福留孝介福留孝介

コブ山田です。

ようこそいらっしゃいました。

今回は、プロ野球元中日ドラゴンズ福留孝介選手について、記します。

1999年09月04日(土)。私は当時小学5年生でした。
広島市民球場での中日戦で、09回裏に広島の8番キャッチャー西山秀二はレフトフェアゾーンにフライを打ってしまいます。
同点であり延長戦か。多くの人々がそう思った中、中日のレフトはこのフライを落球してしまいます。
ランナーが生還し広島サヨナラ勝ちとなりました。

首位を走って優勝も見えている中日の勢いに水を差しかねない結末に、私は、

「おい、何やってんだよ、サヨナラ負けになったやないか…大丈夫かよ、下っ手やな!」

と怒ってしまいました(小学生の言葉です)。

凡退が自然な打撃をしてしまったのに落球となり、西山も困惑が正直なところだったのかなと推察します。自身もプロ野球選手でありエラーすることはあるのでざまあみろとは思わなかったでしょうけども。

実際に、1999年の失策数は19。セ・リーグ最多になってしまっていた選手でした。加えて三振も121とセ・リーグ最多。
前年まで巨人の清原和博が三振王であり、私は清原の三振数を巨人ファンの友人を煽るネタとしていたのですが、黙っているしかなくなりました(苦笑)
新人王は巨人の上原に取られてしまい、疑問符のつくところは正直ありました。

それから23年の年月が経った2022年09月23日(金祝)、西山はナゴヤドームにネーミングライツがついたバンテリンドームナゴヤの1塁側ベンチにて中日の1軍バッテリーコーチとしてユニホームを着てグラウンドを見ていました。
試合終了となってもお客さんはほとんど帰りません。明日が土曜日だから以上の理由があります。

場内の照明が暗くなり、ビデオメッセージが流れるなど感動的な引退セレモニーが始まりました。
マイクの前に立った人物こそ、23年前に西山が打ったフライを落球しチームの敗北を呼んでしまった、福留孝介だったのです。
ルーキーイヤーはホームランを16本放つも三振・失策はセ・リーグ最多を記録するなど粗さが目立った福留。
その福留がMLBや阪神でもプレーし、45歳となり大きな引退セレモニーの対象者となっている。24年のプロ野球選手生活です。
西山も、あの日のことは忘れていないと見ています。

福留のキャリアスタート期は、苦しかったところも多かったのです。
その後2001年まで、打率.250、ホームラン15本といった成績で移行していました。ナゴヤドームでホームラン15本打てるならレギュラーだろと言いたいところですが、巨人松井秀喜やヤクルトロベルト・ペタジーニが40本近いホームランを打っていたことを考えると、どうしても大活躍とは言えない状況にありました。

ところが2002年。福留はホームラン19本、65打点(前年がホームラン19本、65打点)とあまり成績が変わっていないように見えるも、打率.343、186安打(前年が打率.251、94安打)であり別人のような状態になっています。二塁打は42でセ・リーグ最多でした。

漫画『ドカベンプロ野球編』の45巻134ページにて、福岡ダイエーの岩鬼正美(設定の上では福留と同じ1977年04月生まれ)が、

「今年(2002年)セ・リーグで一番成長したバッターやで」

と叫んでいました。

https://www.amazon.co.jp/ドカベン-プロ野球編45-少年チャンピオン・コミックス-水島-新司/dp/4253055990

現実世界でも岩鬼の言う通りだと、私は感じました。

福留が急に打ち始めるようになった要因として挙げられるのは、まずはショート・サードだった守備位置をライトにコンバートしたからでしょう。
実は2001年まで、荒木雅博は外野手としての出場も多かったのです。2001年は内野以上に外野の方が多かったです。それをちょうど荒木と福留の守備位置を交換するかのような形でコンバートを実施。荒木は内野守備に適合し、福留も外野なら大丈夫ということで失策数を減らします。もともとショートを守っていただけあり、肩の強さが活きました。
フライ捕球などは二宮至コーチの守備指導が大きかったようです。

そして打率9分の上昇、安打数倍増となった打撃ですが、これは佐々木恭介コーチの指導抜きには語れません。

1999年で大阪近鉄の監督を退任した佐々木は、2001年は西武で1軍ヘッド兼打撃コーチを務めるも退任してフリーになるところでした。
西武は東尾修が監督を退任して伊原春樹につなぐところに重なりましたが、ちょうどそのタイミングで中日も監督が星野仙一から山田久志にスイッチするところでした。

関西のパ・リーグ球団で選手、指導者として火花を散らした山田と佐々木にはコネクションがあって自然です。
山田は、佐々木に打撃コーチオファーを出したのでした。
私も2001年当時の中日新聞の記事で、佐々木氏招聘へという記事を見た覚えがあります。実家の床に敷いてある新聞を見ながら、

「よりによってあの佐々木恭介が中日来るの!?」

という大きめの声まで出していました。

あの佐々木恭介、というのは簡単な話で、1995年のドラフト会議で福留の当たりくじを引いたのが近鉄監督の佐々木だったからです。
福留の意思は固く近鉄へは入団拒否となり、幼少期の思い出を胸から消さずに立浪和義がいてスタッフにも恩がある中日を逆指名したのでした。

