躁が迎えにきて、居るのがつらくなった気がして
何日か前からソワソワむずむずモゾモゾする。躁期の前兆である。間違いない。程なくして、躁が隣にやってきた。俺の躁は俺自身を飲み込んでくるというよりかは、躁期はずっと横にいて色々けしかけてくるタイプのやつだ。鬱陶しいが、それのおかげでヒョイっと段差を越えられる時もあるので侮りがたい。
そして今回も躁がやってきた。何だかソワソワする。心と肚の中間辺りやお尻がモゾモゾする。文字が目に入りやすくなる。流せなくなる。自然と拾ってしまう。拾ってしまった言葉に対して頭の中でムクムクと言葉が湧き上がる。スッキリ上手く文章になっていたり、まだまだ推敲前だったり色々だ。頭の中でディスクが高速回転しているような感覚。
何か新しいことを始めてみたくなる。ここではないどこかへ行きたくなる。隣の青い芝を我が庭にも敷いてみたくなる。転職について考える。キャリアアップなんぞに興味を示してみるなどする。そう…決して悪くはない、悪くはないのだけど…これまでの人生は躁ブーストで始めたはいいが、その後しばらくしてプツンと糸が切れて鬱状態で敗戦処理をする…みたいなことの連続だった。そういった前科がいくつもある。安易に唆される訳にはいかないのだ。
「居るの(だけ)はつらい(気持ちになってくる)よ」
先日『居るのはつらいよ』を読んだ。
ケアとセラピーの間で、「いる」が中々できなくてついつい何か「やる」をやってしまう主人公。
調子が悪くなると「いる」ができなくなってしまうメンバーたち。
人生に関わる線的時間と生活に関わる円環的時間があって、デイケアでは円環的時間を過ごしていくことによって足場を固めて安定させていく
円環的時間の中で「いる」や「遊ぶ」ができるようになると、その先には飽きや虚しい退屈が待っている。
ケアとは「ニーズを満たすこと」が目指され、セラピーとは「ニーズを変更すること」が目指される。
俺の躁は、俺に「居るのはつらい」ことを思い出させてくれているのではないか?
それは悪いことなのか?
俺は日常をやるのが苦手だ。朝スッキリ起きる。栄養バランスがそれなりのものを適切な量食べる。毎日決まって仕事に行く。朗らかに過ごす。冗談を言い合う。人と対等に節度を持って関わる。時に腹を割る。社会やコミュニティにおいて地味な役割や責任を果たす。洗濯をする。掃除をする。自分の収入に見合った支出をする。友人を持ち交流を続ける。毎日夜にお風呂にきちんと入って疲れをとる。明日に備えて早めに寝る。
俺は油断すると、いや油断しなくても日常をやることにすぐにつまづく。なのでここ数年は色んな人や福祉の厄介になっている。今までで1番マシな日常を送れている気がする。悪くはない日常を積み重ねられている。
そして久方ぶりの躁がやってきた。
これは言うなれば、
「心身が円環的時間の過ごし方を求める鬱期で力を溜め、余力が生まれたところで躁が顔を出した。」
といったところだろうか。
そうか俺は、自分の「鬱」にケアされ、「躁」にセラピーに誘われているのか。何だお前ら2人とも良いヤツじゃないか。俺の中の「デイケアぱぶまん」の中にホットな人生担当とクールな生活担当がいるだけだったのか。
ありがとうな今まで。悪者のように扱ったこと謝るよ。ごめんな。
これまでや今も、0か100か、黒か白か、鬱か躁かみたいな思考や性格にとらわれて、振り回されて困って悩んで疲れて苦労して…と本当にいい記憶はないんだけど、その間を行き来する自分という存在の置き方や立ち回り方への意識が少し薄かったのではないかと思う
彼らは自分の一部であることに変わりはないんだけど、あくまで主体は「その間を行き来する私」なのだ
『居るつら』を読んで、何となくそういったことに気付くことができた
ひとまず気付くことができただけである
これから自分の足で踏ん張って上手くやっていけるかどうかは分からないが、俺はこれからも彼らと共に歩んでいくのだろう。
鬱と躁のあいだで
円と線のあいだで
現実と空想のあいだで
日常と非日常のあいだで
クールな生活とホットな人生のあいだで
わたしとあなたのあいだで