見出し画像

#60 慟哭 ~2024.7.28

■貴方の意見は?というダイレクトメール

パリオリンピック柔道、阿部詩選手が2回戦で敗退しました。その後の号泣っぷりが話題になっています。
以前、ガッツポーズに関する記事を書いたせいなのか、あるSNS経由で「このことについて貴方の意見を聞かせてほしい」というDMが来ました。
私の発信なんて名を轟かせているインフルエンサーの皆さんと違って何の影響力もなく、極力FB以外では私見を出さないようにしているのに…でも届いたDMの文面からは「武道を志す者としては(貴方も私も)こういうのはみっともないと思いますよね。許せないですよね!云々」というような同意を求める雰囲気が伝わってきました。

うーん。そうですねえ。どうなんでしょう。
正直なところ私は、そこまで否定的な印象は持ちませんでした。
送り主さんごめんなさい。私はあなたと一緒にこの出来事を悲観することはできそうにないです。

■家族は「もらい泣きしそうだった」

勝ち負けにこだわるな、メダルに期待をかけすぎるなとは言うものの、日本の選手にはやっぱり良い成績を残してほしいと思うので、外出先で、家族LINEで「うたちゃん負けちゃったー」というメッセージがあったときには、残念に思い、そして驚きました。

帰宅するとちょうど試合の様子がリプレイされようとしているところでした。一本取られる瞬間=敗れる瞬間というのは、ある意味で残酷な瞬間であることは、何かしらの競技に携わっていれば理解できる人が多いはずです。
その残酷な瞬間を見たらどれだけ心が痛むだろうか…あまり見たくないなあと思いつつ、少々恐る恐るその映像を見ることにしました。
リアルで見ていて「もうかわいそうで。もらい泣きしそうだった」という家族のコメントを聞きながら見た、一本取られる瞬間。

でも「これは仕方ないね」という印象しか抱きませんでした。
事前に想像していたよりも「これは普通にあることだ」と受け止める自分がいました。

■柔道のことはよくわかりませんが、感じたことを

<試合>

●相手の技が完璧で絶好の機会に見事に決めた。誤審のつけいる隙もなく、素人目にみても柔よく剛を制した、理に適った機会の技だった。あれがもし微妙な判定での敗戦でその後大泣きしてるとかであれば感じることも違ったかもしれない

●「慢心だ」という声も聞かれるが、それに関しては不明。あの機会は慢心でなくても一本取られると思う。そのくらいに相手が見事だった

●どんなに意を決して望む勝負でも、一瞬の隙をつかれることは勝負ごとにはあることで「まさか」はないと常々私は思っている

<慟哭>

泣くという事実に目が行きますが、あれは泣くというよりは慟哭だと感じました。

●それこそ死ぬ気で何もかもを柔道に捧げて来た三年間が、あっという間に終わったことについてパニックになるのは仕方のないことだと思う
―自分にも同じようなことが起こったらと思うとぞっとする。ただ、その後は本人はしっかりとインタビューに応じていたし、この人はまた立ち上がるだろうなと感じた

●私は何かへの否定があったとき「じゃあお前もやってみろ」的な反論は好まない。しかしこれに関しては、自分は阿部選手と同じくらいに努力したことがあるかといえば、ないと思うのでやっぱり否定する気にはなれない。そのときの「行動はともかくとして」感情としては理解できる気がする

―私自身、ある大会で上位の成績を残した翌年の同じ大会では1回戦で負けたとか、「この試合だけは負けられない」という試合で絶好調だったのに負けてしまったとか、「団体戦で自分のせいで負けた」なんてことはいくらでもあって、そのたびに泣いてみたり塞いでみたりしたことは数知れない。

阿部選手は、畳の上ではしっかり礼をして、相手と握手していたので、会場の構造の問題とか映像の見せ方の問題なんじゃないかとも思ったりする。これが畳の上で泣き崩れていたのなら、私も真っ先に「これはみっともない!」と感じたかもしれない。ただし、私の経験ではとても阿部選手の経験には及ばない。

