#62 剣道人はアスリートであるべきか
■剣道「なら」続けられると思っている
幼少のころから中断することなく剣道を続けてきた理由は、いろいろあります。何より好きでなければ続けられない。これは大半の人が同じではないかと思います。
多くの人が小・中・高校・大学を卒業することで部活動などの所属から離れる時点で剣道からも離れていくことになる、ということもあるでしょう。
私は、高校時代ケガばかりしていて思うように剣道ができませんでした。
内向的な性格だったため、ケガによる停滞は結構なダメージとなっていましたが、それゆえに「もう少し続けたら何かわかるかもしれない」と考えました。
この「もう少し続けたら何かわかるかも」という考えは今も続いています。
次の稽古では何かがわかるかもしれない…という思いが、高校を卒業した30年ほど前から今日まで継続しています。
ただし、何より根幹にあるのは剣道「なら」続けられるからということです。
剣道ならば、運動が苦手でも自分の持ち味を発揮できる。体が小さくても、走るのが遅くても、腕力がなくても自分に克ち、相手に勝つことができるからです。今風の言葉を持ち出せば、剣道を習うということは「アスリート」になろうとしなくてもいいのだと私は思っているからなのです。
しかし、最近はこのアスリートという言葉の定義自体が変わってきています。
↑運動が苦手でも…と思うに至った話です。
親御さんが子どもに剣道を始めさせる動機として、よく聞かれたのが次のふたつです。
■礼儀作法を身に着けてほしいい
■体が丈夫になってほしい
最近も同じだとは思いますが、少々変化があるようです。
■礼儀作法を身に着けたい―作法は豊かで滑らかなものである
作法とは堅苦しいものだと捉える人が少なくないと思います。
「剣道」という言葉が世の中ではじめて使われるようになったのは1912年。大正元年のことと言われています。その以前、剣術の世界からすでに立ち居振る舞いにおける作法があり、時には見直しが図られながら、現代まで残されています。しかし、稽古環境の変化や人の考え方の変化もあり、古くからの作法は少しずつ省略…淘汰されつつあります。
作法は「形式」ではなく、ひとつずつの動きに意味があります。その意味を追い切れていない=無知であるがゆえに無意味なものと見做してしまい、剣道人自ら作法を嗤い「なくしてしまえばいいのに」と謳う人が出てくるようになりました。
作法には日常生活に知恵をもって生かすことができる所作が多くあります。人を豊かにし、人間関係をも円滑にしてくれるものです。具体の説明は書ききれませんが、これも作法に込められた意味を紐解けば頷けるのではないかと思います。
※所作と作法はセットで用いられることが多いですが、それぞれの言葉が指し示すものは異なります
なくしてしまえば余計なことを考える必要もなくなって、ラクなのかもしれませんが、知らないから廃止してしまえばいいという考え方は、少々残念に感じます。剣道は体を動かしてスピードとパワーが向上すればそれでよし、というものではないはずです。
せっかく剣道を習うのであれば、作法を大切にすることまで極めていこうとすれば、剣道はもっと楽しく奥深いものになります。知らないのであればその理由を調べれば、無駄ではないということに気が付くはずです。
この奥深さを追求はせずに、ことあるたびにお辞儀し挨拶していれば、礼儀作法が身についているというものではないのですが…最近は、とにかく頭を下げればよし、というような指導や解釈も増えている気がします。
■体が丈夫になってほしい
剣道を継続すれば体が丈夫になっていきます。足は裸足、布の剣道着で体が擦られ、竹刀を振ることで間接や手の運動になり、そこから病気やケガをしにくくなります。このような「風が吹けば桶屋が…」的な長期的な効果があるのですが、それ以前にどうしても短期的な答え=身体能力(昔で言うところの運動神経)が向上するかどうかに目が行きがちです。
たとえば、剣道にラダートレーニングなどが導入されるようになって久しいです。メジャーになり始めたのは30年くらい前からだと思います。(違っていたらごめんなさい)ほかにも、俊敏な動きを身に着けるためにと、剣道から少し離れたスポーツ的な動きを稽古または準備運動の段階で取り入れるケースは少なくないでしょう。
