物語の力

いつからか、小説を読まなくなった。

小説を読むという行為は、現実から目をそらし、架空の世界に逃げ込むことであるような気がした。
漫画もゲームも同じ。
物語の世界に浸っている暇があったら、もっとたくさんのことを学ぶための勉強や、ビジネス書などを読まなければ、と思った。
好きだった文章を書くことも止めた。
そうやって現実と向き合わなければ、仕事をこなせなかったし、資格も取れなかったし、子育てもできなかった。
毎日が、ただただ慌ただしかった。

最近、久しぶりに小説を読んだ。
こどもたちを連れて図書館に行ったときに、何気なく、奥田英郎さんの『ヴァラエティ』(講談社 2016年)を借りて読んだ。
奥田英郎さんは、『最悪』(講談社 1999年)が出たときに、当時のメル友(もはや死語かもね)から教えてもらった作家さんで、それ以来、大体の本は読んでいたけれど、この本はまだ読んでいなかった。

奥田さんほど、ストレスを上手に爆発させられる作家はいない。
長編、短編、シリアス、ユーモア問わず、奥田さんの描くストーリーは、登場人物を追い込んでいく。
どうしようもない状況にまで追いつめ、ストレスを最高潮にまで持っていき、最後に見事に破裂させる。
その持っていき方と、破裂のさせ方で、サスペンスにもなり、お笑いにもなるのだ。

『ヴァラエティ』は、連作の短編小説、ショートショート、対談が、ごちゃっと入った本のタイトルの通り、ヴァラエティに飛んだ奥田さんの本の中では珍しい本だ。
前半の2作「おれは社長だ!」「毎度おおきに」は、大手会社から独立する主人公の物語。
これまた、お得意の奥田節で、主人公を追い込んでいくのだけれど、この話が非常に面白かった。
商談を巡る場面では、相手方の社長と対峙するのだが、その会話のやり取りが、なるほどね、と下手なビジネス本よりも勉強になるのだ。
読み終わるころには、主人公と一緒に、晴れやかな気分になって、成長した感じがするのだ。
そうか、これが物語なんだ。

物語には力がある。

物語ほど、様々なことを上手に人に伝えることができるメディアはないのかもしれない。
こどもたちが『鬼滅の刃』に熱中するのも、その物語に熱中させるだけの力があるからだ。
人の感情を動かし、疑似体験として喜怒哀楽を味わわせ、腑に落ちる形でメッセージを届ける。
そのメッセージが学びなのか、思想なのか、警告なのか、気づきなのか。
それは、その物語によって違うのだろうが、物語にはそういった力がある。
世の中に対する問題意識をストレートに高らかに叫ぶよりも、物語を通した方が、角が立たず、より伝わりやすくなったりする。
優れたビジネス書ほど、物語で描かれていたりする(ケンブランチャードの1分間シリーズなど)。

物語の中には、現実が埋め込まれている。
フィクションであろうと、そこには現実がある。
モデルにしている現実が反映されていることもあるだろうし、場面場面、会話のセリフ、何気ない一文に、リアリティーが入り込んでいる。
著者が経験した、体感した、あるいは感じ取った現実が物語に昇華されて閉じ込められているのだ。
すべてが空想の産物だとしても、その空想だって一つの現実を構成している。
人は、何かに思いを巡らせ、何かの世界に没頭することで、活き活きと生きるのだとしたら、その人の中には、何らかの物語が流れていることになると思うからだ。

『ヴァラエティ』には、奥田さんが敬愛する山田太一さんとの対談も収録されている。
物語の作り手としての、率直な意見を交わしあっていて、これがまた、すごくいい。
そこにもまた、現実がある。

こうして、noteを書くようになってから、言葉の力を久々に感じるようになった。
書くことは楽しい。
何気なく浮かんだ一文をひとまず書いてみると、そこから言葉が繋がっていく。
小説もそのようにして生まれるのだそうだ。
スティーブンキングも『小説作法』の中で、そのようなことを言っていた気がする。
耳を澄ますように、書いていく。
初めから、何かを計画しているわけではない書き手もたくさんいるのだ。
そこでの書く行為から生まれる言葉には、意図的に書く言葉とは違った種類のものが現れてくるのだと思う。
予期していないものが出来上がるから、面白いのだ。

そして、二度と同じ文章は書けない。
書いて残したものは、ずっと言葉として残り続ける。

書き続けていくうちに、自分なりのリズムが生まれる。
自分の中に物語を描く要素が養われ始める。
それぞれの個人個人が、自分の中に、熱中する物語を描きながら生きるようになれば、この世界はガラリと変わるのかもしれない。




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