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創作大賞2024恋愛小説部門『三つ目のストーリー』3

 星野家はようやく法事を済ませた。

 十六歳の霜は一人で墓地から出てきた。彼女の記憶は、少し前に両親と交わした最後の会話にとどまっている。

 かろうじて半日の休みを取った星野広平は、ネクタイを緩めながら不満げな顔をしている。

 霜の母親、星野泉は娘の手を握り、優しく言った「あのね……霜は今日は失敗しちゃったところがあるけど、選ばれるチャンスがまったくないわけじゃないのよ。最後に帰るとき、スタッフの方が話しかけてくれたんじゃない?」

「失敗は失敗だ。やらかしたことどうしようもない。ろくにも学校に行かなくてモデルのオーディションなんかに参加しやがって、まったく時間の無駄だ」

 霜は悔しさで顔を上げられなかった。これで今年八回目のオーディションだった。

「あなた、もう厳しいこと言わないで。霜だって辛いんだから、怒らないであげてよ」

 タクシーの運転手の前で家族喧嘩したくない広平はいっそ口を閉じた。

「大丈夫よ、今回は選ばれるかもよ。霜がどれだけ一生懸命に練習してるか、どれだけモデルになってランウェイに立ちたいと思ってるか、ママは一番わかってるんだから。諦めないでね」泉はハンカチで霜の涙を優しく拭いた。

 霜は喉を詰まらせながらも頷いた。ずっと支えてくれている母に心配をかけたくないのだ。

「おい!運転手さん、どうしたんだ!しっかりしてくれ!」広平の突然の怒鳴りで泉と霜は異変に気付いた。運転手は胸を押さえて、言葉がモゴモゴして、もうタクシーの運転ができなくなっている。

「泉!早く119番を呼べ!」広平は車をコントロールして家族の命を守ろうと思って後から前の座席に移ろうとしたが、もう間に合わなかった。

 目の前の交差点がちょうど赤信号であり、車は減速することなく突っ込み、大型トラックと衝突を起こした。

 車に乗っていた四人のうち、生き残ったのは霜だけだった。彼女が助かったのは、両親が最期までしっかりと彼女を抱きしめていたおかげだった。



 霜は退院したばかりで、体はまだ弱っている。墓地から家まで歩いて帰るつもりだったが、途中で大雨に見舞われ、歩けなくなって道端にしゃがみ込んだ。大雨に打たれて地面に押しつぶされそうな気分だった。

 そんな彼女に、ビジネスバッグにスーツを着た中年男性が傘を差し出してくれた。霜は顔を上げてその見知らぬ男性を見つめ、この人のためなら何でもすると決心した。

 それからまもなくして、霜はその中島という中年男子に子どもが生まれた。男の子で、「満」と名付けた。中島家は大手の不動産会社を経営しており、豊かな財力の持ち主だ。しかし、中島は長年連れ添った妻との間に子供が恵まれなかったため、妻と話し合いの末、別の女性に中島家の後継者を産んでもらうことに決めた。霜は中島に選ばれた女性だった。しかし、後継者の満を産んだとしても、霜は中島家に入れない。豊かな生活を提供してくれる上に、子どもを連れて中島と会うことも許されるのは中島の奥さんが示した最大の優しさなのだ。

 霜は特に不満もなく生活している。むしろ、彼女はこのような生活を楽しんでいる。満が「パパ」「ママ」と呼べるようになり、そしてハイハイから歩けるようになり、またぴょんぴょんと跳ねて甘えてくるようになった。その成長を少しずつ見守ってきて、母親としての最高の喜びを味わった。時には中島と会い、三人で高級レストランで食事をしたり、ショッピングに行ったり、キャンプに出かけたりすることで、霜の生活は笑顔に満ちている。

 満の五歳の誕生日には、中島が満をスケート場に連れて行く約束をした。その朝、霜は小満に丁寧に服を着せた。

「ほら、ママが買ったこの服ぴったりでしょ?」

「うん!満、この服が大好き!」満はこの新しいシャツを抱きしめて寝るほど気に入った。

「時間だよ、満、行こうか!」中島が玄関で促している。

「満、パパとしっかりスケートを習ってね。勇気を持っていいけど、無理はしないでね、疲れたら休むのよ。喉がまだ治っていないから、水分補給をこまめにね……」霜は別れを惜しむように満にリュックを背負わせた。

