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叱ってはいけないし、褒めてもいけない(アドラー心理学14)

はじめに


アドラー心理学って聞いたことありますか?色んな自己啓発本やらなんやでも紹介されているので名前だけは知っているって人は結構多いと思います。
有名なのは「嫌われる勇気」でしょうか。真面目な日本人に多い、人間関係に悩むそこの貴方、一度読んでみるのもありかもしれません。

今回参考にしているのは、小池直己氏による『英語で楽しむアドラー心理学 その著作が語り語りかける、勇気と信念の言葉』で、その内容にいくつか補足や私見なんかを添えて紹介していきたいと思います。興味のある方はこちらの方も是非。

どちらも、専門書ではなく自己啓発本や多読本に近いので読みやすいと思います。

ざっくりアドラー心理学


まず、アドラー心理学とは、文字通り心理学者のアルフレッド・アドラーの考えをもとにした心理学で、その特徴は「目的論」を基礎としているところだそうです。他にも4つ基礎的な考えがあって、それらを合わせて5つの前提があるのですが、アドラー心理学の講義をしたい訳じゃないので、必要なときに必要なだけ説明することにします。

「人間の悩みの基は、ぜんぶ人間関係だ!」的な考えがあって、その解決や対応について多くのおすすめの考え方が存在するのが魅力ですね。

本文

叱ってはいけないし。褒めてもいけない

自分が世界の中心だと思う人

バケモンみたいな主張をする人っていますよね。SNSなんかでもそうですし、実際にもたまに見かけます。「ひょっとすると神様かなにかと話しているのかもしれない」という感覚にすら陥ります。このような自分を世界の中心であると信じて疑わないような人について、アドラーは「幼少期の甘やかし」を原因の一つとして挙げています。

まあそうでしょうねという感じではありますが。幼少期に甘やかされて、欲しいものは何でも手に入って、望みは何でも周囲が叶えてくれる環境で育った人間の成れの果てがああだということです。何故か分かりませんが、このようなタイプの人は望みどおりにならないとヒストリー的に暴れ出すイメージがあります。実際に見たことはないはずなんですけどね。

小池氏いわく、このような現象はペットの動物にも表れることがあるとのことです。猫については分かりませんが、犬は元々群れ社会で生きる動物で、かなり厳密なヒエラルキー(上下関係)を構成する生き物だから「いい子」なのは上司だと思われているから、逆にいう事を聞かないのは「部下」だと思われているからという話はよく聞きます。それに当てはめてみると、可愛がって甘やかした結果、自分に尽くす下僕かなにかだと認識されているということでしょうか。

再び人の話に戻りますが、このように甘やかされて育った人たちは、人一倍強い承認欲求を持つ傾向にあると言われています。現代社会において非常に大きなテーマとなった承認欲求は、このタイプの人たちにとっては最重要項目にさえなり得るのかもしれません。なんとちやほやしたり、褒められたりしないと憤慨し、攻撃的になることさえあると言うのです。

また中国では1979年から2014年まで一人っ子政策が実施されていました。その名前の通り夫婦間の子どもを一人に限定し、二人目以降は期間を開けたり、お金を払ったり、許可を申請したりと出生数の管理を目指した政策だったようです。結果両親や家族からの寵愛をその一身に受けた子どもは立派に成長し「小皇帝(小皇后)」という単語が日本にまで伝わるほど一般化していました。皇帝や皇后かのようのに傲慢で我ままな立ち居振る舞いに対して「まるで皇帝・皇后のようだ」と皮肉ったわけですね。もしその条件が溺愛や全肯定される幼少期だけだとしたら、決して日本人も例外ではないでしょう。

不用意に承認欲求モンスターを生まないためにも、幼少期から過度の甘やかしをせず、必要に応じて注意することや叱ることはじゅうようなのかもしれません。

一応参考文献の『英語でたのしむ「アドラー心理学」』では、「「反社会的行為は注意され、罰せられる」という認識をもつように、子供の時から厳しくしつけておくことが何よりも大切なのです。」とまでいい切っているので小池氏もかなり苦労させられてきたのかもしれませんね。

たった一つの自信と好奇心

「子どもが一つの課題に自信を持てれば、好奇心が刺激されて、他の事にも興味が持てるようになる」とはアドラーの言だそうです。

その第一歩となる一つ目の自信を付けさせることは、恐らく外部の人間である我々の役目です。特に家族、教師なんかはその役目となることが多いのではないでしょうか。逆に言えばそのような人々の失敗はその子の人生に大きな影を落とし得るというようにも捉えられます。

他人と比較するのではなく、ほんのわずかでも優れている部分や興味のありそうなことを見つけて、それに気づかせることが大切だといいます。『英語でたのしむ「アドラー心理学」』では著者の小池氏のエピソードが添えられています。詳細は実際に読んでもらうことを期待して伏せますが、IQ85の劣等生がたった一つの出来事から大学教授になるに至ったきっかけのお話です。(あくまできかっけなので中学生までのエピソード。大学教授のなり方なんかは書いてません)

叱られて、褒められて育った人は

叱ったり褒めたり、飴と鞭のようなスタイルの教育を賞罰教育と呼びますが、アドラー心理学ではこの賞罰教育を否定しています。

それは、全ての行動原理が承認欲求にすり替わってしまうという懸念によるものです。つまり「叱られなければ何をしても良い」「褒められない、承認されないなら何をしても意味がない」というような極端な行動思想に陥ってしまうのではないかということです。

このように他者に注目されることが行動原理となってしまった人は、承認欲求とそれに伴う自己中心性を遺憾なく発揮するモンスターとなり得るでしょう。アドラーはこのような現象に注意しつつ、その上で自身が承認欲求を満たすために生きているのではないということを自己認識することの重要性を説いているそうです。

確かに承認されるためだけに生きていると聞くと、自分で生きているように見えて、自己の存在理由までもをひどく他者に依存した、ある種の軽薄さを感じるような気もします。

子どもの興味は遊びが教えてくれる

アドラーは子どもの興味の対象は「彼らの行動を見れば分かる」としています。もっと言えば「遊び」の中に子ども興味の対象を見出すことができるとの弁です。

一括りに「遊び」と言っても、子どもの発達段階や性別、周囲の環境によってその内容は多岐にわたります。また社会的な行動様式や社会のルールなどの一部はこのような発達段階における遊びによって学習されるものもあるとされているため、遊ぶ子どもを見る際には心配と同時に関心なんかもあるといいのかもしれません。

余談

ときに、本文の中で「叱る」という単語と「反社会的」という単語を用いました。これは参考文献にあった表現をそのまま使ったものですが、この単語について別の記事で少し話してみたいと思います。

それは「叱る」と「怒る」「反社会的」と「非社会的」についてです。

どちらも教育学の中では区別される表現です。一方で教育者や子を持つ親の立場であってもこの両者の違いを認識していないという人は多いと思います。もし気になった方はぜひ覗いてみてください。

まとめ

さて、かなり尖ったタイトルの割には結局どうすればよいのかを述べないよくない構成でお送りいたしました今回ですが、個人的な見解としては、ただシステマチックに良い事→褒める、悪い事→叱るのように対応することが、行動の価値を決め打ちしてしまい種々の問題を引き起こすのではと感じています。教え込むだけでは主体性を欠いた存在になりかねませんし、かといって全て自分で考えさせようとノータッチではただの放置です。すると、親や教育者に求められる育児スキル相当高そうですね。育てる側も主体的に学び続ける姿勢は必須ということでしょうか。

・羨望は活かして嫉妬はしない
・過度の叱りも褒めも逆効果

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