見出し画像

創作大賞2024恋愛小説部門『三つ目のストーリー』5

   大雨が一晩中降り続き、昼近くになってようやくやんだ。霜は空気を入れ替えるため窓を開けた。庭の枯れ葉が殺虫剤を撒かれた蝶々のように地面に敷き詰められている。冬という季節だけある景色だ。霜は少し息苦しさを感じ、厚手のコートを着てマフラーを巻き、外に出かけようとした。

 玄関で指先がドアノブに触ったら、一瞬止めた。ドアを開けたら雅旭に会えるだろうか?ショーを見に行った日以来、二人は普段通りに戻っている。雅旭は家庭教師に行く時に、書店まで霜を乗せていく。たまに羽柴家のテラスでくつろぐ雅旭と南方書店で本を読む霜と目線を交わし合うことがある。仕事が終わった後、再び霜を乗せて金剛寺ホテルに戻る。疎遠にも親密にもなっていない。あの日は誰かにカレンダーからこっそりと消されたように、二人ともあの日のことを口にすることはなかった。これでいい、このように雅旭と毎日会えるなら、なんでも構わない。霜は前髪をかき上げ、ドアを押し開けて部屋を出た。

 元から明かりの薄い廊下は曇った天気のせいか特に暗く見える。雅旭の部屋の前には見知らぬ女性が光に逆らって背中を霜に向けて立っていた。「どちら様ですか?」霜は小さめな声で聞いた。

 枯葉に埋もれて土が見えない小道を、霜と先ほど出会った女性は並んで歩いている。小柄で、肩までハーフアップをしている。淡い灰色のコートに茶色のストールを合わせて仕草には昭和の品のある気配が漂っている。「朝仓清子、雅旭の母です」と自己紹介の間、そよ風が吹いて、斜めに分けた前髪が彼女の潤んだ目を隠した。彼女はただそっと髪をかき上げ、微笑んで霜を見つめた。顔が雅旭と似ているというよりも、霜は会ったことのない愛菜さんのことを思い出した。何となくこの二人は同じタイプなのだろうと感じた。

「雅旭に会うかどうか迷ってたら、もうここに来ちゃいました。会えてないほうがよかったかもしれないけどね」

「もう少し待ってみませんか」

「けっこうですわ。雅旭は口数が少ないけど、芯は優しい子なの」

「そうですね」

「勉強には才能があって、成績もいいのに、料理だけは普通の人よりずっと不器用で……」世の中どの母親も同じように、清子は雅旭の話を一旦始めると止まらなくなった。

「そうなんですか?」霜は清子の話し声が好きなのだ。軽やかだけど落ち葉を踏む音にかき消されることはない。まして雅旭のことを話しているとなれば、さらに霜の興味を引いた。

「本当よ。十五歳の時はうなぎの捌き方も知らなかったし、十七歳の時にろくにもうな重を作ることもできなかった。夫が厳しかったから、幼い頃から四代目になることを期待されて、きっと大きなプレッシャーがあったのでしょう。いつも一人でこっそり練習していて、手に火傷をしたり、包丁で切られたりしても、一度も言ってこなかったわ」清子の話を聞いてるうちに、霜は少年の雅旭が白い割烹着を着て料理の練習をしている姿を頭の中で描き始めた。少年のきりっと美しい顔に汗がにじみ、立派な鼻が息を止め、波の形がしている紅色の唇がに引き締まり、決意と不安の入り混じった目が両手で握っているうなぎをじっと見つめている。体がすべらかなうなぎは少年の手で押さえられているにもかかわらず、指の間ですばしこく動き回っている。おそらく少年の目に映る情けに気づいたからこそ、うなぎはこんなにも忌憚なく振る舞ったのだろう。あっという間に少年の手から逃げ出してしまった……少年は「あっ!」と叫び、そのいたずらなうなぎを捕まえに行くしかなかった……

