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創作大賞2024恋愛小説部門『三つ目のストーリー』4

   午前十時頃は、南方書店の比較的な閑散の時間帯だ。この時間になると、霜はいつも充電切れで自動的に充電ドックに戻る掃除ロボットのように、脚立に座って本を読む。お気に入りの小説のほか、最近は『法学達人』や『黄金の記憶術』のような本にも夢中になっている。本来、このような本は霜にとっては噛み砕けない氷のような手ごわい存在だった。

   読書に疲れて遠くを眺めると、羽柴家のテラスにいる雅旭と視線を合わせることがある。霜は顔をそむけて見なかったふりをすることもあれば、本を閉じて顎に手を当て、じっと雅旭を見つめることもある。雅旭はいつもぎこちなく頭を掻いて不器用に手を振る。

「店長、ぼーっとして計算を間違えてないんですか?約束より1万円も多いんですよ」霜は手元の紙幣を数えながら、南方さんに聞いた。

「いや、その……ご両親が亡くなった時に何もしてあげられなかったことへのちょっとした補償だ。好きなように使ってくれ」

「そんなこと言わないでよ。こんな歳でまだまだ格好つけちゃって、ありがとうね!」

 南方さんは霜のご両親の友人だった。霜のご両親が事故に遭った時に援助できなかったのは、南方奥さんが非常に横柄で、よりによって南方さんが有名な恐妻家だったからだ。奥さんが病気で亡くなった時には、霜はすでに宇多津を離れ、音沙汰がなくなった。今回霜と再会できたことで、南方さんは当時の後悔を埋めていこうと努力している。

 霜は昼休みにデパートに行って新しい口紅を買った。ローズピンク系の色で、仕事が終わるとすぐに塗ってみた。以前使っていた真紅のとは違い、ローズピンクの色は霜に知的な美しさを引き立ててくれる。南方さんに「女性記者みたいだね」とからかわれた。

 雅旭にはどう思われるだろう。口紅を変えたことに気付いてくれるかな、と霜は雅旭の反応をあれこれ想像しながら書店を出た。通りの向かい側にいる雅旭は両手を茶色のトレンチコートのポケットに突っ込み、チェックの細いマフラーを細長い首に適当に巻いている。小鹿のように大きな丸い目は、すれ違う誰にも留まることなく、人間の世界に興味がなさそうな猫のようだ。

 しばらくして、一人の若い女性が雅旭のところにやってきて話しかけた。騒々しい通りを隔てているから、霜は二人の会話を聞くことができなかった。女性が笑みを溢しながらで雅旭の体を触れたりしても、雅旭はそれを拒む気はなさそうだ。霜は少し呆れたが、すぐに細長い眉がヘアアイロンをかけたように元に戻った。これは普通だと自分に言い聞かせたのだ。

 女性が行った後、霜はその場に立ったまま雅旭を待った。

「行きましょう」

「知り合いの女性?」

「いや、道を聞いてきただけ」

「へえ~、イケメンでいいね!道を聞くだけで抱きついてくる若い子がいるからね」

「そんなことないですよ」

「そう?なかったの?年のせいで目が悪くなったかしら。見間違えてごめんね」霜の怒りはバカでもわかるように見え見えだが、雅旭は何も知らないふりをして霜の後ろについていった。霜が怒って口を尖らせる姿は、冗談を言う時よりも可愛らしく見えた。前を歩く霜はうつむいてこっそり笑った。32歳になってもこんなに子供っぽい男性がいるなんて、と霜は思った。

 ネオンが灯り始めた宇多津の街を、二人は前後して歩いていた。他人の目にどう映っているのだろうか。仲の良い姉弟なのか、それとも秘密の恋人のように見えたのか。

 霜はバッグから口紅を取り出し、助手席の小さな鏡に向かって優雅にメイク直しを始めた。

「二十代の女の子はピンク系の口紅が好きで、三十代の若い女性はオレンジ系の口紅が好き。私みたいなもうすぐ五十歳になるおばさんは、このローズピンク系の口紅しか使えないんだよね」霜は美しい瞳を夏の夜のホタルのように輝かせながら独り言をした。

「でも、本当に似合っています」雅旭の言葉には一片の嘘も混じっていない。

「君が十歳年上か、または十歳若ければ、この言葉を聞いたらすぐに車を止めさせるわ」

「何をするんですか」

「別に何も」霜はにっこりして窓に身を寄せて外を眺めた。雅旭に本当の気持ちを隠そうとするかのようだったが、窓ガラスは彼女の気持ちも、雅旭の時折の横目もすべて映していた。

