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何をやっても無駄と感じてしまう”学習性無力感”について

長い期間に回避できないストレスを受け、「何をやっても無駄」という認知が形成されることがある。これを、学習性無力感と呼ぶらしい。

学習性無力感(がくしゅうせいむりょくかん、英: Learned helplessness)とは、長期にわたってストレスの回避困難な環境に置かれた人や動物は、その状況から逃れようとする努力すら行わなくなるという現象である。他の訳語に学習性絶望感獲得された無力感学習性無気力がある。

回避できないストレスというのは、長期間の監禁や日常的な暴力、いじめやモラルハラスメントなどの人格否定などのことを指すそうだ。このように、何故罰せられるのかわからない状態が続くと、自ら積極的にその状況から抜け出そうとしなくなり、うつ病に似た症状が発症する。ブラック企業で働き続ける人などはまさにこれで、学習性無力感により自ら積極的に辞めようとすることができなくなっている状態だ。

さらに怖いのは、学習性無力感により、「努力すれば成功するかも」ということすら考えられなくなり、向上心まで奪われてしまうそうだ。

私は、自分がこの学習性無力感に陥っているのではないかと思った。振り返ってみると、自分が偏差値の高い高校や大学に受かるわけがないと思って目指そうとすらしなかったり、内定がもらえるはずがないと思って憧れの職種にエントリーしなかったりと、行動してもしなくても同じだから行動するのを辞めるという、学習性無力感に似た行動を時折とることがある。

しかし私は、誰かに暴力をふるわれたり監禁されたことなんてないし、いじめやモラルハラスメントなどの人格否定は少しならあるが、トラウマ級のものはない。私にとっての回避できないストレスは、認識しにくく、社会に根付いてじわじわと蝕んでくるタイプのストレスだ。

一番大きいのは、美人は尊重され、ブスは軽んじられる風潮だ。これは、「人を見た目で判断してはいけない」という言説にうまく隠されていて、当事者でないと気づきにくいけれど、私の実感としてこの風潮は確かに存在する。最近は、ルッキズム(外見至上主義)から抜け出すべきという議論が話題になっているから、少しは顕在化してきたかもしれない。

私は自分がブスであると自覚するのが結構早くて、覚えている限りでも5歳の時にはすでに自覚していた。そして、5歳の時にはすでに、ブスであることにより軽んじられるというストレスを感じていた。周りに私に直接ブスだと言ってくる人は今までほとんどいなかったが、明らかにブスであることで損をしているという実感は常にあった。それを一番思い知らされたのは、就活をしている時で、外見が良い人が内定を得やすいという実感と、事実だ。

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また、世の中には、「可愛いは正義」という言葉が存在しているけれど、この言葉を聞くたびに「ブスは何をやってもダメなのか」という思いが去来して、徐々に「ブスは何をやっても無駄だ」と思うに至ってしまった。今は、外見至上主義から抜け出そうという声が大きくなってきて心強さを感じているから、そんなことは思わなくなってきたけれど。

そして、このようにじわじわと心を蝕んでくるストレスに、自分の「心の自傷癖」が拍車をかけた。ルッキズムを憎んでいるはずの自分がルッキズムを内在化し、心の自傷によって増幅させてしまったのだ。これが、学習性無力感のような症状を生む原因となっているのだと思う。

学習性無力感を治療するには、自尊心の回復や、行動随伴性を示すこと(行動の原因を突き止めること)、失敗は別の理由で起こったと説明し、励ますなどの認知行動療法が効果的だという。まずは、学習性無力感を生む原因になったであろう失敗の原因を探って正しく理解することと、心の自傷を減らしていくことに努めていこうと思う。

学習性無力感は、長期的にストレスを受けた本人だけでなく、学習性無力感に陥っている人を観察することによって、第三者まで無力感に苛まれることもあるそうだ。自分の無力感を表に出すことにより、自分の周囲の人間にも悪影響を及ぼす可能性があるということになる。自分を守るだけでなく、周囲の大切な人の健全な心を守るためにも、学習性無力感のようなものから抜け出していきたいと思う。



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