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カフェに行かないカップルについて

とある女性から、「パートナーがカフェに付き合ってくれない」という相談を受けた。

聞いた瞬間は、「???」という感じだったが、話を聞いていると事態が飲み込めてきた。

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話を要約すると、相談をしてくれた人のパートナーは、「節約家」だった。彼の人生においては、無駄な出費を抑えることが、プライオリティとしてあった。

カップルでデートに行く時にも、その判断基準は揺らがない。デートをしていて疲れたら、家に帰ればよい。だから、「ちょっと休憩〜」という感じでカフェに立ち寄ることもない。

そのような小さな努力を積み重ねた結果、貯金はかなりあるらしかった。それはそれで素晴らしいことだ、と思った。

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僕の話をする。我が夫婦は、頻繁にカフェへ行く。

旅先で気になったカフェにふらふらと入ってしまうのはもちろん、家の近くにあるカフェにも行ってしまう。

「カフェに行くくらいなら、貯金しよう!」なんてマインドは、毛頭持ち合わせていない。毎日は楽しいけれど、結果として、貯金もあまり多くない気がする。

はたして、前述の「カフェに行かずに、貯金するカップル」と「カフェに行き、貯金のないカップル」、どちらが正解なのだろうか?

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そうして、改めて自分の身の回りを見てみると、意外と「カフェに行かない」という選択をする人も多いのだな、と思った。

節約に熱心であれば、「カフェ代」というのは真っ先に削られるのだろう。子供が出来たりしたら、どんな家庭でも「節約」が喫緊の課題になる。

「カフェに行かないカップル」は、未来を見据えている。合理的であり、それは将来の自分たちのための選択である。

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話題を変えて、少し、昔の話をする。僕の祖母が、老人ホームにいた頃の話だ。

祖母の入っている老人ホームは、新しくて、とても綺麗だった。僕らの世代と違って、年金がたくさんもらえていたらしく、幸せなことにそういう新しい施設に入れたのだ。

頻繁に訪れることはできなかったが、いつ老人ホームを訪れても、祖母は幸せそうだった。笑顔でニコニコしていた。

綺麗な施設は、しかし、殺風景ということでもある。目に見える色は「白」が多く、周りにいる人たちは、もう余生もあまり長くないであろう高齢者だけ。

祖母は幸せそうではあったが、そのような環境の中で、徐々にアルツハイマー症を患っていった。

孫である僕の名前も忘れがちになっていった。昨日のことを忘れ、さっきの出来事も忘れるようになった。

人は年齢を重ねると、ある段階から、逆に「幼児化」していく。もしかしたら、祖母が幸せそうに見えたのは、「幼児化」していることの証左なのかもしれない、と思った。

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ある時、老人ホームを訪れた僕は、直感的に「祖母には刺激が必要なのではないか?」と感じた。

この施設は綺麗だけれど、きっと、彼女には刺激が足りないのではないか。

僕は祖母を連れ出して、車を運転した。そして、近くにあったカフェへと連れて行った。

僕はコーヒーを、「何が飲みたいかわからないわ」という祖母には、あたたかい紅茶を頼んだ。期間限定の、イチゴのモンブランも頼んでみた。

そのカフェで、特に何かを話すでもなく、時間はゆっくりと流れた。

祖母は、モンブランを美味しそうに食べていたけれど、上に乗っていたイチゴは僕にくれた。

「楽しかったわ」

カフェを出た祖母は、いつもよりも幸せそうに、そう言った。

「楽しい時間を、ありがとう。今日の日のことは、ずっと、忘れないわ」

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僕は、カフェが、好きだ。

大切な人とカフェで過ごす、ゆっくりとした時間が、好きだ。

そこで過ごした時間は、美しい記憶となって、僕にあたたかい感情を与えてくれる。

それはきっと、数百円で買えるものとしては、最も価値が高いものだと思う。

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カフェに行くカップル、行かないカップル、どちらが正解というわけではない。おそらく、どちらもがある程度、正しい。そして一番いいのは、ふたつを上手く組み合わせることだと思う。

でも僕は、僕の人生においては、カフェに行く時間を大切にしたいなと思っている。

大切な人とカフェで過ごす時間、それがとても幸福なのだ。お昼から夕方にかけて、ゆっくりと流れていくカフェの時間が、何よりの幸福なのだ。

その価値観はこれから先も、きっと変わらないだろう。

そして、祖母が僕にくれたあたたかい感情を、僕も誰かに与えていきたいな、と思うのである。

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