セルフコンパッションを実戦。心の中の中を探ってみると、よくあることでも「初めて」が見つかりました。
先日の出来事です。
洗い物をしていたら、ふと手が滑って、ティーポットを落としてしまいました。
ガッシャーン!
「ぎゃ!」
という私の声とガラスの割れる音で、旦那さんは「何事?!」と部屋から飛び出してきました。
床やテーブルには、粉々になったガラスが飛び散り、落としたティーポットは薄いガラスで出来ていたため、原形をとどめてませんでした。
「ごめんなさい…」
という私に対して、
「大丈夫だよ。怪我がなくてよかった。」
と言ってくれる彼。
掃除も手伝ってくれました。
ちょっとしたアクシデントでした。
こんなこと、誰でも一回は経験したことがあると思います。
しかし、意外と物を割ってしまったダメージは大きく、私はかなり落ち込んでしまいました。急に心が不安定になってしまいました。
こんな時の対処法。失敗。
物を割ってしまっただけなのですが、親からひどく怒られて、「ごめんなさい」を連発している気分でした。
あ〜、やってもうた。
何してんねんやろ〜自分。
ホンマに不注意。
誰に謝ってるかわからんけど、ホンマにごめん。
そんな言葉が頭の中をぐるぐる周り、何故か動悸が激しくなり、ショックで落ち込みました。
「こんな時はどうするんやっけ…」
私は気持ちが不安定になった時、カウンセリングで教えてもらったことをなるべく思い出すようにします。
頭に浮かんだのは、セルフコンパッションでした。(自分で自分を励まして、自分に愛情を持って優しく接する方法です。)
私はいつもセルフコンパッションを練習する時、母からの励ましの言葉を思い出します。
「大丈夫」
「よくやった」
「もう泣かんでええ」
母を思い出すと、そんな言葉がすーっと頭に浮かんできて、自分を責めるのを止めることができます。
「よし、いつも通り母を思い浮かべよう」と思いました。
頭に浮かんだのは、
「何してんねん!もう!」
「ガラス危ないからあっち行っとき!」
「どんだけ仕事増やすねん!」
「YouTube なんか観ながらしてるからアカンねん!」
「手元に集中!何回言ったらわかるのん?!」
カンカンに怒っている母の姿…
めっちゃ逆効果でした。笑
思い出してしまったのは、自分が子供の頃。子どもの頃に物を壊してしまい、親からはちゃんと叱られた記憶が蘇りました。笑
すでに自分で「やってしまった…」と落ち込んでいるところに、追い討ちをかけるように「何してんねん!」とまた責める言葉をかけることになりました。
あかんあかん。
切り替えよう。
そう思い、他にカウンセリングで学んだことを探しました。
バタフライハグ。
グラウンディング。
瞑想。
この辺りが出てきたので、とりあえず目を瞑り、自分で自分をハグして、深呼吸しました。バタフライハグとは、胸の前で腕をクロスして、自分の肩をトントントン、と自分を優しく叩いきながらハグすることです。何回やっても不思議ですが、スーッと落ちつきます。
バタフライハグ、めっちゃ効果的。
ここでふと、考えました。
「お母さんからの励ましの言葉がなかったら、セルフコンパッションはできないのかな?」
セルフコンパッションをもう一度やってみる。
落ち着いて、自分で励ましの言葉をかけてみようと思いました。
バタフライハグとセルフコンパッションの合わせ技!