 霜は想像しながら口元に笑みが広がった。

「良い大学に合格して東京の会社に入っても、時々家に戻って手伝ったんです」

「お母さん、いい親孝行なお息子さんですね」

「そうですね。この前、仕事がなくなって店を継ごうと言ってくれた時は、夫も私もとても嬉しかったわ。私たち無理矢理に強引するより、こうして自分で納得するのはずっといいことですから。でもある日突然、司法試験を受けると言い出したんです。長年抑えてきた感情が一気に爆発したみたいに、激しい親子喧嘩になって、雅旭はそのままここに来ちゃいました」

「雅旭さんは毎日一生懸命勉強しています」清子が聞いたら安心できそうな言葉を言った。

「実は、雅旭が仕事がなくなった時に、夫は白内障を患っていることがわかったの。視力が日に日に悪くなっていって、完全に見えなくなるほどではないけれど、このまま続けるのはお客さんに失礼だと夫はそう考えて、もううな重を作らないことに決めたの」

 霜はこれが雅旭に四代目を継いでもらいたいという意味だと悟った。そうしたら弁護士の夢はどうなるのだろう?愛菜さんはどうするのだろう?

「雅旭にどう考えてるか聞きに来たんです。ごめんね、優柔不断な性格なの、私、家のためにせっせと働く夫に逆らうこともできないし、息子にも虚栄心を抱いてしまって……だから雅旭はあんまり連絡してくれないのね。きっと私のことが嫌いなんでしょう……」

「違うんです。雅旭さんはよく車で『amapola』を流しています。それはお母さんが好きな映画の曲だって言っていました。あと、子供の頃、夜寝る前にうとうとしながら、お母さんが灯の下で服を直してくれる姿が懐かしいとも言っていました。雅旭さんはお母さんに会いたがっていると思いますよ」霜は清子の誤解を解こうとして早口で言った。

 清子は何も言わず、足を止めて霜の方を向いた。雅旭によく似た美しい目で霜の顔を見つめた。その目は、雅旭のいつもの恥ずかしそうに逸らす目とは違い、静かでしっかりとしていて、人の心を見透かすような力を持っている。霜はその視線と向き合い、言いたいことがすべて清子に伝わったような気がした。

 やがて清子はバスに乗って行った。霜は一人で金剛寺ホテルに戻る道を歩いた。冷たい風が数えきれない細かい刃のように服を切り裂き、肌に見えない傷跡を残していく。霜は別れ際の清子との会話を振り返った。

「やはり私が来たことを雅旭には言わないでください。夫が入院する前に新人を育てるなら、まだ間に合うかも。どんなことがあっても、生活は続けていかなければならないんですから。星野さん、雅旭のことをよろしくお願いします。そういえば、お母さんって呼んでくれますが、おいくつですか?私は五十三歳です」

 霜は引き出しから紙を一枚取り出した。それは霜が出所する前に受けた健康診断の報告書で、霜の体の状態が明白に記録されている。霜は腎不全と心不全という文字に目を留めたら、紙をくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に捨てた。それから冷蔵庫からビール一本を取り出し、仰向けになって飲み始めた。雅旭と親しくなって以来、酒を飲んでいない。健康診断書より雅旭のほうが禁酒に効いている。でも今日はどうしても飲みたくなったのだ。霜は膝を抱えて椅子に座っている。外では雨が降り始めた。「The rain that began at 1:00 PM today is expected to continue until tomorrow afternoon, with wind reaching level six. Those going out should bring an umbrella and take precautions against the cold.」霜の英語の放送は雨音にかき消された。



 霜が南方書店から出てくると、雅旭は急いで古びた精巧なノートを車の収納ボックスにしまった。

「昼ご飯は何にしましょうか?」

「なんでもいいよ、任せる」

「新しいラーメン屋さんができたんですけど、おいしいですって」

「いいね、そこにしよう」霜は車に乗ると、ずっとスマホをいじっていて、ほとんど雅旭に顔を向けなかった。昨日の夜、よく喧嘩しているカップルが急に物を投げ始めたせいで霜がよく眠れなかったんだろうと雅旭は思った。