結果、福留は上記のように打撃成績が大幅に向上したのですが、私はてっきり佐々木がちょっと言ったことにひらめいただけかと思っていました。
そうして同じような練習でも効果抜群でグングン伸びていったと。

それは誤解でした。もし同じことを思っている人がいたら、早急に認識を変えてほしいぐらいです。
福留も、佐々木の言葉に甘えて終わりではなく、それを絶対に自分のものにして打てるようになってやろうという強い推進力で臨んだのです。

「孝介の再生に来てくれ」

福留の再生に力を貸してくれという表記の記事もありますが、山田は佐々木の指導スタイルと福留の気質が合うと見ていたようです。
佐々木はかつて見た福留のプロ入り後の姿を見て唖然としました。記事の文中には“チンケ”という言葉がある通り、PL学園高校での怖いもの知らずの打棒は見る影もなく、凡なプロ野球選手のものと化してしまっていたのです。それは打率.250という数字が示しています。

福留の打撃向上が自身の最大のミッションであるからには自分の責任問題にもなります。なんとしても成績を残させたいということから、2001年秋季キャンプ(静岡・浜松球場)から福留は佐々木が言う打撃を体現できるようにすべく1日3,000スイングという桁外れの練習量をこなしていきます。

指が痛いだなんて言っていられません。テーピングをしてでも練習に励もうとしていましたし、毎晩疲れ果てて眠って迎えた朝は固まった指をぬるま湯でほぐすところから始まり、また3,000スイング。次の同じ曜日が来る頃にはどれだけ少なくても5ケタの数字にはなっています。
文字に起こすのは簡単ですが、これを実際にクリアできる人が世の中に何人いますでしょうか。阪神の新庄、亀山といった選手でも2,000ほどで音を上げてしまったようです。
しかし、福留の長所にこの激しい練習にも適応できる体力がありました。これが45歳までプレーできた一因とも言えます。

基礎体力、現状を何としても変えたいという思い、実際にメニューをこなしていく推進力が重なっての打撃力向上だったのです。

そして、佐々木が福留にかけた言葉も大きな意味があるものでした。
東京スポーツの記事の文中を引用します。

「俺の言うことを2年間黙って聞いてくれたら2億円の選手にしたる。その代わり、他のコーチ、仲間から雑音が入ってきても聞き流して俺についてきてくれ」

と言ったのです。
特に後者の、佐々木の言うことだけを聞き入れる。他の人間のことは聞かなくていいという点です。
これは個人的にはハイリスクハイリターンだと思っています。その指導がフィットすればいいですが、そうでなければ双方ともに気の毒な事態にしかならず、人生狂わせます。
しかし、佐々木と福留にはこれが成立する信頼関係があったと推察します。福留も打率.250と並の選手になりかけていて、それも自身の打撃フォームの指摘を受けて直そうとしたら、思わしくないことになっている。言うとおりにやって打てたら苦労しねえんだよ!、と半信半疑になるのが自然です。でも、福留は佐々木なら大丈夫だと思ったということです。

福留が人生かけてバットを振っている手前、佐々木も信頼関係が壊れないように正面から向き合うしかありません。

結果、2002年、3番ライトで開幕戦出場した福留は打撃好調を維持し、打率.343でセ・リーグ首位打者を獲得しました。
シーズンが終わり、私は、

「福留が3割打って首位打者。松井抑えちまった。佐々木さんやべえな」

と呆気にとられていました。

そう、自己推進力とコーチがかけた絶妙な言葉という点で、2008年横浜内川聖一、2006年北海道日本ハム糸井嘉男と共通点があります。
不安を軽減し、前向きな気持ちにさせてくれる言葉です。

「1億円のマンション買うぞ」

と内川聖一に言った杉村繁。

「目標は世界中の投手を打つことだ!」

と糸井嘉男に言った大村巌。

「2億円の選手にしたる」

と福留に言った佐々木恭介。

福留はそのあとはレギュラーの座を確固たるものにしました。2006年には広島東洋カープの前田智徳の技術を自身に採り入れて打率.351、ホームラン31本、104打点でセ・リーグMVPを獲得しました。

「誠意は言葉ではなく金額」

と福留が言ったことになりましたが、セ・リーグMVP受賞プレイヤーに文句を言う人は少数派でしょう。
MLBや阪神でもプレーし(2017年から04年間は福留と糸井はチームメイトになっています)、最後はルーキーイヤーの1999年と同じチームである中日ドラゴンズのユニホームを着た状態で引退となったのでした。

2022年という年は本当に不思議な感じがします。球史に残るバッターが同時にバットを置いたのですから。
それも、ドラフト1位指名の鳴り物入りで入団するも壁にぶち当たってしまい、そんな中で他球団から来たコーチのよき指導の掛け算で大きく開花したという似た経験をしている選手たちです。
東京スポーツの記事に、

その時の孝介はスカスカのスポンジ状態。とにかく“水”が欲しかったと思う。

という一節がありますが、これは福留だけでなく内川と糸井にも大いに当てはまると考えています。

プロ野球に限らず、これはキャリアスタート数年後停滞してしまっている社会人においても響く話だと私は思っています。
彼らの思い出を胸に、私も伸び悩む他者がいるときに不安を取り除ける一助となり、そして自身も歩み続けていきたいと改めて感じた2022年秋のプロ野球のできごとでした。

ありがとうございました。

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