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時間は音楽。絵本は、伸縮自在な夜の単位。

朝霞スイミングスクールと同時期、民謡教室にも通った。水中ゴーグルが気に入っていたので、いつもかけていた。現実が浸水した世界に見えてきた。そのまま絵本を開くと、スイミーの続きが飛び出して来た。幾千通りのエンディングを考えた。僕はスイマーであり、スイミーでもあった。

時間とはすなわち音楽なのかも知れない
水泳とは別に、母親が自信をつけさせるために通わせた教室がもうひとつあった。民謡教室。住んでいたマンションがある道をまっすぐ下ると、お唄の先生の家があった。先生はキリッとした70歳くらいの女性で、毎月あたらしい民謡を教えてくれた。水に触れるのが怖かった状態で始めたスイミングと同じく、人前で歌を歌うなんて羞恥の極みだった。それでも「普通の学校へ通う」ためにがんばった。いま考えると、人前で民謡を歌うというのはけして普通の行為ではない。変な舞台度胸みたいなものが僕にはデフォルトで備わっているのだが、しっかり人生を鑑みるとあの民謡教室のおかげである。お唄の先生はいつも着物姿。襖を開けて部屋に入るときの静けさ、正座するときにしまう足、立ち上がるときの手さばき。三味線の先生を紹介するときの指先。ひとつひとつの所作が子供ながらに美しくて、見惚れた。母親と妹以外の女性をあんなに凝視したのは、初めてだったかも知れない。

民謡には譜面がない。先生が唄ってくれた言葉を読み取って、そこに含まれる音楽を覚えるしかない。聞き逃したら最後、その民謡は二度と覚えることができない。変な緊張感があった。伝記で読んだ、エジソンが人の経験を宿そうとおもってレコードを発明したというエピソードも好きだった。時間とはすなわち音楽なのかも知れないと思わせてくれるからだ。

長くて短い夜の単位
習い事をひと通り終えて食事を終えたあと、僕には大きな楽しみがあった。母親が絵本を読んでくれる時間だ。スイミーという絵本が好きで、母親に何度も読んでもらった。読んでもらっておやすみなさい。次の日、水中ゴーグルをつけたまま絵本を開くと別の物語が思いついた。また夜になってスイミーを新しく読み終えるたびに異なる続きを母親に伝えるのが、親子のコミュニケーションだった。スイミングスクールで不条理なことがあると、それを物語として伝えた。お唄の先生の美しい所作が脳裏に残っていた夜は、見たことのない美しい泳ぎ方をする魚と出会う話を差し込んだ。

時間の掌握は難しいけど愉しい。話を考えておいた分、夜は長くなった。水泳では時間を短くするために練習を重ねた。時間は音楽にもなることを民謡教室で学んだ。伸縮可能な時間を楽しく過ごすと、あっという間に朝だった。どんな話の結末を伝えても、母親はダメ出しをしなかった。思っていることが顔に出るタイプだから、物語の出来不出来はすぐに分かった。いま考えると、母親は朝早くから働きに出ていたのでいい迷惑だったに違いない。それでも、眠くなって途中で先に寝てしまうことだけは無かった。必ず最後まで話を聞いてくれた。だから、必ず最後まで話を作っておいた。

世界を知るものは、国民の目になればいい。
レオ・レオニ作のスイミーをさっき読み直してみた。自分がかつて考えた無数のエンディングと混濁してフラットな物語(素うどんみたいな言い方をすると素スイミー)を覚えていなかった。スイミーは群れのなかで一匹だけ黒い色をしている。群のほかのものたちは赤い。ある悪い日、群れは巨大魚に襲われる。逃げ足の速いスイミーは一匹だけ逃げることに成功したんだけど、知らない場所に辿り着いて永遠の孤独に苛まれる。孤独のなかで、世界へ目を向ける。いろんな未知の生物と出会う。虹色のクラゲ、機械のように動くロブスター、見えない糸に引っ張られる奇妙な魚(子供の頃は気づかなかったけど釣りに使うルアーのこと)、生い茂る海藻の森、キャンディのような岩々、尻尾が延々と続く大ウナギなど。世界をひと回りしたスイミーは、やがて生き残った赤い魚たちの群れにふたたび遭遇する。自分が見てきた世界の豊かさ、色彩、可能性を伝えるけど誰も相手にしてくれない。高度な知性を持つものはプライドが高い。相手にしてくれない時点で、別の群れに行ってしまうのが常だろう。スイミーは違った。群れに付き添い続けた。そして、かつて襲われた巨大魚とふたたび対峙したとき、群れの目となってそれを撃退した。スイミーとしては、極端なリーダーシップを駆使したのではなく、自分の居心地のいい場所を群れの中で見つけたに過ぎなかった。それが、群れを巨大な魚として見たときの目に該当する位置だった。思っていたのと異なる、エンディングを作り直すなんてとんでもない。いまの私たちにも重なるような素晴らしいお話だった。時を越えて読み継がれている理由がわかった。

自分だけ異なる色をしていたからって卑下することはない。勢い余って悪者になって群れから離れなくてもよい。世界を知るものは、国民の目になればいい。他の海域へわたる勇気のないものを否定することはない。ただし、目になろうとする専門家の意見を、国民の頭脳として機能するものたちが無視してはいけない。時間と空間に縛られているということは、秩序を守っているということでもある。国民が総じて冒険家になったら、国はたちまち立ち行かなくなるだろう。あれ、まてよ。冒険を義務として課せられた国民、そして国にはどんな物語が待っているだろう。法と秩序がまるで流転、冒険のない家庭には重たい税金が課せられる。それはそれで地獄。また別の話がうっかりはじまりそうなので、今夜はこの辺で。

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