「気持ちいい——」霜は窓を全開にして、耳元を通り過ぎる暖かい海風に向かって叫んだ。

 防波堤に近づいたり離れたりする波、少女の頬の赤らみのような夕焼け、ゆっくりと訪れてきた月、すべてが雅旭の車内で流れる「amapola」のメロディとともに、この初冬の暖かな夜に二人を甘い密会へと誘っているかのようだった。

「海辺を散歩に行かない?」



 雅旭はテキストを閉じ、椅子にもたれかかって目を擦った。

「危険運転致死傷罪の処罰法第5条……自動車の運転上必要な注意を怠り、よって人を死傷させた者は、懲役5年……いや、4年……ああ……何年以下の懲役もしくは禁錮だっけ……」とため息をつきながら刑法典をめくって答えを探した。「ああ、くそ!7年以下の懲役または禁錮か……なんでこんなに長いんだ……ああ、覚えることが多すぎる……覚えられないし、混乱するし……愛菜さん、どうやって覚えたんだろう、助けてくれないかな……」と、雅旭は潰れた柿のよう机に突っ伏して頭を抱えた。しばらくして彼はまた起き上がり、机の上から一枚の写真を手に取った。それは愛菜が高校の制服を着て桜の木の下で撮った写真なのだ。写真に映った愛菜は桜の花びらように笑顔を輝かせた。ただなぜかその写真を持っている雅旭の心は、ほかの人のことを考えている。

 数時間前、彼は霜と一緒に裸足でビーチを歩いたり、小さな砂の灯台を作り懐中電灯を中に置いたり、無邪気な月を追いかけたりした。遊び疲れて頭を上げて水を飲む霜の姿は、夏の晴れた空の下でポカリスエットを持つ若い少女のように見えた。

 カーテンの外からゆっくりと差し込む白い光が、新しい一日の始まりを告げた。何か厄介なことに気付いた雅旭は、いっぱいになったゴミ箱を見て、救世主を見つけたようにそれを持って外に出た。心の整理と勉強の間の絶妙な切り替えには、ゴミ出しほど適したことはない。

 霜の隣に住んでいる若いカップルがものを投げたり壊したりする口論の後、対立がエスカレートし、時には大げんかに発展することもある。それで霜は頻繁に雅旭の部屋に出入りする理由を見つけた。「喧嘩の声を聞くと心臓が苦しくなる。こっちのほうが防音がしっかりしてるみたいだね」雅旭はそれをいつも通りの冗談だと思って喜んで受け入れた。

「暖かいわね」霜は窓辺で午後の日差しを浴びている雅旭の布団を叩きながらつぶやいた。環境に敏感な雅旭は、外でかすかな足音でもすると眠れないタイプだが、隣に誰かがいるのはなおさらだ。しかし、この時はロッキングチェアでおとなしい猫のようにに体を丸めて眠っていた。霜はそっと部屋に戻り、いい香りのコーヒーを持って忍び足で元の場所に戻った。四十七年の人生の中で、これほど静かな冬の午後は初めてで、まるで詩のように感じられた。

 暖かい天気が続き、クローゼットにしまったコートやなかなか降らない初雪で、人々は寒さへの警戒心を失い、それぞれの冒険の旅に出て行った。

 雅旭は羽柴の部屋のテラスに立っている。向かいの建物についている銀色の配水管が日光を浴びて高級ホテルのシャンデリアのように眩しく輝いている。雅旭は配水管を見つめ、思いが跳ねてるような光とともに霜と海辺に行った日のことに引き出された。暖かめの気温が雅旭の記憶の中の霜を置き換えた。バラ色のニットワンピースを着て、草編み帽子をかぶり、サンダルを手に持って夏の砂浜で笑っている姿に。夏が早く来ればいいのにな、と雅旭は密かに祈った。羽柴に宿題の採点を頼まれるまで、雅旭はこの熱い想像を閉じることができなかった。

