アルコール依存症専門病棟②/否認の病という悲しさ。

 アルコール依存症は否認の病と言われている。厚生労働省のe-ヘルスネットには、”自分が依存症になっていると認めないこと”だと記載がある。
・飲酒の問題を全く認めない。
・問題を実際よりも軽く考える。
・飲酒をコントロールできないことを他の原因に求める。
・最初から諦めて結果的に飲み続ける。
なども含まれるとのこと。否認は自分が深刻な状況にあるということから身を守るための心理的な防衛機制の一種であるとも記載されている。


 アルコール依存症治療専門病棟にて、新規に入院してくる患者を受け入れる際、最後にお酒を飲んだのはいつかと聞くとかなり高い確率で嘘をつく。夫婦で来院し、夫である患者本人が「昨日の夜ビールを2本くらい飲みました。」と言う。そして妻が夫がトイレに離れたタイミングで「嘘です。今朝飲んでいるのを見ました。」と小声で報告してくる。自分にはそれがなぜだか分からなかった。たった半日の嘘をつくことに何の意味があるのか。別に何かペナルティがあるわけではないのに。外泊して戻ってきた患者に対してアルコールチェッカーをお願いする。チェッカー開始の音が鳴ったらストローに息を吹きかけるように指示する。たった5秒息を吹くだけなのに息切れして吹けない、逆に吸おうとする、ストローを咥えた広角から息を逃がそうとする、といった行為をし、当然エラーが出て飲酒が分かる。絶対にバレるのになぜそんな誤魔化しを試みるんだろうか。
 東野圭吾の”新参者”で「嘘には3つある。他人を欺く嘘。自分を守る嘘。他人を守る嘘。」と。刑務官として刑務所の看守をしていた頃、受刑者のつく嘘はいつも人を欺く嘘だった。自分の利益のために、他人を陥れるために看守を籠絡しようとしたり同室者との人間関係を拗らせてトラブルとなり事件化する。本当にどうしようもない人間は存在すると思った。
 アルコール依存症の人間も自分は自業自得な人種であると思っていた。好きで飲んでいるアルコールで身体を壊すどうしようもない”アル中”であると。だけど、カルテを見たり話を聞いたりしているうちにその考えは変わった。アルコール依存症病棟に入院してくる患者は社会的地位が元々高かった人たちが多くいる。医者、弁護士、大学の教授など。また、家族を大黒柱として長年養ってきた人たちもいる。自分は看護学校での勉強は苦痛だったし、成人する前の学生期間も素行は良くなかった。いつかは家庭を持ちたいと思っていてもいまだに独り身で、自分のために生きている。どれだけ勉強したんだろう、自分以外の人間のために生きてきたんだろう、と考えるとそれまでのその人の人生に敬意を持つ。だからこそ、そんな人たちの人生を壊したアルコールという存在にやりきれない、形容できない感情が湧く。そもそもアルコールを飲むこと自体犯罪ではない。酒を飲む、と普通に言って良いはずだ。なのにそれを否認するため、自分を守るための嘘をつく。アルコールに嘘をつかせる成分や作用はない。嘘をつくのはアルコールを飲むことにその人が罪悪感、後ろめたさを持っているからなのだろう。罪悪感や後ろめたさを持っているということは、そこに至るまでの悲しいエピソードをそれぞれが持っているからである。せめてもっと早いうちに、アルコールの危険性を教育するような制度、機会があったなら。知らない人間が悪いのか。自分もお酒が好きである。若い時の楽しい思い出と共にその時飲んだお酒を思い出すことができる。白か黒、善悪で判断したくない。だけどもう少し何とかならないのか、という思いを込めてこれからも問題提起していきたい。(続く)


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