「うん、わかったよ、ママ」満は霜の顔にちゅうをした。こうすればママが安心できると思ったからだ。

「もういいだろう。その話、何度も聞いたよ」中島は満を抱き上げ、不機嫌そうに玄関を出た。

 霜は玄関先まで見送って、満が中島の車に乗ったら「満、着いたらママに電話するんだよ、いい?」とさらに念押しした。

「わかったよ、ママ、じゃね!」小満は大きな声で答えた。霜に手を振りながら、愛しい顔が徐々に霜の視界から消えていった。満と会うのはそれきりだった。

 満が中島に連れて行かれその後消息を絶った。その後霜も宇多津から姿を消した。満への思いを抑えるために、必死で働き続けた。ガイド、コンビニ店員、化粧品販売員、動物飼育員など様々な仕事を経験した。働き続けるうちに、ある日霜は突然悟ったのだ。自分と一緒にいる限り、満は幸せにはなれないのだと。満はいつか母親の顔を忘れ、中島の奥さんを「ママ」と呼び、中島家の後継者となる。それが満の生まれつきの使命なのだと。



 森尾に出会ったのは、霜の二十九歳の頃だった。仕事帰りに霜は森尾がコートの外に飛ばした野球のボールを拾ってあげた。霜は森尾の初々しく優しい笑顔に惹かれ、二人はすぐに恋に落ち結婚に至った。  

 三十歳の秋、霜の第二子の出産まであと二ヶ月という時だった。  

 その日、姑である佳子が訪ねてきた。  

 霜は不安そうに佳子の前で座っている。相変わらず佳子と会うたびに緊張している。佳子が一口お茶を飲んでから茶碗を置くと、霜もすぐにそっと茶碗を置いた。  

「ふむ……前回よりお茶の淹れ方が上手くなったわね」佳子はゆっくりと話したが、その一言一句が霜には圧迫感を感じさせられた。  

 霜は姑の目を直視することができず、茶碗を見つめながら小声で言った「お褒めいただきありがとうございます」  

「本来ならこんなこと、私が教えるべきじゃなかったのよ。嫁に来る前にもう少ししっかり学んでおくべきだったわ。ご両親が早くにお亡くなり、何も教えてもらえなかったから仕方ないけど……」家柄が釣り合ってない嫁をもらうことには佳子は未だに不満を抱いている。ただ息子が決意をしたし、霜もすぐに妊娠したし、佳子は二人を引き離すことを諦めるしかなかった。  

「はい」佳子の言葉が心に突き刺さるように痛みを感じたが、森尾とこの子どものためなら、彼女は何でも我慢するつもりだ。  

「あと二ヶ月で生まれるよね?」

「うん」霜はそれ以上言葉を重ねなかった。出産の経験があるし、それに姑が早く帰ることを切実に願っているからだ。  

「無駄遣いしないでね。もうすぐ子供が生まれるんだから。うちの茶葉の商売は不景気だし、良太は茶畑に行ってもう一ヶ月も経つわ。きっとげっそりと痩せて帰って来るでしょうから、栄養たっぷりの料理を作ってあげなさいね」佳子はそう言って財布から札束を取り出して霜に渡した。  

「ありがとう、お母さん。いつもお世話になってばかりで、家のことは全部お母さんと良太に任せっきりで……」  

「もういいのよ、今日はこれで。出産が近づいたらまた来るわ」  

「もう少しゆっくりして行かれませんか?」霜は姑がお世辞に弱いと知っているから儀礼的にそう言った。  

 佳子は霜の言葉を無視し、急いでカバンを手に取って玄関へ向かった。霜の痩せこけた顔にはどうも福がなさそうで、佳子に嫌われている。

「お母さん、どうぞお気をつけてお帰りください」霜は玄関まで見送った。  

 客間に戻って、しばらく姑の顔を見なくて済むことにほっとしたとろこ、佳子の財布を置き忘れたことに気づいた。霜は速やかに財布を手に取り、佳子を追いかけて出かけた。  

 佳子がまだ近くにいるはずだと思って、慌てて街に出たが、何本もの通りを走り抜けても、佳子の姿は見当たらなかった。

「お母さん、財布を忘れてたよ……」霜は走りながらこの言葉を繰り返した。

 お腹の張りを感じ霜は歩みを遅らせたが、視線で必死に佳子を探し回っている。

「お母さん……お母さん……どこにいるの?」霜は息はどんどん重くなり、額には汗がじわじわと滲み、唇も青白くなってきた。霜は震えた手で佳子に電話をかけた「お母さん、早く電話に出て……」

