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The Emulator - ザ・エミュレータ - #1

1. あの日

1.1 ディフェクト

 アールシュの目の前でそれを観察している鋭い目つきの女性はソフィア・コールマンだ。アールシュは自分の意思とは別に彼女の横顔から目を離すことが出来なくなっていた。風に流されて飛んでいく端切れを何気なく視界にとらえ、目線が外せなくなるようにただ彼女の横顔を見つめていた。

 アールシュはその顔が何を示しているか知っている。難解な課題を持ち込まれてうんざりしながらもそれがなんであるのかを認識しようと観察する研究者である自分を重ねる。アールシュはソフィアに自身の日常を見つけていた。

 小柄な彼女は、背中まである長い金髪を無造作に肩に流し、身体拡張を使わずに黒縁の外部拡張グラスかけている。

 彼女はエヴァンズ教授の部下であるスカイラー・グリーンの部署に所属している。エヴァンズ教授がオプシロン社に籍を用意された時、信頼できる部下を何人か連れてきていた。スカイラーもソフィアもエミュレータの研究者ではなくソフトウェアエンジニアだった。アールシュやエヴァンズ教授がエミュレーションのコアになるアルゴリズムやロジックの設計を担当し、彼女たちはアプリケーションアーキテクチャの設計とその実装を担当していた。

 エミュレーション対象のオブジェクトが演算装置間を移動する際に利用する『仮想演算装置』のアーキテクチャはこのチームが設計したものだ。他にも演算結果のデータを観測ビュー上でモデリングするための仕組みを設計したのもそうだ。そして、そのほとんど全てをソフィアが担当している。アールシュはオプシロン社に入社した時からソフィアのことを知っていた。ソフィアはアールシュよりも若いが非常に優秀で技術力に信頼の置ける人物だった。そして、彼女は、その美しく上品な外見とは裏腹に無遠慮な性格だった。

「2人が言うように観測ビューかマテリアルの破損だと仮定するにしても、これだけ大きいと現実感がなくなるわ。もし直接触れたり、中に入っちゃったりしたらどうなると思う?」

 ソフィアが目の前にある白い空間を外部拡張グラス越しに凝視したまま、誰にともなく話しかける。手櫛で梳いただけのような無造作なその髪が額に垂れ、顔にかかるのを気にする様子もない。その白い空間は13フィート四方に広がる正方形の空間だった。

「でもまぁ、要はドット欠けよね。現実世界のドット欠けって感じで認識としてはいいと思うわ。『ディフェクト』って命名していい?」

 ソフィアはその白い空間を『ディフェクト』と命名した。ディフェクトは眩いほどの白さだったが光を放っているわけではなかった。周りには影がなく、それどころか周囲の光を吸収しているように見え、おまけに遠近感も働かない。そのため、視認しただけでは正確な形状を把握できず、周囲の映像や静止画を組み合わせて初めて正方形だと認識することが出来た。正面、だと考えられる、というよりもそう考えると正方形と認識出来る場所、から少しでもずれてしまうと錯視にとらわれ、目が回るような感覚に陥ってしまう。念のために持ってきていた放射能測定器はこれまで特に何の反応も示していない。ジェフはディフェクトまで2インチの距離まで近づき、その青い目でディフェクトをまじまじと観察しながら顎を撫でて言った。

「見ろよ、この白さ。光っているのか、それとも光を吸収しているのか、どっちなんだと思う? 認識を確定できないってこういう状態になるんだな。ずっと見ていると頭がおかしくなりそうだ。しかも、この中では測定器が働かないって話だし、それどころか、物を入れると消えるように見える。一体どういう現象なんだろうな?」

 ジェフは巻き取り式のスチールメジャーを伸ばしてディフェクトに入れたり出したりしている。

「無機質の物はいくつか試しているが、中を通過しても表面上何も変化が起こらないように見える。内部的、成分的な変化はどうなっているかは詳細に調査する必要があるだろうね。」

 エヴァンズ教授はそう言いながら、2匹のラットが入ったアルミ製のケージをディフェクトの前に置いた。少しケージの外枠が残るようにしてジェフのスチールメジャーでディフェクトの中にケージを押し入れた。エヴァンズ教授は数分後にケージの外枠にスチールメジャーの先をひっかけて取り出すと2匹のラットは何事もなかったように鳴き声を上げて動き回っていた。

「これは私の会社に持ち帰って検査するとしよう。おそらくディフェクトの中でもラットは鳴いていたのだろうが我々にはまるで聞こえなかった。中に入ったら自力で出てくることはできないだろうな。外枠を引っ張ることでケージ全体をディフェクトから出せたということは、体にロープを巻き付けて外側からロープを引っ張ればディフェクトから出られる、ということにならないだろうか。ケージの中にいたラットも戻ってきたのだからね。まぁ少なくとも、体の一部であれば入れてもこちらに引き戻せるだろうな。すぐにでも試せそうだが、ラットの検査結果を待った方がよいだろうね。」

 エヴァンズ教授はそう言いながらディフェクトに指を入れる振りをしていたのをやめた。それを見ていた全員が息を呑んだ。中に入ってしまったら出ることはできない。ディフェクトの内側で物理現象が生じていないと仮定すれば容易に想像がつきそうなことだが、改めてこの白い空間を目の当たりにしてそれを考えると怖くなり自然と身がたじろいだのを思い出す。

それが初めてディフェクトを視察した日の出来事だった。

次話:1.2 ウィルコックス
目次:The Emulator - ザ・エミュレータ -


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