「すごいね、50問中3問だけ間違えたなんて、立派なもんだ!」

「そんなことないよ」羽柴はつまらなそうに揃えたルービックキューブをまた崩した。

「僕よりずっといいよ。僕は20問中5問も間違えるんだ」

「ダメな大人だな。そんなの司法試験に合格できるの?僕がそうだったら、お母さんに生きたまま食べられちゃうよ」

「そんなこと言わないで。お母さまはとても思いやりがある人で、いつも君のことを気にかけているんだよ」

「月に一回もご飯を作ってくれないし、せっかく靴を買ってくれたけど、サイズが合ってなかった。服をアイロンがけしてくれたことなんて一度もなくて、クラスで僕だけが毎日シワシワの服を着て学校に行っている。朝出かけるときに『いってらっしゃい』と言ってくれる人もいないし、午後学校から帰ってきても空っぽの家に『ただいま』としか言えない。熱が出て階段から落ちて気を失ったとき、三時間後にようやく見つけてくれたんだよ。骨折して学校に行けなくなったときも、ただ家庭教師を雇っただけ、お母さんは忙しくて一緒にいてくれる時間が作れないからだ……」羽柴は声がだんだん詰まってきて、ルービックキューブをいじる手も涙が落ちるとともに止まった。

「羽柴君は頑張っているよ。将来は僕より何百倍も素晴らしい大人になること間違いない。でも、自分の悔しさをお母さんのせいにしてはいけない。それは比べられるものではないんだ」雅旭は羽柴の頭を撫でながら優しく言った。

「わかってる、わかってるよ……だから心配をさせないように一生懸命頑張ってるんだ!」羽柴は言いながら拳で包帯で巻かれた右脚に重く打ち付けた。自分のことをギプスで作られた鳩のように生涯の使命を果たせないと感じた。

「よくやっているよ。ああ、そうだ。今朝、お母さまが出かける前にこれを僕に預けたの。たぶん直接君に渡すのが恥ずかしかったんだろう」雅旭はバッグから封筒を取り出して羽柴に渡した。

 羽柴は一縷の光を掴んだようにゆっくりと封筒を開けた。泣けそうな文章が書かれていたら、雅旭の前で二度も泣いたら恥ずかしくてどうしようもないと考えたところ「何、これ?親愛なる朝倉先生……いつもありがとうございます!」

「あれっ?君へじゃなかったの?」雅旭は困惑している。

「だったらよかったのに。ほら、これも先生宛てだよ」羽柴は肩を落として封筒から二枚のチケットを取り出し、雅旭に渡した。

「JGCファッションショーのチケット?しかも二枚?」

「好きな人と一緒に行けば……まさか、好きな人がいないとか?」羽柴は軽く雅旭をからかった。

「うん……」雅旭はどう答えていいかわからなかった。



 ありがたい贈り物を感謝の気持ちで受け取るべきなのに、雅旭はどうも落ち着かない。羽柴の言葉に従って考えてみると、好きな人とファッションショーに行く……好きな人といえば、間違いなく愛菜なのだ。しかし、愛菜さんと最後に会ったのは二ヶ月前、しかも人波の中で偶然すれ違っただけで、愛菜さんは自分のことに気づかなかったし、愛菜さんの連絡先も知らない。高校の同級生にでも聞いてみるか?もし連絡先を教えてもらったら、彼女に電話をするべきなのか?電話をかけたら何を話せばいいの?直接会って聞いてみようか?彼女が会いたくないと言ったらどうする?時計の針が夜に押されたように大きく進んだ。雅旭の指はぶち壊し合って爪先の乳白色が完全に見えなくなるまでも気が済まないように、ささくれをむしり始めた。とうとうささくれが血が滲んだとき、ようやく手の破壊へのこだわりを止めた。次に靴下を脱いで足をいじり始めた……部屋から逃げ出さないと、もう一組の手足が欲しくなるほどだ。慌てて靴下を履き、車のキーを手に取って出かけた。

 一時間もあてもなく車を走らせていた。暗闇の中で、雅旭は自分がどこにいるのかもどこへ行くのかもわからない。外の音や空気に邪魔されないように、窓を閉め、エアコンも切った。雅旭は車内にいる時間を楽しんでいる。過去に戻ったり未来に臨んだりする必要はないからだ。ただ車内の空間にいるだけで、一時的に立ち止まる時間に逃げ込んだように感じる。