「混んでいますね。けっこう並びそう」雅旭は遠くのラーメン屋の前にできた長い列を見て、困りそうに言った。

「美味しいから混んでるんじゃない?」

「その通りですね。じゃあ、僕が並んでくるから、先に休んでおいてください。けっこう並ぶと思いますから」雅旭は急いで車を止め、列に向かって小走りした。早くラーメンを食べられれば、星野さんは元気に戻るだろうと。

 霜のスマホはとっくに電源切れになっていた。ただ話したくなかったから、スマホをいじったふりをしていただけだった。雅旭が行った後、霜は充電器でスマホを充電しようと収納ボックスを開けた。手を入れて探ろうとしたとき、慣れない感触に少し戸惑った。何だろう?雅旭が先ほどしまったばかりのノートが霜の手の中にある。表紙には可愛らしい文字で「交換日記」と書かれている。霜はどんなノートかわかった気がしたが、やはり中身を知りたくてノートを開いた。

(ノートに書かれた内容)

今日は、人生の宝物を見つけた。それは雅旭君です。

——愛菜

すごく嬉しかった。今日という日は一生忘れられません。初恋の愛菜さんと付き合う初日。

——雅旭

明日の数学のテストがとても心配だったの。正直、先生の授業はあまり理解できなかった。でも、雅旭君の個別指導のおかげで、すぐに理解できた。明日のテストは自信を持って臨みます。私たち、どちらの成績がいいか競争しない?

——愛菜

へえ!今日はもう疲れて帰ったらすぐ寝るつもりだったのに。だめ、愛菜さんに負けていはいけない。夜中の3時まで勉強するぞ。マジ!

——雅旭

体育の授業での肉離れはよくなった?とても心配しているよ。

——愛菜

もう大丈夫。今は元気でぴんぴんしている。それより、愛菜さんは今日生理の日だよね。長距離の走り、夜にお腹は痛くなかった?

——雅旭

私と服屋さんから出た後でも、店員のお姉さんににこにこしてどうするの?

——愛菜

僕が?もしかしてヤキモチを焼いている?怒らないでよ。ゴールデンウィークに一緒に東京に行かない?二日一泊の旅行で。

——雅旭

転校しなくちゃダメ?

——雅旭

父は本社で働くのをずっと望んでいました。これは彼の長年の夢で、私と母は応援しないと。

——愛菜

五百キロ以上も離れることになるの?

——雅旭

毎日連絡するから、雅旭のことを絶対に忘れないよ。

——愛菜

僕も。毎日目を開けた瞬間と閉じる瞬間、一番最初と一番最後に思っているのはずっと君です。

——雅旭

 霜は日記を読みながら、清子の顔と「雅旭は芯の優しい人だ」という彼女の言葉を思い浮かべた。ページをめくる指先から伝わるパラパラの音が、皮肉に聞こえた。ふと、他人の日記を勝手に読むなんて卑劣な行為だと気づいた。単純な好奇心だったのか?いや、表紙を見ただけで中身が甘酸っぱい恋愛の日常だとわかっていたのに。それでもなぜ開けてしまったのか、自分の中の欲念を消し去りたかったのだろう。これで諦めがつくだろう、雅旭にとって愛菜さんがどれだけ特別かがわかったはず。霜の目は涙が溢れそうになってヒリヒリとしているから、頭を仰けしきりに目を瞬き感情を抑えようとした。雅旭が遠くからラーメンを持って車に向かってきた。霜は急いでノートを元の場所に戻し、鏡で目をチェックした後、うとうとしているふりをして座席に寄りかかった。

「これ、星野さんの。店員さんが忙しそうだったけど、やっぱり厚かましくお箸をもう一膳もらったんです。星野さんはラーメンを食べる途中で箸を替える習慣がありますから」雅旭はラーメンを霜に手渡した。

