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ぼくらは物語の世界に生きている

明智光秀は、本能寺には行っていない。

そんな事実が明らかになったと、数日前の地元紙に載っていた。
なんでも、本能寺の近くの寺で待機していたのだとか(詳細は忘れたけど)。

大河ドラマ麒麟が来るでも、明智光秀が活躍し、信長を打ち取ったということ以外あまり知られていなかった知られざる姿を描いている。
大河を見る限り、明智光秀なしに、戦国時代の数々の偉業は成しえないことになっている。

漫画『信長を殺した男』によると、明智光秀は67歳の老人だったというのだから驚きだ。
明智光秀の子孫の明智憲三郎氏の長年にわたる研究の結果明らかとなった真実をもとに描かれた話になっている。
斉藤道三に仕えていたとする大河ドラマのストーリとは異なり、細川藤孝の身分の低い家来として描かれており、信長と初めて出会う場面も時期も、ま全く異なっている。
この漫画の主題は、真実を描くこと。これまでの歴史は、豊臣秀吉をはじめとするのちの権力者によって、都合よく書き換えられたものであるということである。

この世界は何なのか?
ぼくらは、物語の世界の中にいる。

今朝の地元新聞では、トランプ大統領が「根拠もなく」、選挙に不正があったと言い続けているといったことが書かれていたが、この「根拠もなく」という言葉を短い紙面で、何度も使っていた。
実際に、トランプは根拠を伝えているし、様々な根拠がネットでも伝えられている。
トランプなりに根拠を持って話しているは明白なのに、根拠もなくとなぜ新聞紙が書くのか。極めて不自然だ。
根拠がないとする根拠は?

トランプ支持者が暴徒となり、議会に侵入し、数名が銃で撃たれるなどで死亡したとして伝えられ、トランプ支持派は危険な存在だとして伝えられる。
一方で、現地で取材をし、インタビューをし、人々の声を拾い、メディアが伝えている情報源がどのようにして作られたのかを丁寧に伝えているジャーナリストもいる。
現地にもいかず、根拠もないなんて、よく恥ずかしげもなく書けるものだ。
これは、ぼくがトランプを支持しているとかそういうことを言いたいのではなく、書き手の一人としての立場から、権威ある新聞紙で選ばれる言葉なのかということに疑問を投げかけているのだ。

今それぞれが目にしているものすべてには、物語がある。
その物語は、語る人の視点が異なると、異なった物語となる。
物語は、都合よく書き換えられる。
税務調査に立ち会っていると、納税者が真実を話したとしても、国税にとって都合の良い作文に書き換えられ、そこにハンコを押せと言ってくる場面が実際にある。

目の前で起きていること、起こったことを言葉にする。
文字にする。
文書にする。
そうすることで物語は作られるが、それは語り手にとっての物語だ。

アイスクリームは冷たい。お湯より冷たい。水よりも冷たい。
氷よりは暖かい。
アイスクリームは、不思議なものだ。

唐突だが、これもひとつの物語だ。
間違っていない、しかし、それがすべてではない。

そう、どんな物語であったとしても、それがすべてではない。
物を語るうえでは、起承転結やリズムが存在する。
今、ここで何気なく書き始めたこのnoteの記事であっても、書き始めがあって、一つの収束に向かって動ている。

そういえば、昨日のとんかつは美味かった。

こんな一文が急に入って来られても困るのだ。
なので、取捨選択が入る。
繋がらないところは、繋がるように、調整される。
その過程で、何かは切り落とされていく。
しかし、切り落とされたものも、そこで起こった重要な出来事だったりする。

アイスクリームは甘い。
いや、しょっぱいものもあるのかもしれない。
すっぱいものもある。
いろいろある。

すべてを伝えようとすると、きっと物語ではなくなるのだと思う。
すべてを意識した時、言葉では語りつくせない量のあらゆる情報がそこにある。
温度、肌で感じる感覚、匂い、音。
心情、感情、思考、空気。
人間関係、植物、製品、製造工程。
発酵、菌、ウイルス、化学反応。
ありとあらゆる情報は、そのままでは伝えることが難しい。

ぼくらには物語が必要だ。
けれど、一つの物語では一つの側面でしか描けない。
なので、たくさんの物語が必要だ。
すると立体的になる。
けれど、僕らは対立する。
馴染んだ価値観を壊されたくない。
でもその価値観はすべてではないんだ。

僕らは、常に物語の世界の中にいる。

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