Stay closeというイギリスドラマから言えること:「人を悪とたらしめてしまう人は悪魔だ」
Stay closeというイギリスのサスペンスドラマを最近見た。さまざまな要素が絡まった糸のように複雑に絡み合っており、最終話まで結末が全く読めないものになっていた。
このドラマを見て泣いた私が感じたのは
「人を悪とたらしめてしまう人は悪魔だ」ということである。
性善説と性悪説
「人を悪とたらしめる」といっても、そもそも人は生まれながらにして善であるのだろうか。
人の生まれつきの善悪について性善説と性悪説という考え方がある。
性善説とは
人間にはもともと善の端緒がそなわっており、それを発展させれば徳性にまで達することができるとする説。
性悪説とは
人間の本性は悪であり、たゆみない努力・修養によって善の状態に達することができるとする説。
では性善説、性悪説のどちらが優勢なのだろうか。
それについて興味深い見解を見つけた。
辞書の解説に基づいても、人間の性が善であることが見て取れます。なぜなら、性悪説は人間の目指す先は悪ではなく究極的には善であることを肯定しているものにほかならないからです。
引用:幻冬者ゴールドライフオンライン:「性悪説それ自体が性善説の正しいことを証明している」
神からの自立【第14回】論説 岡本浩作
彼の考え方で見ると性善説が優勢であることが分かる。
人は絶対悪に直面した時に悪に落ちるか落ちないかを選択することができるか
人は絶対悪に直面したときそれに対処することを求められる。それに対して正しさを持って正しさの限り対処する人がいる一方で、目には目を歯には歯をといった具合で法を犯すようなかたちで自力救済をする人もいる。
ここで考えたいのは彼らの選択は本当に彼らの選択により選択されたものなのかどうかということである。
人の意思について決定論、非決定論という立場がある。
決定論とは
哲学で、一切の事象、特に自由と考えられている人間の意志やそれに基づく行為は、何らかの原因によってあらかじめ全面的に決定されているとする説。
非決定論とは
人間の意志は他のいかなる原因によっても決定されず、自分自身で決定するという説。
今現在でもまだ人の意思決定について、自由意志があるかないかの結論は出ていない。ある行為をするとき、その行為をしようと考える前からその行為を行うための電気信号が頭から出されているということが分かっており、決定論が正しいように思われるが、一方でその行為を行うための電気信号が出されてからその行為が行われるまでに実際にそれをするか否かを決めることができる時間があるため非決定論であるようにも考えられている。
だが、決定論また非決定論のどちらの立場をとったとしてもある人を悪に突き落とすようなきっかけを作る人というのは悪であろう。悪になってしまった人に「自由意志で決定して悪を行っただけでしょう」など、その人に起こった悪に落とされるようなその出来事が我が身に起こらなかっただけの幸運な私たちは口にすべきではない。
人を悪とたらしめた人への悪:必要悪
善悪について、刑法や哲学の文献を読み漁る中で「必要悪」という言葉を見つけた。
必要悪とは何か。
必要悪とは
よくないことではあるが、組織や社会などにとって、やむをえず必要とされること。
もし悪に落とされてしまった人が自分を悪とたらしめた人に復習するとした場合、まさにそれは必要悪なのだろう。
ただ、必要悪というのはただでさえ「悪」と名前につくように許されていいものなのかというグレーな部分がある。
必要悪の許容条件
もしあなたが誰かのせいで悪になってしまい復讐したいと考えているなら、たとえあなたの受けたものがあなたが悪にならなければならなかったほど酷いものであったとしても、
少なくともあなたの行おうとしている悪があなたにとって必要なだけではなく世間でも必要とされていなければならない。
誰かの悪魔に、無意識の悪になることなかれ
これまで、悪に落とされた側について述べてきたが私たち自身が誰かを悪にしてしまうような行為をする悪魔にならにように気をつけることも必要である。
自分にとっては何気ないことであったとしても相手にとってはそうでないこともある。例えば精神的DVは加害者に相手を傷つけているという自覚がないことが多い。
あなたの行いが相手側から咎められた時に「知りませんでした。そんなつもりはありませんでした」といったような責任逃れは姑息である。
私たちは前提として誰かを悪とたらしめるほどのことを人にすべきではなく、また少なくとも悪に分類される行為をするときは自分でその行為の責任をとるつもりがなければならないだろう。
cloudy
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