「ありがとう」霜はゆっくりと弁当箱を開け、濃厚な香りが一気に鼻を突いた。

「美味しい、本当に美味しい。このスープは絶品ですね。幸せを感じられるラーメンですね」雅旭は夢中でラーメンを食べながら言った。

「なんだか嬉しそうだね」霜が試すように尋ねた。

「そうかな……実は、ラーメンを買う列で高校時代の元カノに会ったんです」雅旭はラーメンを置いて、真剣な顔で言った。

「そうですか。おめでとう」霜もラーメンを置いて、茶目っ気たっぷりに拍手した。彼女はこういう偶然の出来事には必然性があると思っているので、驚くことはなかった。

「勇気を出して話しかけて、連絡先も交換しました。久しぶりに聞いた声が懐かしくて、高校時代に戻ったみたいな気持ちでした」雅旭は目を輝かせて言った。

「彼女をデートにでも誘わなかったの?」

「いや……」

「こんなチャンスを逃すの?」

「彼女に迷惑じゃないかな?」

「口ではそう言っても、心の中では彼女の耳元でたくさんのことを話したくてたまらないんでしょ」

「まあ、そうかもしれないけど……ちょっと言い過ぎっていうか」雅旭の顔は、霜が見慣れた赤みを帯びたが、今回は霜のためではなかった。

「じゃあ、このラーメンを食べ終わったら彼女にメッセージを送ってみたら?」

「ちょっと、それは良くないでしょう」

「愛菜さんが誰か他の人と一緒にいるのも構わないの?もしかしたらこれは神様がくれたチャンスかもしれないよ。逃したら、取り返しのつかないことが起きるかもしれないよ」雅旭は霜の真剣な顔で動揺した。いや、というよりあえて誰かが自分を動揺させてくれるのを待っていたのかもしれない。今、そのチャンスが訪れたのだ。二人は無言で美味しいラーメンを味わった。

 霜は丼を持ち上げ、香ばしいスープをごくごくと飲み込んだ。しかし、喉の奥に何かが詰まっているかのようで、滑らかなスープを飲み込むのも辛かった。隣の雅旭はすでに食べ終わり、愛菜さんにどのようなメッセージを送るか考え込んでいる。

「ごちそうさま!お腹いっぱい!」霜は素早く二人の食器を片付けた。「捨ててくるね」

「うん、すみませんね」雅旭はスマホを手にしながら適当に返事した。

 雨あがりの晴れ空、雲一つも見当たらない透明なほど青くなっている。道端の屋台から立ち上る白い煙が空を少しだけ飾っている。気温はまだ十度にも達していないから、熱々のラーメンを食べたばかりでも、霜は体の芯から冷え切っている。ゴミを捨て、コートのポケットに手を突っ込み、遠くから車のドアにもたれている雅旭を見つめた。彼はスマホを手にしており、もうメッセージを送って愛菜さんからの返信を待っているだろう。午後の眩しい日差しが雅旭の上に降り注ぎ、霜はあの日、あの暖かな街灯の下で雅旭にキスをしたシーンを思い出した。それは雅旭と最も近づいた瞬間だった。まもなく彼女は白い煙のように静かに消えていくだろうが、その前に雅旭が夢が叶うように守り続けたい。それが清子の願いでもあったからだ。



 簡単に夕食を済ませた後、雅旭は急いで帰って今日の学習計画を終わらせようとした。明日はきっと集中して勉強できないことを見越して、今日は追加で100問の問題を解くことにした。

 ただ計画は変化に追いつかないというように、仕事が終わった霜と会った後、雅旭は嫌々ながらも霜に引っ張られてデパートにやって来た。一階から三階まで、霜は足取りがとてもゆっくりで、目的もなくぶらぶらと歩き回った。「どうしていきなりデパートなんですか?」雅旭はついに堪忍袋の緒が切れたように聞き出した。

「給料日だからね。南方さんから5千円多めにもらったの。何か自分にご褒美を買おうかなと思って。最近ずっと忙しかったからね」霜は両手を後ろに組んで歩きながら言った。雅旭には彼女の表情が見えず、彼女が何を考えているのか全く分からなかった。