「剣道の稽古に参加させてみたけれど、ラダーがうまくできなかった。やっぱりウチの子は運動神経が鈍いから剣道はダメみたい」
剣道には無縁の知人からそんな話を聞かされたことがあります。
こんな話もありました。
「剣道部に入ったんだけど、体力がないから、剣道具をつけられないと言われて退部してしまった」
これだけ見るとそのとおりだと思われがちですが…剣道に必要な基礎的な体の運用ができていないからということではなく、単に「あなたの身体能力が劣るから」という判断だったらどうでしょうか。
このように、剣道に剣道の動き以外のトレーニングを導入した結果、実はそのトレーニングのほうが高度だったので断念することになったという残念な事例が身の回りでいくつかありました。
■剣道にもアスリートが求められるようになってきた
アスリートってかっこいいですよね。
アスリートとは、最近ではスポーツに限らず、様々な分野でそれを極めるためにトレーニングを継続し、熟練しようとしていく人の姿を指す言葉として広く解釈されるようになり、たとえば将棋の藤井聡太名人のような方もアスリートとして捉えられます。言葉自体は、スポーツの世界でなくても使われるようになっていますし、武道でも同様です。
剣道では公式でも、トップクラスの選手を剣道トップアスリートとして紹介する動画が発信されています。
さらに剣道具でも「アスリートモデル」が流行するなど、アスリートという山の頂上付近にあった言葉がどんどん麓(ふもと)のほうに降りてきています。
価値観の古い私は、つい最近まで「剣道にアスリートという言葉はつかってほしくない」と思っていました。今も若干そのきらいがあります。
アスリートである以上は、運動能力が高いという条件が元々にはあり、剣道には必ずしも高い運動能力が必要ではないと信じてやまない私にしてみれば、剣道~武道の世界を極めようとすることと、アスリートとしての能力を高めようとすることは同義にしてほしくないと思っていたからです。
しかしながら、剣道の世界にある、様々な作法を自然とこなすことができるようにと稽古を続ける姿もまた、今の言葉にあてはめれば「アスリート」と捉えることができそうです。
ラダートレーニングができなくても、すり足による送り足が確実にできて、大きくまっすぐに竹刀を振り下ろすための稽古を積み重ねるのもまた、アスリートとして認めてもよいでしょう。
アスリートという言葉が広義になっていくのであれば、その流れは止めることはできません。アスリートがひとつの憧れの姿であるのなら、身体能力が高くなくても、小さなことをコツコツと積み重ねていこうとする姿にアスリートを重ね、伸ばしてあげるほうが現代にはよいのかもしれません。
そのためにも、剣道の本来にある作法や、剣道ならではの基本的な体の運用ができていれば過剰なスピードやパワーがいらないという事実を理解し認めながら、剣道の世界ならではのアスリートの姿を追求していくのがよいのかもしれません。
■今回のあとがき
剣道という武道と、アスリートというスポーツ的な視点が融合することによって、剣道の高みに行くためにはアスリートという言葉の本義である「高い身体能力を持つ人」という部分だけがクローズアップされてしまっている現状に寂しさを感じているというのが私の本音です。
剣道の世界にアスリートという言葉が用いられることが、可能性を狭めることのないようにしていかなくては、と私は意識しています。
そうはいうものの、アスリートという言葉のほうが解釈の幅が広まり、武道の世界にあっても通用し続けるのであれば、トップクラスの選手に限らない市井の愛好家でも伝統的な作法を追及したり、剣道ならではの動きを極めるべく、コツコツと基本を積み重ねる人もまたアスリートなのだと前向きに捉えてみようかなと思い始めているのです…ということをまとめにして、今日のところはこの辺で。
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