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自分で思っているよりずっと、わたしは人と話したいのかもしれない

人と話すのが苦手だ。別に言うほど口下手ではない。が。
ただ、人と話す、その前後も含めて、思うことが多すぎる。多すぎて、疲れる。

話し出す前には「なんて話しかけよう」「どのタイミングで話しかけよう」「こんなこと言っておかしくないかな」「いやおかしいって何の基準でおかしいねんそもそも何ならおかしくて何ならおかしくないねん」とか

話し出してからも「あー沈黙きた」「って焦って喋り出したらなんか逆にもっと気まずいじゃんそれこそ恥ず」「落ち着いて、いいタイミングで」「ああっ喋り出しかぶった」「ていうかわたし喋り過ぎじゃね?」「調子に乗っていつまで喋ってんのもうやめろ自分」とかとか

話し終えたら「喋り過ぎた」「余計なこと言った」「あれは失礼だったかも」「あんなこと言って嫌な気持ちにさせたのでは」「言いたかったのはそういうことではないのに」「もっとうまい伝え方があったはずなのに」「やめだやめ。もうおまえは人と話すな」

完。

いや「完。」じゃねぇ。

とにかく数え上げればきりがない。脳内が忙しすぎる。

話すのを躊躇ってしまう理由は、他にもある。
まず「こんなことを言ってもしょうがない」と思ってしまう。そう思ってしまう要因は色々あると思うけど、一番は「結論を急いでしまうから」かもしれない。
「で、結論は?」って、言われたことありません? 私は何度もあります。大嫌いな言葉です。
いや、仕事なら仕方ない。冗長を自負する私だって仕事なら結論から言うし、メールだって要点まとめて一目瞭然の状態に整えて送る。
でも普段の会話で「で、結論は? 結論から言ってよ」と急かされれば、「ああ、もういいかな」と思ってしまう。ぽーんと、匙、投げちゃう。

まとめサイトとかさ、自己啓発本とか(読まないから知らんけど。偏見ですね。読んでから言え)、最たるものだと思うわけ。要点と結論しかないものね? Twitterも140字でしょ。ツリーはたぶんうざがられるでしょ(異論は認める)。
結局コスパじゃん。結論までの最短距離。呑み込めるものだけ、さっさと欲しい。そういう空気に、私たちはもうずぅっと、さらされている。

だからもし、「で、結論は?」って言われなくても、ていうかただ何となく会話してるだけのときにそんなこと言う人の方が少ないとは思うんだけど、でももう抗えず思っちゃうの。「ああわたしまた話長い」「まわりくどい」「早く終われって思われてる」「早く結論にたどり着かなきゃ」って。

「あれ。結論なんか、あったっけ?」って。

言うじゃないですか。旅行は出発するまでが旅行だって。(言うか?)
言いますよね? 遠足はバスの中が一番楽しいって。(それはそうかも)
これは言うでしょ。何をするかじゃない、誰とするかだって。(逸れてきた)

敬愛する坂元裕二先生も言ってた。
「テーマなんてない。最終回にたどり着くまでの間に、誰と誰に、どんな会話をさせようか。それだけ」
(意訳だしたぶんネット上にソースはないのだけど、トークライブで直接質問した時に答えてくださったことなので、記憶の上では確か。大意間違ってないはず)

つまりね、会話においては、結論じゃないところに真意があったりするじゃないか、と。結論を急いで過程を省いてしまったときにこぼれ落ちるものの方に、大事なことがあるんじゃないか、と。思うわけなんです。
本当はそう思っているのに、目の前の相手とはそれを共有できない。つまり信用していない。だっていきなり言えないよね。「あなたまわり道が好きなタイプですか?」って。何の確認だよ怖いわ。
だから思っちゃうんですね、「こんなこと言ってもしょうがない」って。

ようやく戻ってきた。まわりくどくてごめんなさいね。
そういうわけで、そんな会話にまつわるあれやこれや、ぜーんぶまとめて「めんどくせー!」って放り投げて、結果、喋らない方を選ぶ。こういうわけです。