(どや!笑)
目を瞑り、肩をトントンしながら、頭の中ではこんなことを考えました。
ステップ1 、マインドフルネス。
自分の状態を観察しました。
心がざわざわする、動悸を感じる。
浮かんでくる言葉は、自分を責める言葉、失望の言葉ばかり。
物を壊してしまいショックを受けた自分は、まるで子どものようでした。
良い、悪いなどは判断せずに、観察だけをすることは、簡単そうで難しかったです。
ステップ2 、共通性。
「誰でもあるよ、こんなこと。」と感じること。
今回の状況は、共通性でふっと心が軽くなりました。
「物を壊してしまうことは、誰にでもある。」
自分が精一杯になってしまうと、こんな単純なことさえ考えれずにいました。「誰にでもある」は、母からの言葉以外で、自分への励ましの言葉の第一歩になりました。
ステップ3、励ましの言葉をかける。
怒ってる母がちらちら頭の中に出てきましたが、それは雲が流れるように横に流して(笑)自分の言葉を頭に持っていきました。
「誰にでもあることだから、大丈夫」
「怪我がなかったから、よかった」(…旦那さんからの言葉、パクった。笑)
「…ティーポットにごめんなさい。」
「そしてありがとう。」
「物に感謝できた。」
「次は気をつけよう。」
「あぁ…今日はあかん日やわ。」
「大人になって、物壊して、こんな落ち込むなんて。みっともない〜。」
「マジで不器用すぎるやろ〜。」
「自分が嫌になる。」
「YouTube観ながらしてるからあかんかってん。」
「「手元に集中!何回言ったらわかるのん?!」ってお母さんからも言われたよな〜」
「あかんあかん、励ましてたつもりがまた責めてる…」
励ましモード→反省モード→自分責めモード→母登場→励ましモードに修正…を何度か繰り返しました。
するとこんな変化が。
「えっと…大丈夫大丈夫。誰も死んでないし。」
「誰にでもあることやし。」
「もう一回ティーポットにありがとうとごめんねを言っておこう。」
「そんな思い入れのあるティーポットでもなかったはずやのに、なんかめっちゃショックや…」
(なんでやろ…)
「…ティーポット壊したことよりも、あの「ガッシャーン!」が恐かったんかな?」
「あんなにそこらじゅうに飛び散ったガラス、初めて見たもんな〜」
「ティーポットの原型なかったもんな〜」
「軽い安物のガラスは実家にはあまりなかったかも。」
「そりゃショックやわ、初めて見てんやもん。」
「ビックリしたよな〜。」
「大丈夫大丈夫、怪我してないし、もう恐くない。」
自分でも気付かなかった、心が感じたことへの発見がありました。
側から見ると、子どもの頃に誰もが経験したことがあることでも、自分の中では「初めて」がありました。
そこに気付けたことで、素直に「ビックリしたよな〜、もう大丈夫やで〜」と自分を励ますことができました。
こうやって少し時間をかけて、自分の心が感じていることに耳を傾けるのは、やっぱり大切な時間だなぁと感じました。
ようやく、目を開け、深呼吸。
「よし、お昼ご飯作ろ。」
気がつくと、動悸はなくなり、心のざわざわ感もなくなり、落ち着いた自分に戻っていました。自分の心が感じた事を知れて、スッキリしていました。
まとめ。セルフコンパッションについて考えたこと。
「例え不遇な環境で育ったとしても、セルフコンパッションを持つことができるのか?」
これは私のセルフコンパッションに対する疑問でした。それが今回の一件で、なんとなく明確になった気がします。
一つ言えることは、愛を全く与えられずに育った人はこの世に居ないということ。
親や家族でなくても、周りの友人や先生からの愛があったりしたはずです。
100歩譲ってそれがなかったとしても、自分から自分への愛は、湧水のようにあると私は信じています。
朝、起きること。
ご飯を食べること。
歯を磨くこと。
顔を洗うこと。
意識してなくても、全て自分への愛があるから行える行動だと思います。
様々な理由で、不遇な環境で育ったとしても、
誰もコンパッションを教えてくれなかったとしても、
人はセルフコンパッションを持つことができる。
自分を愛することができる。
そして、周りにコンパッションを与えることができる。
周りに愛を与えることができる。
私はそう信じたいです。
むしろ不遇な環境で育ったからこそ、人一倍、人の苦労を理解して、人の気持ちに寄り添える人のではないかと思います。私はそんな強くて優しい人に憧れます。
セルフコンパッションを活用する人が、1人でも増えたら嬉しいです。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
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