見出し画像

自分軸で生きるということ/7つの習慣セルフコーチング

自分軸で生きるというのは,下手をすればワガママに振る舞うこととほとんど同じ意味なのではないでしょうか。


歳の離れた友人は僕にそう言った。


そう,それは表面的にはきっとそうなのだろうと思う。
表面的にはとわざわざ言うのは,それはもちろん本質的にそうでないという意味だ。

自分の軸となる価値基準。
大切な価値観。

しかし価値観は人生の原則でなく,多くの場合「解釈」を含んでいる。

歪んだ認知による価値観へのしがみつきもあるだろう。
それがなぜ大切なのかはわからなくても,大切だということはわかるから,無意識に僕らはそれを基準にして言動を選ぶ。

それが「解釈」であったとしてもだ。



そういうふうに取り上げれば,自分軸で生きるというのはすなわち,ワガママに立ち振る舞うことを含んでいるようにも感じる。
「解釈」自体がそもそもワガママで一方的なものであり,過ちを含んでいてそれでいて正しさを感じるものだ。


ではワガママと自分軸で生きること,なにが違うのかというと,自分軸には「良心」がある点だ。


「良心」はひとが持つ固有の能力。
ここで言う「良心」というのは,道徳的な倫理的な「良心」とは似ているけれど,同じものではない。

「良心」はその選択が「コンパスが指し示した方向に沿うものであるかどうか」を判断する直観的な能力だ。

そして「人生の原則」を的確に関連付けて,良い結果を導くものかそうでないものかを瞬時に判断し,その持ち主である自分自身へフィードバックするものだ。


たとえばお金は何よりも大切だという価値観をもっているひとがいるとしよう。

お金を得るためには様々な手段があって,どの方法をとるかは個々に異なるし,もちろん自由に選ぶことができる。

一方で,その価値観に沿っていたとしても,その行動が「人生の原則」に沿わないような行動,言葉,考えを持ったとき,直観的に「良心」は警報を鳴らすだろう。

人生の原則を示すもの,たとえば「誠実さ」であったり,たとえば「信頼」であったり,軽んじれば必ず人格を損ねる原則。


これらに沿わない選択肢は,自由でありながら,しかし選択すれば原則に従って大切なものを失うのだ。

「ワガママ」が「良心」を含んでいないのは、原則に基づいておらず、あるいは事実に基づかず、ただ自身の「解釈」に身を委ねているという意味でもある。

自分軸にとって、「ワガママ」はある意味で構成要素ではあるが、自分軸はそれだけでできていないのだと僕は考えている。



もう少し言えば、僕らは「良心」が発するその警報を無視することもできる。

警報に気付かないふりをして,あるいは別の理屈で心に蓋をして,ワガママに振る舞うこともできる。

しかし、自分軸に従わず単なるワガママに寄り添えば,次第にその声は聞こえなくなっていくだろう。そして良心からの声が届かなくなれば、ワガママだけが残り、自分軸だと思っていたその姿は大きく変わるだろう。


人生の原則による結果を変えることはできない。
そうした言動を繰り返せば,ひととしての影響力,周囲との関係性,あるいはひとの魅力そのものも色あせていくことは逃れられない。

だからこそワガママでなく,良心の声に耳を傾けた「自分軸」で生きることが大切なのだ。




自分軸は,良心を内包すると僕は考えている。
すなわち,良い原則を基に,自身の大事な価値観や信条,あるいは感情を基準にして自由選択をすることが「自分軸で生きる」ということだ。

言葉にすれば陳腐に聞こえるかもしれないけれど,これができたときたまらなく自分を肯定してあげたくなる。勇気を持って行動できた自分を誇らしく思う。他者の評価を気にして,誰かが書いた脚本通りに演じることを拒否し,自分の人生の主役を堂々と演じてやろうという気概があふれる。


そのひとつひとつを積み重ねることが,高い効果性を持つひと,在りたい自分へ近づくためのたったひとつの方法だ。


サポートいただけると燃えます。サポートしすぎると燃え尽きてしまうので,ほどほどにしてください。