 ふいに音楽の再生ボタンに触れてしまったら、いっそランダム再生を設定した。音楽ならこの空間を共有することを許さないことはない。ランダム再生にしたものの、聴きたくない曲が流れてくるとと迷わず次の曲にスキップする。あまりにも聴きたくない曲ばかり流れてくるから、雅旭はイライラしてきて、プレイリストを整理しないといけないと考えた。

「Here making each day of the year」というフレーズの「each day」というところを聞いたら、雅旭は音量を上げた。この一言だけで、先ほどの狂ったほどの苦しみが和らいだ。そこで彼は、体のすべての細胞をこの曲に浸らせたいと思った。

 高校二年の春、桜が咲き乱れる春の日に、学校裏の長い下り坂で、愛菜が雅旭の自転車の後ろに乗っていた。桜よりも瑞々しい手で雅旭の腰にしがみついている。揺れる木陰が二人の紺色の学生制服に映っている。愛菜はイヤホンを雅旭の右耳に差し込み「一緒に聴いてみない?」と言った。ビートルズの「Here, There and Everywhere」は二人のもっともお気に入りの曲となり、愛は永久にという信念が音符とともに二人の体に染み込んだ。下り坂は海へと続いており、果てが見えないようだった。

 しかし、愛は永久にという気持ちは遠距離恋愛によって薄れてしまった。雅旭は愛菜に会いたくても会えない気持ちに耐える覚悟がなかったことで、大学二年のとき、二人はきちんと互いに別れを告げることなく、あやふやな態度で終わりにした。核から皮まで腐りつつの果物のように、軽くかじったときに変な味がするのを感じたときには、すでに芯まで腐っていたのだ。

「愛菜さん、愛菜さんとやり直したいんだよ」「Here making each day of the year」が終わった後、雅旭は遠くの海に向かってそう言い、その後エンジンを切り、車から降りた。午前三時の世界に戻らねばならないのだ。



 霜は汚れた服を洗濯機に入れ、指先が洗剤のボトルに触れた瞬間、洗剤が倒れた。「なくなったか」霜は洗剤を拾い上げ、ボトルを振りながら仕方なく言った。

 隣のカップルは外出しており、建物が静けさに包まれている。しかし、洗剤がないと洗濯ができないと、霜はそう思いながら雅旭の部屋の前に来た。そっとドアを開け、頭を少し覗かせて部屋をちらっと見渡すと、誰もいなかった。

「いないの?それじゃ仕方ないわね」霜はためらわずに、膝丈の黒いタイトスカートから細い足を部屋に押し入れた。この部屋に何度も来たことがあるが、雅旭がいないときに来るのは初めてだ。実はずっと前からこううしたかった。気になる人がいたら、その人の部屋の隅々まで興味を持たないわけがないだろう。

 布団はくしゃくしゃの紙のようにベッドの隅っこに押しやられている。机も散らかったままだ。この乱雑の中に雅旭の慣れ親しむ快適な空間があるから、自分が手を出す必要はないと霜はわかっている。洗剤を手に取ろうとした霜は、隣の洗濯機に目が留まった。「一人暮らしのイケメンの洗濯機には何が入っているのかしら?」好奇心に駆られて、霜は洗濯機の蓋を開けた。目に飛び込んできたのは、雅旭がよく着る服たちで、忘れられたように洗濯機の中で柔らかく横たわっていた。

 霜はガタンと音を立てて蓋を閉めた。金剛寺ホテルの近くにある時計の鐘が響き始めた時、霜は何かを思い出したよう手を止めた。鐘の音が響く中、急いで部屋に戻って自分の汚れた服を抱えてきて雅旭の洗濯機に放り込んだ。スイッチを押すと、霜の心臓はドキドキと高鳴った。霜は洗濯機の前にしゃがみ込み、透明な蓋越しに自分と雅旭の服が絡み合う様子を見つめた。それらは時折空に舞い上がったり、時折海底を泳いだりするように見えた。霜は魚を狙う猫みたいにゴクリと唾を飲み込んだ。



 羽柴からもらったチケットを手にしてから数日が経ったが、雅旭はいまだに誰にも渡せていない。どうやって愛菜さんに声をかければいいのかわからいからだ。何年も前に別れた恋人に久しぶりに連絡したらいきなりファッションショーのチケットなんて、適切なのだろうか?何か企みがあると誤解されたら、全て無駄になる恐れがある。せっかく弁護士になって愛菜さんのそばに立とうとしているのに。そんなことを考えながら、雅旭は少しぼんやりと運転していた。