●試合を終えて少し時間がたって「情けない、みっともない」と自責するのは阿部選手本人のはずなので、周りがいくら「みっともないね」といったところでそれは感想に留まるものでしかない。それ以上やったら自分に跳ね返ってくることになるだろう

●「三年間何やってたの?」「もてはやされて勘違いしてるのでは?」みたいな誹謗もあるようだが、それは言い過ぎだろう

●武道か否かということについては、もう私はあのテレビに映っている柔道は武道だとは思えなくなっているので、何も感じないのかもしれない。
言うならば、礼が終わった後に歩み寄って握手するという世間で称賛される姿すら「武道ではありえないだろうに」と思ってしまう。それこそ見えないところで、後で…だろうと

●一方、あの立ち居振る舞いが武道か否か?という議論は意味がない気がする。多分ほかの「スポーツ」「ゲーム」だったとしても、あれを情けないと思う人は情けないと思うだろうし、武道でも取り乱す人は取り乱す。
それでも武道の世界で取り乱す様子が露わにならないというのは、精神修養の賜物だということ以上に「もともとそういう文化が醸成できているから」だと私は思っている

剣道の「終始感情を表すという機会がない」という文化のもとに生きていればひとつの基準は生じるし、だからこそ議論になったりするのだろう。
ただ、あくまでも私の場合、子どものころから「剣道で一本を取ったらガッツポーズなどはしてはいけない」「感情を態度に表すことで有効打突は取り消しになる」ということを習ったことが一度もない。
習ってはいないが、当然のこととして身についている。
中学の頃だったか、県大会以上のレベルで戦っているような面々が、有効打突を決めて開始戦に戻るときに小さくガッツポーズしている様子を見聞きして「え、剣道でもそんなことあるの??」と驚いたくらいであった。

■ちょっとまとめ

前述のとおり、この敗戦の一本は完璧だったと思います。誤審の入る隙は(私からは)見当たらず、非の打ちどころもなし。
映像を見てすぐに感じたのは「見事。この相手が強すぎる。むしろ番狂わせという表現自体があり得ない。このまま相手が優勝するだろう」ということでした。
相手の選手、終始身にまとわれたオーラが素晴らしかったです。

阿部詩選手、みっともないかといえば確かにそうなのかもしれません。
このときの映像は後々まで残ってしまうので、それを見てみっともないなと一番に感じるのは阿部選手本人のはずです。そこから這い上がっていくことに期待したいと思いますし、これで区切りをつけるというなら、それはそれで強い人のような気がします。
ただし人間性とか、本人の柔道への向き合い方を否定してしまうのは、やりすぎではないだろうかと感じます。
この出来事に武道を持ち出すこと自体が違うのかもしれません。柔道が武道でなくなっているからなのか、違う何かのせいなのかは自分自身でも不明です。

■今回のあとがき ~剣道ってそんなにすごいの?

とりあえず、論点整理もせずに思ったことを書いてみました。
ただ、否定している人、肯定している人、どちらかを論破したいわけではないのでご理解ください。DMの送り主さんには失望されるかもしれません。
また、少なくとも剣道では表面化しておらず、自分が身を置いている世界が剣道の世界でよかったなとは思っています。
「剣道を見習え」という声も聞こえてきます。剣道がオリンピック種目に入らないのは正解だ、と。
それは同感ですが、一方で剣道の世界だってそれを誇れるほどでもないなと感じることも多いのが実情です。剣道をしていない人から剣道を認められれば悪い気はしませんが、どうも後ろめたいというか恥ずかしい気がしてしまいます。SNSでの相互の誹謗中傷にマウント合戦、当てて派手に見せるテクニックに特化し審判の旗を上げさせることに拘る情報発信と実際の試合の光景…他者を批判すればするほど、自分に返ってきます。

「他人がどうか?」「同じ武道家として云々」ではなく、明快に「私は剣道をしています」という事実だけが胸を張って言えるようになればそれでいいかなと思っているところです。

※その後、DMの送り主の方と少々やり取りをして、いろいろと興味深い会話ができました。送り主の合意の上、この文章を投稿しています。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?