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気づきの支援日誌7/17

コーチングサービスの実務を仕事として7年以上やってきたけれど、ロールモデルなんてなかったから、常にご利用くださる方々との関わりの中で、試行錯誤で実感を伴った意味形成をやらせてもらっていた。

でも、試行錯誤なしでは、自分という一貫性を欠いた、わりきったものになっていたかもしれない。
そもそもこの仕事でわりきることは、あまり良しとされていないし、そういう分裂を選択していたら、身がもたなかっただろう。

「セッション中の自分」「ごはんをたべる自分」「本を読んでいる自分」「親と過ごす自分」「臨床の先生方と話す自分」は、変わらない。
もしかしたら、変わらないから、とがっているというふうに言われるのかもしれない……
まぁ、それはそれとして。
ただ、アイデンティティは変わっていたように思う。つまり、自己表現の仕方が、その場の関係性になじむような振る舞い・言葉選びになる。
どのようなアイデンティティでも、感覚的には一貫性を感じているし、連続性もあるように思うから、自分のままでいられている、と表現して違和感はない。

ここでいうアイデンティティとは、目に見えず形もない本来の自分という存在を、誰かと関われるように、その都度その環境に実在できるよう具現化されたアバターのようなもの。インターフェースとも呼べるかもしれない。
それらしく言えば『社会へ拡張された自己』または『関係性の中で拡張された自己』。

たとえるなら、フレンチと会席料理をいただいている時とで、カトラリー(?)が異なるのは、アイデンティティが異なることと少し似ている。

ナイフとフォークを使用するスタイルと、箸と懐紙を使うスタイルで、食べ方そのものも変わるし、味わいも違う。
関わる対象に合わせてスタイルを変えるように、関わる対人関係に合わせてアイデンティティも変わる。
そのアイデンティティにもとづく振る舞い・言葉選びになる。
でも、カトラリーが違っても、そのカトラリーを使うのも自分だし、食べるのも同じ自分。
食べ方のスタイルで、味わいがちょうどいい塩梅になるように、アイデンティティも関係性を感じやすくしてくれる。

カトラリーもアイデンティティも、世界と自由に関わるための、とても素敵な橋渡し役。

これを、"礼儀作法"という紋切り型で捉えていては、食事も対人関係も、広がりや味わいが、淡白なものになってしまう。
そんな窮屈なことはない。自分という存在がそこにいる意義すら、あいまいになってしまう。
だから、アイデンティティといういろんなパターンも、スタイルというパターンも、自分という主体が当然のように扱ってよいものとして、その場の関わりの中で大切に形成していきたい。

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