「それなら、どうしてメンズ売り場なんですか?服を買うなら、直接婦人服売り場に行けばいいのに」雅旭はメンズ売り場を見回しながら、不思議そうに言った。

「さっき一通り見たけど、好きなデザインが全然なかったから、買わないことにした」霜は時々店内の男性の洋服を触ったりして興味津々だった。

「じゃあアクセサリーでも見に行きましょうか。買い物が済んだら帰りましょう」雅旭は、買うものがないなら時間を無駄にしないでさっさと帰ろうと言いたかったが、霜が自分にご褒美を買いたいという気持ちを考えて、その言葉を飲み込んだ。

「いいの。大丈夫。私はメンズファッションが好きなの」そう言って一着のコートを雅旭の身に当てて、「これ、すごくいいね。試してみて」

雅旭が反応する間もなく親切な店員に試着室に連れて行かれ、仕方なくコートを着替えた。霜が次にどんなことをするのか雅旭は見当がつかなかった。

 ウールのコートは柔らかくて弾力があり、保温性は言うまでもなく、立体カットのクラシックなデザインも完璧と言える。さすがファッションに関わっているだけあって、このコートの仕立ても品質もとても見事だと雅旭は思った。着心地はどうだろうか?彼は袖口を引っ張りながら、ドキドキしながら試着室から出て鏡の前に立った。

 霜は手に持っていたファッション誌を置き、鏡の前に立つ雅旭を見つめた。雅旭は特に背が高くはないが、このコートをうまく着こなしている。襟ぐりが狭いデザインが身長のバランスを整えてくれ、そして雅旭の端正な顔立ちと相まって、雑誌のファッションモデルよりも格好良く見えると言っても過言ではないくらいだ。霜は静かに雅旭の後ろに立ち、鏡に映る雅旭を見て優しく言った。

「とても似合ってるよ、買いなよ」

 このコートのおかげで、雅旭は鎧を着ているかのようにいつもの内気な目つきとは違っていた。霜の褒め言葉に対して、彼は襟を整え、咳払いをして話した。「ありがとう。このコートが気に入ったけど、予定外の高額なコートを買うのはちょっと……」雅旭はさっき値段をチラッと覗いた、目眩するほど0がついている高額だから買えないわけではない。金剛寺ホテルに引っ越して以来、新しい服は一枚も買っていない。質素な古い服を着ているほうが学習意欲が湧くと感じているので、このコートとはお別れしなければならないと思った。

「明日、愛菜さんに会うでしょ?おしゃれにしないと。特別な取り柄がないんだから、見た目で勝負するしかないんじゃない?」霜は両手を雅旭の肩を押さえて、そうしたら言葉も重みを感じるだろうと思った。

「今朝のお客様がこのコートを着てプロポーズをしたら成功したらしいよ。あと以前もこのコートを着て婚約者のご両親に会いに行ったお客様もいましたわ」横にいた販売員が霜からの合図を受けて、興奮気味に補足した。

「どうやら縁起のいいコートみたいね。買いなよ!」

 元々このコートに惹かれていた雅旭は、「縁起がいい」という言葉を聞いたら、これを着て愛菜と一緒にいるラブラブな光景を脳内で思い描いた。「確かにそうですね。でも、なんだか贅沢なデートだなって」と少し考えた後で決断した。

 雅旭が会計に向かうと、店員は手際よくコバルトブルーの羊毛コートをアイロンがけし、折りたたんで手提げ袋につめた。霜がこのコートを選んだのは私心があることを誰にも教えていない。コバルトブルーは霜の好きな色で、それが雅旭に着られるのが自分が着るよりも嬉しかった。店内の芳醇な香りが心地よく漂う中、霜は複雑な表情で行ったり来たりして待っていた。これから雅旭と愛菜さんはエリートとして、こういう店にしばしば訪れるだろう。他人の未来に思いを馳せることができる人ってどんなに幸せなんだろう。自分には未来なんてないのだ。