 隣で雑誌をめくっている霜がケチをつけるような口調で「この子、笑顔がぎこちないわね。作り笑いみたい。え?こんなのもモデルになれたの?太りすぎじゃない?それに、この子を見てよ。肌がひどいわ」と言いながら、雑誌を雅旭の目の前に突き出した。

「あのう……僕、運転中なんですけど……」雅旭は困った顔で答えた。

「わかったわ。この雑誌、イライラするわ」霜は雑誌を横に投げ捨てたが、その時お腹がグーッと鳴った。

「お腹が空いたんですか?」

「うん」

「マックでも寄りましょうか?」

「いいの。ここにチョコレートがあったはず」目の前の収納ボックスを開けた。

 雅旭が反応する間もなく、霜はすでに中から二枚のチケットを取り出した。「何、これ?」

「それは……」雅旭は慌てた。自分でも理由がわからないほど妙に慌てていた。

「JGCファッションショー2024のチケットが二枚?え?目の前でモデルがショーをするなんて、懐かしいわ」霜は嬉しそうに言った。

「これは、私が家庭教師をしている家の奥さんからもらったもの。彼女は関連の仕事をしているみたいんで」

「そうなんだ。あら、いけない!公演は明日じゃない!」

「うん……そうみたい……」

「行くの?」

「うーん……それは……」

「行きなさいよ。行かないともったいないわ!」このチケットは元々愛菜さんと一緒に行くつもりだったが、どうやらうまくいかなかっただろうなと霜は察した。自分にとってはチャンスだ。誘われなくても構わない。霜は心からショーを見たいし、特に雅旭と一緒に見たいのだ。

「私が行く!」霜は確固たる声で言った。

 雅旭は霜の言葉を聞いたら肩の荷が下りたように感じた。何日間も悩んでいた問題がやっと解決できたのだ。もう一人候補者がいるんじゃないか。羽柴の言葉に引っかかっただけなのだ。好きな人じゃなくても目の前の霜と一緒に行ってもいいのだ。雅旭はやっと腑に落ちたが、せっかく認めてもらって手に入れたご褒美だから、すぐさま承諾するのは少し抵抗感を覚える。「じゃあ、一緒に行いきましょう。この貴重なチケットを無駄にするわけにはいかないからね」と雅旭はさらり言った。

「どれどれ……大阪か……けっこう遠いね。でも、遠いほど、君ともっと長い時間一緒にいられるということね。最高だわ!」霜は嬉しそうにチケットにキスをした。

 雅旭は横目でそっと霜を観察した。霜の目には笑みが満ち溢れ、口ずさむ軽やかなメロディーが聞こえてきた。まさか、たった一枚のファッションショーのチケットでこんなに喜ぶ人がいるなんて知らなかった。もっと早く霜を誘っていれば、こんなに長く悩まずに済んだだろうに。霜の喜びが移ったように、雅旭も思わず口元がほころんだ。

「大阪で一晩過ごしますか?翌日朝一の電車で帰るとか」

「ダメ、当日往復、深夜バスで」

「はい」



 雅旭にとって、ファッションショーが初めてだった。ここは光の世界で、どこを見たらいいのかわからないほど目が回って、霜の視線を追いかけることでなんとかなっている。輝かしい環境の中にいる霜は、ステージ上の華麗なるモデルたちと何も変わらないように見えた。

 最後のモデルたちの登場が終わると、全てのモデルが再びステージに上った。歓声を浴びる中、デザイナーの芳根澄月が女王のように舞台に現れ、観客に向かって手を振った。

「わあ、澄月だ!」霜は興奮して立ち上がった。

「お知り合いですか?」

「そうよ。今はこんなに細いけど、昔一緒にモデルのトレーニングクラスに参加していたときは太ってたのよ」

「へえ?全然見えないですね」雅旭はこのランウェイに立っているリネン色のボブヘアーで、デニムのジャンプスーツを着て、オーラ全開の小柄な女性が太った女の子と結びつけることができなかった。彼女はきっと知られざる辛さをたくさん乗り越えてきたんだろう。

「彼女は自分に厳しかったの。一ヶ月で15キロも痩せたんだ。どんな時でも努力と挑戦の気持ちを持って誰よりも大胆だった。私は彼女と正反対、だめ女」霜は笑顔で話していたが、目の奥に潜んだ寂しさが雅旭に捉えられた。

