手放しに「好き」と言えなくなるとき
好きなものに対して、手放しに好きと言えなくなることがある。自分の中だけで「好き」を完結できなくなると、どうしても引いてしまう。
自分の中だけで「好き」を完結できないというのは、他人の「好き」が意識せずとも目についてしまい、「好き」を自由に表現できなくなる状態のことだ。例えば、好きだったものがとんでもなく人気になってしまった時や、人にお勧めしたら予想以上にハマってしまった時など、そうなってしまう。
周りに同じものを好きな人がいたら、気持ちを共有できて嬉しいはずなのだが、何故か私は息苦しさを感じてしまう時がある。
うまく表現できないのだが、「好き」を盗られたような気持ちになるのだ。
だから敢えて話題から避けてしまうこともよくある。
これは、ドルオタたちの言う「同担禁止」とは違う。同じものを好きな人がいるのは当然のことだし、そのほうが良いことの方が多い。だから、好きなものが一緒だと言うのが嫌なわけではない。
じゃあ何故「盗られた」と思ってしまうのか?
もう少し噛み砕いて言うと、「好き」を盗られたと言うより、好きになった「過程」を奪われたような気がしてしまうからではないかと思っている。
私は猫が好きなのだが、勿論、猫が好きになるに至った過程がある。実家や祖父母の家で猫を飼っていて、生まれた時からずっと猫がそばにいた。成長過程で猫と触れ合っていく中で、時間をかけてどんどん好きになった。
当たり前のことだが、何かを好きになる時、このように好きになる過程が存在している。そして、好きになるまでにはそれなりに時間がかかる。知るところから始まって、好きになって、熱中してと、段階を踏むからだ。
だからこそ、
「もっと早く出会えればよかった」
と思う。
誰しも一度は思ったことがあるはずだ。私も「もう少し早く知っていたら最盛期を目の当たりにできたのに」と歯噛みすることがたくさんある。
でも、早く出会うための近道はある。
好きなものが人気になったり、人に勧められたりしたときだ。
この場合、最初に誰かの「好き」があって、そこをなぞりながら好きになっていく過程を踏んで行くことになる。誰かの「好き」を聞いて、それで知って好きになっていくから。
これが、「好きを盗られた」「好きになった過程を奪われた」と感じてしまう原因なのだと思う。
好きなものが人気になって行けば、漫画であれば長続きしたり、作者さんが豊かになったりする。だからこれは単純に嬉しい。
それでもどこかで、自分が踏んできた過程を莫迦らしく思ってしまう。階段で上まで登って見たら、みんなが後からエレベーターに乗ってすごい勢いで追いついてきた、みたいな感じ。笑
古参ファンと呼ばれる人たちが「にわか」にあまりいい気持ちを持たない場合、私と同じように「好きを盗られた」「好きになった過程を奪われた」と思っているのではないかと思っている。
勘違いされるのは嫌なので一応書いておくが、私はにわかを否定しているわけではない。私は熱中するのが苦手なので、どちらかと言うとずっとにわかで生きてきた。にわかファンがいないと好きなものが滅びる。にわかファンが好きを支えている。にわかファン万歳。
ここまでいろいろ書いてきたが、「好きを盗られた」は間違いだ。
「好きが伝染した」が正しい。
私の中の好きがなくなったわけではないのだから、手放しに好きと言えばいいのだ。みんなで好きになって、みんな潤ってハッピーになればいい。
実際に心を入れ替えるのは簡単なことじゃないけれど。
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