でも、そんなわたしが。最近気が付いたことがありまして。
「ああ、わたし自分で思ってた以上に、人と話したいのかもなぁ」
って、思ったんですね。不思議なほど、思ったんです。

喋らなくてもいいやと思っていた。ひとりの方が楽だし。面倒起こらないし。そもそも「言ってもしょうがない」し。
でも実際、最近めっきり、ほんっと、人と話す機会が減りまして。消滅したと言ってもいい。まじでない。
そうするとね、日常で思ったこととか悩みとか、気持ちが落ちているときは特に、自分のなかでぐるぐるぐるぐる、渦を巻いた状態が続く。基本的に寝れば回復する人間ではあるから何とか健康にやってはいるけど、ずっと、低空飛行ではある。そんなときにこれを聴いた。

坂口恭平さんの著書『自分の薬をつくる』を取り上げて、メンタルヘルスについて語る回。(奇奇怪怪明解事典はめちゃくちゃおもしろいポッドキャストなのでどの回もおすすめ。みんな聴こう)
声を出して悩みを外に出す大切さ。アウトプットの重要性。そこから派生して、創作するときのメンタルのこと。「空想で現実を突破しろ」な話。

たぶんずっと心と頭でだけ思ってきたこと、感じていたことが、見事に言語化されていた。そうだよな。それでいいんだよな、って。奇奇怪怪のお二人に背中をさすられている気持ちだった。
すぐに『自分の薬をつくる』を読んだ。ごくごく吞み下せるほどに、わたしにはもう、坂口さんの考えを沁み込ませる土壌ができていた。

そんなとき、中尾泉さんから一本のDMが。
「ちょうど断捨離をしていて。坂口恭平さんの『自分の薬をつくる』が手元にあるんですが、よかったら」と。(意訳)(ポッドキャストと本の話はツイートしていたので、泉さんはそれを見てくれていた)

ここからDMの往復が何度か。詳細は省きますが、ああ、こんなことがあるんだな、って、思いました。タイミング、縁。
泉さんのお喋りは何度かスペースで聴いていたし、オンラインで居場所づくりをしている方というのも知っていた。何より奇奇怪怪の坂口恭平回を聴いてくれていて、『自分の薬をつくる』も読んでいて、前提を共有できている、そういう安心感がありました。そして実際、DMするなかでも、その誠実で穏やかなお人柄が垣間見えました。
(わたしは本来、やり取りの回数を重ねて、少しずつ、関係性を構築していくタイプではあるんだけど、わたしの今の状態と興味の方向性、そしてこの前提があったこと、抜群のタイミングだったことで、泉さんとはそこのところをギュッと短縮できたのかな、なんて思う)

そんなわけで泉さんのお店(オンライン)、a little にお呼ばれして、お喋りすることになりました。タイトルは『対話の可能性を探る会』。

うまく喋れるかはわかりません。結局自意識が暴走して、わけわかんないこと口走るかもしれません。でもそれもまあ、やってみないとわからないか、と。何よりわたし自身が、泉さんとお喋りしてみたいなと。こういう場に出ていこうというのも、「自分の薬」を作っている過程なのかもしれません。

長くなりました。
「人と話すこと」を考えているうちに、ここまで書いたようなことが頭のなかにぶあああああっと、溢れ出てきてしまったので、noteにしました。
本当は直接お話したかったけど、限られた時間、あまりに長い自分語りは邪魔だから、当日は泉さんとの「対話」に時間を使いたいから、存分に自分語りができるここに、書き留めました。

読んでくれた方ありがとう。
同じようなもやもやを抱えている人にも、上記のポッドキャストと本を知ってもらえたら嬉しいな。



子供の就寝後にリビングで書くことの多い私ですが、本当はカフェなんかに籠って美味しいコーヒーを飲みながら執筆したいのです。いただいたサポートは、そんなときのカフェ代にさせていただきます。粛々と書く…!