると、このまま議論を続けていけば激しい口論にもなりそうだ。
雅旭は車の窓を開けて空気を入れ替えようと思ったが、昨日霜がワンピース一枚で寒いと言っていた場面を思い出して、ボタンを押そうとした手を引っ込めた。腹立たしい気持ちを和らげるために音楽に頼るしかないと思ってオーディオの再生ボタンを押した。霜も何も言わないまま音楽を聴いていた。前回もこの曲の名前を知りたかったが、普段ならきっと魅力的な笑顔で雅旭に近づけて曲名を尋ねただろう。そして雅旭はわざとよそ見もしないで仕方なさそうな顔で答える。しかし、今の霜はただ外を見つめ、雅旭も音楽も彼女とは無関係かのようだった。
重苦しい雰囲気の中、車は宇多津の街道に到着した。
「6番……夫の森尾も野球チームの6番だったの……」霜は淡々と独り言のように車内の静けさを破った。
何も返事しないと二人の間にこの緊張感が続いて気まずいだろうと思った雅旭は、霜の目線に沿ってコーヒーショップで列を待つ野球選手たちを見ながら「どうして旦那さんと一緒に暮らさないんですか?」と聞いた。
「八年前、私が殺したの、彼を……」霜は他人事のように冷静な口調で言った。
「そんな!まさか?!」雅旭は本能的に衝撃を受けたが、あまりに驚くと霜になめられるし、霜がただ彼をからかおうとして怖い話をしている可能性もあるし。そこで雅旭は冷淡な態度を装って質問をしただけだ。
「どうしたの?怖い?人殺しが助手席に座ってて」今度こそ霜は本当にからかおうとした。
雅旭はうなずき、また首を振った。
「君って本当に面白い人ね」霜は雅旭に向かって輝くような笑顔を見せた。
南方さんが常に予測できない行動をとる人だと、霜はいつも思っている。二人は店についたところ、なんと「本日休業」と書いてあった。
「あのジジイ……何で知らせてくれなかったのよ!」
「どうしますか?帰ります?」雅旭は早く帰って勉強をしたい気持ちもあれば、先ほど衝撃的な話に興味を引かれていたから、このまま霜と一緒にいると、彼女のことをもっと知れるような気がした。
「森尾と結婚してからここには戻っていないの。少し散歩に付き合ってくれる?」霜はため息をつき、雅旭に言った。
秋の午前中の公園は太陽の金色の光に覆われており、落ち葉が人々の足元でサクサクと音を立てる。眩しい日差しで霜は目を細め、目尻に細かな皺が寄っている。錆びたブランコが揺れてキーキーと音を立て、二人の思いを遠くへ届けた。
「子供の頃、この公園にはたくさんの綺麗なお姉さんたちが姿勢の練習をしていたの。私はブランコに座って、彼女たちが真ん丸い胸を張って歩くのを眺めていた。高貴な鳥みたいだったよ。私もちゃんと練習すれば、彼女たちに負けないと思ったの……」
「それでどうなったんですか?」
「家では鏡に向かって一生懸命ウォーキングの練習をしたの。小さな部屋を何回も何回も歩いて、いつかモデルになって、ランウェイでライトよりも輝いて、一歩ずつみんなの心に歩いていくのを夢見ていた」
「夢は叶ったんですか?」雅旭は霜に顔を向けた。大昔の夢を語る彼女は目に誇りに満ちているのだ。このような女性がどうして人殺しになってしまったのか雅旭には理解し難い。
「叶わなかったわ。叶っていたら、森尾とは結婚しなかったはずだし、彼を殺すこともなかったでしょう。あの人、最初の頃はあんなに優しかったのになぁ……」
「僕は……」雅旭は何か言おうとしたが、すぐに言葉を飲み込んだ。
「うん?」霜はブランコを揺らす動きを止め、細長い目で雅旭を見つめた。
「先月、長い間仕事を失った僕は、街で高校時代の彼女を見かけたんです。久しぶりの再会で、彼女の胸には弁護士バッジが付いていた。濃紺のスーツに金色のバッジ、視線を奪われた」雅旭は霜の視線を感じて頭を下げた。女性の目を見てこのような話をすると自分が情けなく見えると思った。
「それで、彼女と同じように弁護士になりたいと思ったの?」
「うん、少しでも彼女に近づけるからと思って」
「彼女に出会う前には何をしていたの?」霜は雅旭の話に興味を示した。
「実家は高松でうな重の老舗をやってて、父の代で三代目です。両親は店を継いでほしいと望んでるから、『四代目』と呼ばれてるの」
「いいんじゃない?生まれながらにして老舗を継げるなんて、必死に勉強しなくても大丈夫でしょう」
霜の疑問の視線に、雅旭は苦笑しながら続けた。「僕はずっと大学に入って会社で働きたかったんです。放課後には店で手伝いをして、隙間の時間には奥の部屋で宿題をしていました。忙しい時に僕が見当たらないと、父はいつも僕の襟を掴んで引っ張り出してきたり。母は父のいいなりだから、オールAの成績表を見ながら、父の叱責や暴力をただ黙って見てました」
「それで、その後はどうなったの?」
「結局、『四代目』になるのを諦めて、東京の大学に進学して会社に入ったんです。順調そうに見えた、何でもかんでも」
「仕事を失ったって、どういうこと?」
「会社が経営不振で倒産したせいで、僕も仕事を失ったんです。母に説得されて一旦実家に戻りました。『このままだと本当に四代目になっちゃうかも……』そう考えてるうちに、高校時代の彼女に再会した」
「それであんなど田舎で部屋を借りて、必死に司法試験の勉強をしているってわけね?」
「うん」
「私とこんなに話すのは初めてだね。大丈夫?」
「星野さんなら、信頼できると思う」雅旭は真摯に答えた。
「実は、先日服を直してくれた時、母のことを思い出しました。母は昔夜中に『amapola』を聴きながら僕の服を縫ってくれていたんです」
「おいくつ?」霜は笑いながら雅旭に尋ねた。
「三十二」
「じゃあ、私がなんとか産める年齢ね」
「本当ですか?てっきりいくつか歳上のお姉さんだと思っていましたけど」雅旭は霜の年齢に驚いた。霜の年齢には特に興味はなかったが、それにしてもこんなに年齢差が大きいとは思いもしなかった。
霜は機嫌良さそうにブランコから立ち上がり、雅旭の肩を叩いて言った。
「嬉しい!お姉さんは今お腹が空いたから、美味しいものを食べに行こう」
外では雷鳴が激しく轟き、冷たい風が雨粒を窓に叩きつけている。
霜は目を覚まし、起き上がって電気スタンドをつけたが、部屋はまだ薄暗いままだ。雅旭と海鮮丼を食べたときの約束を思い出すと、いくぶんぬくもりが感じられた。
「あのう、シャツのボタンが取れちゃったし、ズボンの裾もほころびてる。それに、アイロンがけが苦手だから、ジャケットいつもシワシワ……」雅旭はウニを見つめながら言った。
「だから、朝言ったお礼、今回だけじゃなくてさ……」
チーターがシカを捕まえて、遊ばずにすぐ食ったように、霜は直球で雅旭に言った「分かった、長期の分割払いでいいよね」
もう少しウニを食べようと雅旭は席を立ち、海鮮コーナーに向かった。これが同意の意思表示だろう。
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