 深夜一時、雅旭は目を見開いてベッドに横たわっている。疲れ果てた姿でデートに行きたくないので、十二時には布団に入ったが、なかなか眠れなかった。高級なコートはハンガーに掛かっていて、ぼんやりとした月の明かりがコートに柔らかく降り注ぎ、コバルトブルーに一層神秘的な美しさを添えていた。その神秘さは霜のことを思い出させた。今日は霜に騙されてデパートに入ってこの高級コートを買わされたのだ。給料をもらった星野さんは結局自分のためには何も買わなかった。雅旭は自分の単純さを嘲笑ってゆっくりと目を閉じた。



 波の音が聞こえる住宅街に、ボロボロの地下街があった。かつて自習室だった場所は、今はマドンナに似たベトナム人女性が経営するクラブになっている。霜の四十八歳の誕生日の夜、文乃に連れられてここで祝うことになった。文乃は盛二郎が出産する前にここで働いていたため、店の人々と親しい。彼女は性格が親切で明るく、ベトナム人のオーナーが不在でも事前に個室を手配してくれた上に、霜のために歌う歌手まで手配してくれた。霜は文乃の顔の広さに感心せずにはいられなかった。文乃との出会いは不思議なものだった。それから数日後には文乃に誘われ、バスを三回も乗り継ぎ、さらに徒歩で30分かかる名前も知らない福祉施設に無料の生理用品を受け取りに行った。「私はもう数回しか生理が来ないのに、こんなにたくさんもらってもいいの?」と霜が尋ねると、「大丈夫よ、もらわない方が馬鹿よ」と文乃は答えた。換気扇の音がプロペラのようにうるさい古い店で半額のトンカツを食べながら、二人は自分の経験した男たちの話をしていた。

「自習室の学生たちは、今やみんなこの店の常連になっている。オーナーが商売がうまいもんだ」と文乃は言いながらほかのお姉さんたちを呼び寄せ次々とシャンパンを開けて楽しんでいた。

 個室には次々と人が増えてきて、酒の匂いに混じって様々な香水の香りが漂っている。甘くて、芳しい匂いだ。女の子たちが集まり、文乃の手にある透明なグラスに視線を集める様子は、角砂糖に引き寄せられるアリのようだ。「はい!みなさん、静かにして聞いてください。今日はこの美しい霜さんの48歳の誕生日なの。みんなで一緒にお祝いしましょう!」そのうち7、8人の鮮やかで可愛らしい女の子たちが一斉にグラスを持ち上げ、「霜さん、お誕生日おめでとう!」とお祝いしてくれた。「ありがとう、今日は本当に嬉しいわ。もう一本シャンパンを開けましょう、私のおごりよ!」霜は涙ぐみながら女の子たちの乾杯の音よりもさらに大きな声で話した。

 杯を重ねるうちに、霜は何杯飲んだか分からなくなるほど酔ってしまった。霜は少し耳鳴りがして、隣の女の子たちの笑い声が遠く離れていき、逆に静けさを感じるほどだった。彼女はふらふらと窓辺に来て、海風を浴びようとして窓を開けたが、窓の外には狭く暗い通路しか見えなかった。そうだ、ここは地下街にある店だった。海風を浴びたくてもできなかった。マドンナに似たオーナーに会いたくてもできなかった。そして雅旭と一緒に過ごしたくても彼はデートに出かけてしまった……寂しさがアルコールよりも深く骨に染み渡った。

「いやぁ、今日は本当に楽しかった……」霜と文乃は互いに支え合って金剛寺ホテルの敷地にたどり着いた。

「先に行っといて、私は少し庭に座っていたいの」霜は足を止めた。

「わかった、先に寝るわ……」文乃は言葉がもつれるくらい酔っ払ってしまっている。

 霜はいつものように駐車場を見渡したら、そこには見慣れた赤い車が止まっている。今朝見た時と同じように静かに停まっており、どうも使用された形跡は見えない。もう戻ってきているのだろうか?霜は頭が重くて、首を持ち上げそうにもないが、苦労して首を回し雅旭の部屋の方を見上げた。真っ暗だった。もう寝ているのだろうか?霜は深く息を吐き、鼻に酔いの香りが漂う。