「彼女は自分がデザインした服を着ている美人たちの隣に立っているけど、星野さんも自分でアイロンをかけた服を着ているイケメンの隣に立ってるから、そんなに負けてないんですよね」雅旭は霜を見て、いつも通りの落ち着いた声で話した。

「言われてみれば、確かにそうだね」慰めてくれているのだとわかっているが、やはり涙は止められずに目に溢れた。「ああ、なんか暑くなったね……うん……ちょっとスタッフさんに澄月と話できるか聞いてくるね……」涙がこぼれる前に霜は雅旭のそばから急いで離れた。こんなにたくさんの美しい人を見た後に、自分の泣き顔を見せたくなかったのだ。

「うん、待っています」雅旭はその場に留まり、霜が小さなだましぶねのように人混みの波に飲み込まれるのを見つめていた。

 雅旭が霜を見つけた時、霜は会場の入り口の階段に一人で座っていた。終演後、人々は慌ただしくそれぞれ帰宅の道についた。さっきのファンタスティックで華やかなショーが幻かのようだった。マーチンブーツ、細いハイヒール、ロングブーツ、厚底の革靴……様々な靴が霜のそばを速足で通り過ぎていき、霜だけが時間を止めたかのようにただ座っていた。

 雅旭は霜の隣に来て、そっと階段に座った。

「さっきスタッフさんに名前を伝えて待っていたんだけど、今までのない緊張感でドキドキしすぎて居ても立ってもいられなかったわ」

「そうだったんですか。芳根さんには会えましたか?」雅旭は街灯の下で伸びた二人の影を見つめながら聞いた。

「スタッフさんが忙しくて忘れてしまったかもしれないし、澄月が私のことを覚えていなかったかもしれない、どっちにしろ終演まで会えなかった。澄月との思い出を振り返りながら出口に向かっていたら、足を捻ってしまったの。靴も片方踏まれて脱げちゃったから、もう片方も投げ捨てて、どうしようもなくここに座っている。まったく、みっともないドジなおばさんだね」霜は頭を下げていて、ベージュのストッキングを履いた足をスカートに包まれ不安そうに寄せ合っていた。

 雅旭は霜が靴が履いていないことに今気づいた。急激に冷え込んだ夜に、持ち主の自尊心と一緒に失われた。雅旭は急いで首から暖かみが残っているマフラーを外し、真珠を扱うように霜の足を包んだ。霜の足は心と同じように冷たかったけれど、雅旭のマフラーに触れた瞬間、太陽を独り占めしているようにこれまでなかった暖かさを感じた。

 冷たい風が首から体に潜り込み、雅旭は思わずくしゃみをした。人波がまだ完全に跡切れていないから霜は歩きづらいだろうと、雅旭は考えながら手を擦った。

 霜はついに少しずつ頭を上げ、右側に座っている雅旭に顔を向けた。この一緒にファッションショーを見てくれて、自分のことを探しくれて、マフラーで足を温めてくれた男性は、自分より15歳年下で、ほかの女性に好意を抱く人なのだ。

「タクシーがまもなく来ますから、心配しなくても大丈夫ですよ」雅旭は最後の何人かの観客の後ろ姿を見て優しい口調で霜を慰めた。全員帰ったらすぐに霜と一緒に暖かいタクシーに乗り、夜行バスの座席に寄りかかってゆっくり休もうと。自分は男で丈夫だからまだいいのだが、霜はきっと寒くてしょうがないだろう。

 タクシーが永遠に来なければいいのに……タクシーが来たら、雅旭はマフラーを足から外すし、一緒に金剛寺ホテルに戻らなきゃいけないことになる。そして雅旭は頑張って弁護士になり、いつか彼女から離れる日が来る……タクシーが永遠に来ないで欲しいのに……それでも、鋭いクラクションの音が霜の空想を打ち砕き、タクシーが路上のタクシー乗り場に停車した。「こんなに早く来るなんて?ダメ、絶対にダメ……」雅旭が立ち上がろうとした瞬間、霜は彼の冷たくて赤になった左耳を見つめ、唇を耳輪に寄せ、そっとキスを残した。その瞬間、耳の赤みはその美しい顔に染まり、体もアポロの像のように固まった。霜は耳元で「ありがとう」と一言ささやいた。雅旭はきれいな瞳を瞬き、ようやく魂を熱い体に取り戻した。

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