 佳子は電話を手に取りながら、霜からの連続着信に全く出る気配はない「もうこれ以上あげれるお金がないわ!」そう言いながら、タクシーを止めて急いで乗り込んだ。

 やがて弱り果てた霜はついに佳子を見つけたが、目の前で佳子がタクシーに乗り込みそのまま行ってしまった。

「お母さん……待って……財布……」霜はタクシーが進む方向に向かって叫んだが、追いかける足はもう動かなくなり、転倒してしまった。

 霜はお腹を押さえ、前髪は汗で湿って束になり、視界を遮った。お腹が裂けそうなくらいで痛みを覚え、彼女は微かに震えた声で叫んだ。

「痛い……誰か……助けて……お母さん……お母さん……」

 それまで霜は金柑の匂いが大好きだったが、その日以来一番嫌いな匂いになった。金柑の木の下で子どもを失ったあの日があまりに辛くて思い出したくないからだ。



 それ後霜と森尾は二度と子どもを授かることはなかった。森尾は子どもが欲しいという気持ちがなさそうだし、むしろ父親になる覚悟がないと言っても良さそうだ。霜は、神様がこの子を取り戻したのは、自分が子どもと縁がないことを思い知らせるためだと考えている。満への抑えてきた思いにこの子を失った悲しみを重ねると、霜の気分がますます沈みがちになった。森尾との交流はどんどんなくなっていき、同じ家で暮らしている顔も知らない隣人同士の仲になった。

 八年前のある日、霜はいつものようにテキパキと台所仕事をしている時、玄関から鍵の音が聞こえた。森尾が帰ってきた。

「何なんだ?この匂い?」森尾は玄関に入ったら、嫌な匂いがしてきた。「クリームスープ、夕飯なの」

「そばを食いたいって言ったんだろう?」

「言ったっけ?いつ?」

「もういいよ、どうせ覚えてくれる気ないだろう」森尾は口論する気さえ起こらなかった。

「じゃあ、今からそばを作りましょうか」

「作らなくていい、時間がないんだ。野球チームのメンバーと約束があるから。早くしてくれ、腹減った!」

「こんな天気なのに?大雨降りそうだけど」

「余計なお世話だ!さっさと夕飯を作れ!仕事が遅いんだから!」

「わかった。できるだけ早く作るわ」森尾とこんなに多くの言葉を交わしたのは久しぶりなのだ。数日前に森尾がお母さんがクリームスープを食べたいと言っていたから、今夜作ったわけだ。霜はスープをかき混ぜている。炎が古いフライパンの底を舐めているようにちろちろ燃えている。森尾はソファに寄りかかって友達に電話をかけている。霜は外の獣のように狂った稲妻を見て、この獣がここに飛び込んできたらどうなるだろうと考えた。

「まだなのかよ?」電話を切った森尾が食卓に座り霜を急かした。

「もうちょっと」

「お前が速水の奥さんの半分でも賢けりゃ、うちの茶園も破産寸前にはならなかったのに」

 霜は森尾を相手にしなかった。クリームスープを盛り、食卓に運んだ。

「遅せな!俺は最後に着くんだったら、ただじゃおかないぞ!」森尾は一口食べると、顔色をさらに険しくなって、皿をテーブルに叩きつけた。「味が変だぞ!自分で味見してみろ!」森尾は霜に怒鳴った。

 先ほどの危険な考えで霜は少し後ろめたい気持ちになったせいか、お皿を取った手が震えが止まらず、お皿もクリームスープも床にぶちまけてしまった。このクリームスープは森尾の最後の晩餐となり、長い間霜の心に潜んでいた獣を解き放つ鍵ともなった。

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