「お酒を飲んだんですか?」耳元にせせらぎのような澄んだ声が聞こえてきた。その声のもとを探して見ると、梧の後ろのベンチに、コバルトブルーのコートを着た雅旭が座っていた。

 霜は自分が酔って幻覚を見ているに違いないと思った。デートを楽しんだ雅旭は幸せに眠っているはずで、こんな時間にここにいるわけがない。しかし、それでも霜はそっと近づき、月の光の中にいる神様を驚かせないようにそっと雅旭の隣に座った。

「どうしてそんなに飲んだんですか?」雅旭は味わい深く泥酔している霜を見つめた。

「幸せだな……さっき誕生日ケーキのろうそくを吹き消す時に願ったの。戻って最初に会ったのが雅旭君だったらいいなって。こんなに早く叶うなんて、良かったわ……」霜は椅子に背がもたれて、弦月のような目を細めて微笑みながら誰にも聞こえないような声でぼそぼそと話していた。

 雅旭もベンチの背もたれに頭を預け、夜空を見上げた。明るい目が冷たい月の光を覆われいっそう哀愁を帯びている。冷たい風が吹き抜け、梧の葉がガタガタと音を立て耳障りだった。隣の霜はいつの間にかささやくのをやめた。瑞々しく透き通った唇を閉じて眠りについて夜に咲く花のようだった。肌白い手は小さな拳を握って、グレーのウールコートの袖に縮こまっている。その小さな拳の温度を感じたくて、雅旭は手を袖の中に伸ばした。氷みたいな冷たい感触が雅旭の指に伝わってきたが、彼は躊躇することなく手のひらでその固く握られた拳を包み込み、温もりを届けようとした。自分も酔っているに違いないと彼は思った。

 翌朝、雅旭は起き上がり、布団を適当ににベッドの隅っこに押しやった。寝間着を脱いでトレーニングパンツに着替え、また引き出しから素朴なセーターを取り出して身にまとった。カーテンを引いて窓を開けたが、外は真っ白で何も見えない。衣架に掛けてあった唯一の服、コバルトブルーのコートを慎重にクローゼットにしまった。枕元に置かれていたアルミの小さな箱を手に取って、耳元で軽く振ってみると、残り少ないミントの飴が2粒ほどカラカラと音を立てた。雅旭はそれを口に放り込み、素早くトレーニングジャケットを着て、ランニングに出かけた。

 夜明けのこの頃に、ホテルの住人たちはまだぐっすりと眠っている。周囲は静まり返り、鳥のさえずりさえ聞こえない中、唯一動いているのは、下でしゃがんで靴ひもを結んでいる雅旭だけだ。彼は正門の方向を一生懸命見つめたが、霧が濃すぎて、かろうじて記憶を頼りに正門の位置を確認することしかできなかった。雅旭は立ち上がり、深呼吸してから霧に包まれた林へと走り出した。

 雅旭の額にうっすらと汗がにじんできた。自動販売機のところまで来たとき、彼はトレーニングパンツのポケットをまさぐり、ちょうど140円のコインを見つけてそれでブラックコーヒーを一本買った。近くの石に腰掛けてブラックコーヒーを飲んで少し休んだ後、再びランニングを続けた。ランニングを終えて金剛寺ホテルに戻った時にようやく霧が次第に晴れてきた。

 お湯を沸かしている間に、雅旭はさっとシャワーを浴びた。それから清潔な部屋着に着替えて、台所でお湯が沸騰するのを待っていた。一分後やがて湯気が急速に壺の蓋を押し上げ、甲高い音が鳴り響いたので火を止め、カップ麺にお湯を注いだ。蓋をして卓上の時計に目をやると、ちょうど七時十分だった。冷蔵庫から昨日の残りのカルピスを取り出し、麺ができるまで三分間の間に飲み干そうとした。最後の一滴を飲み干した後、昨日の洗濯物がまだ洗濯機にあって干してないを思い出し、洗濯物を一枚一枚取り出してベランダに干した。机に戻ると、時計がまだ七時十分を指しているのを見て驚いた。高校時代から使っていたこの時計が、とうとう壊れてしまったのだ。雅旭は苦笑いを浮かべ、蓋を開けてすでに伸びた麺をすすりながら、うなぎを買いに市場へ行くついでに時計の修理に行こうと考えていた。

 雅旭は今日羽柴のお母様に休みを取った。今まで休みを取ったことがない彼にとって初めてのサボりなのだ。昨夜、霜から誕生日の話を聞いた雅旭は、プレゼントを贈ろうと考えたが、結局良いアイデアが浮かばず、せめて美味しいうな重でも作って霜をもてなそうと思った。ちょうど霜も今日は休みだし。

 時計を助手席に置いて車を発進させると、車の振動で時計の針が再び動き始めた。修理に出さなくても良さそうだ。長い間会っていなかった友人と再会したように雅旭は喜びを感じた。このまま市場へ向かっていいと思って、でこぼこな細い道からユータンして海辺の道路へ車を走らせた。

 太陽が雲の隙間から顔を出し、光を惜しみなく大地に注ぎ込む。海面はキラキラと輝き、時折聞こえるカモメの鳴き声が耳に心地よい。運転席の窓を全開にすると、窓の近くを素早く飛び過ぎていくカモメもいる。夕方、鮮やかな夕焼けを見ながらカモメに餌をやる光景に憧れていた。口にカモメの好物をくわえながらカモメが飛んでくるのを待ち続ける。そして、待ちくたびれてきた頃にカモメが美しい弧を描き、素早く餌を奪っていく。白い翼が顔の近くで羽ばたき、砂や海水の香りが漂うその瞬間を一生忘れないだろうと思った。ここに留まれば、そんな静かな日々を楽しむことができるだろう。

 穏やかな想像は、右側から猛スピードで追い越していく車によって打ち砕かれた。その車は、霜の隣に住んでいるあの喧嘩の多いカップルの車のようだ。銀色の車体が流星のように駆け抜け、雅旭が確認する間もなく消えていった。スリルを追い求めていても速すぎるのだろう。この道は幅が広くはないが、平坦であって、雅旭はいつもゆっくりと海の景色を楽しみながら運転していた。あのカップルが少しでも景色を楽しむ余裕を持てれば、喧嘩や争いも減るのではないかと雅旭は思った。涼しい海風が吹き込んでくる中、雅旭はうなぎ丼にどんなお酒に合うかを考えたり、飲みながらどんな話題で切り出せばずっと胸に秘めていた言葉を伝えられるかを思案していた。



 昼ごろから、金剛寺ホテルのロビーにある古いテレビが、沿岸道路で起きたトラックの横転と2台の乗用車の海への転落事故に関するニュースを繰り返し放送していた。ホテルの住民はこれほど整然と集まったことはこれまでなかった。みんなは恐ろしい事故について話している。

「三階のイケメンのお兄さんは助かったの?」

「まだだね、生存の可能性は低いんだって」

「そんな、いい人なのに」

「見て、見て、あの喧嘩ばかりのカップルが救助されたよ!毛布に包まれて救急車に運ばれている。まだ生きているみたい!」

「何よ、嫌だね、イケメンのお兄さんは?まだ情報がないの?」

「そんなこと言わないで、誰も無事であるように」

……

 救助活動は十数時間も続き、事故現場に集まった車両や人々は徐々に散っていった。翌日の明け方、ただ一人の小さな人影が海に向かって防波堤に座っていた。凛冽とした海風が絶えずに彼女の顔を叩きつけ、涙が流れては乾き、乾いてはまた流れた。きちんとまとまった髪はすでに乱れ、海風を幇助しているように彼女の滑らかな首に刺さっていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?