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「人を判断しない」ことが、あなたのアイデンティティの確立に繋がるかもしれない。

こんにちは😊
今回はアイデンティティのお話しです。

「アイデンティティ」と聞くと、何を思い浮かべますか?

「アイデンティティってなに?」
「パーソナリティみたいなもの?」
「ハーフの人とかが悩むもの?」

「自分には関係ない」と思った方、
実はアイデンティティは全ての人に関係あります。
(と私は思います。笑)

私は大阪生まれ、大阪育ち、日本人ですが、
自分のアイデンティティにとても悩みました。

自分は果たして何者なのか。
外交的か内向的かもわからない。
自分が良い人なのか悪い人なのかもわからない。

そんな時期が少なくとも5年ほどありました。
(今はだいぶ落ち着いてます。)

アイデンティティについて、
私が知っていること、調べたこと、経験したことなどをシェアして、少しでも誰かの役に立てると嬉しいです😊

「アイデンティティについて書こう」と思った
きっかけ

人種に関わらず、海外で生活している人を見ると、
「幸せそうだなぁ」などと感じたことはないでしょうか?

私はよく感じていました。笑
海外の人には許されて、私には許されない「幸せ」があるんだなぁ…などと考えていました。

私は結婚を通して、去年からカナダで生活をしていますが、そこで気づいたことが一つあります。
それは、カナダではアイデンティティに悩む人が多いこと。そして、ちゃんと悩んだ結果、アイデンティティが確立されている人が多いことです。

カナダは移民の国です。
ご両親が違うルーツを持っている人も多く、
「自分は何人なのか?」という疑問を持ちやすいです。

私の旦那さんは、フィリピンで生まれましたが、育ちはカナダです。その上、日本で2年過ごした経験があります。彼も、「自分はフィリピン人なのか?カナダ人なのか?」と悩んだ時期があったそうです。

日本では、あまり自分のアイデンティティについて悩む機会が少ないかもしれないと思いました。
ご両親が日本人だと、日本人というアイデンティティが既にあります。自分について深く考える機会や時間が
少ないまま、私のように社会に出てしまうことも多いのではないかなぁ…と感じました。

アイデンティティについて悩んだ結果、「自分は自分」という強さが生まれます。自分のアイデンティティがある程度確立している人が増えれば、幸せになる人が増えるかも?と考えました。

日本の自殺率を下げるきっかけになるかもしれないと
感じて、アイデンティティについて書こうと決めました。


アイデンティティとは?

私自身、心理学者でもなんでもないので、(すみません🙇‍♀️)定義はネットで調べました。

「アイデンティティ」という言葉は、
発達心理学者のエリクソンという方が、最初に唱えた
ものだそうです。(エリクソンの定義は言葉が難しかったので、ここでは割愛します。笑)

分かりやすかった、「アイデンティティ」の定義を
引用します。

心理学辞典(1999)の定義
「自分は何者か」「自分の目指す道な何か」「自分の人生の目的は何か」「自分の存在意義は何か」など、
自己を社会のなかに位置づける問いかけに対して、
肯定的かつ確信的に回答できること

アイデンティティというと、
その社会の中での「自分探し」や「自分を深く知る」
という言葉が私の中ではしっくりきます。

環境の変化があっても、
付き合う人やお友達が変わっても、
とても辛いことがあっても、
成長しても、
「自分」であり続けられること。
どの自分も全て「自分」として受け入れられること。

アイデンティティを確立させるためには、
どんな環境にいても「自分」を深く知る努力をすることが必要だと感じます。


アイデンティティ•クライシス

心理学辞典(1999)によると、アイデンティティ拡散(クライシス)は以下のように定義されています。

自己探求を続ける青年が、多くは一過性的に経験する自己喪失の状態を指す。

※定義では「青年」とありますが、
このウェブサイトには、アイデンティティ•クライシス(自己喪失)は、何度も繰り返し起こると記されています。
つまり、若い時だけではなく、大人になっても自己喪失は起こります。

自己喪失を何度も繰り返し、何度も乗り越えることで、自分のアイデンティティが確立されていくと記されています。


アイデンティティ•クライシス(自己喪失)は、
誰でも経験することだと感じています。

きっかけは人それぞれ。
環境が変わったり、
辛いことがあったり、
ふと「自分って何者なんだろう?」と疑問に思ったり。


私はあることがきっかけで、自分を完全に見失いました。(私の場合は、自己喪失プラス、トラウマでした。)その当時、私にとって「自分」であることは至難の業でした。

自分がカメレオンにでもなった気分で、
相手が赤なら私も赤になる。(なってしまう。)
相手が黄色なら私も黄色になる。(なってしまう。)

相手の望むことが分かると、
自分のことは度外視で、相手の要望に答える。
(答えてしまう。)
飲み会などで自分の意思が持てず、
家に帰れなかったことも何度かありました。笑

周りに誰もいなかったら自分が消えてしまうから、
不安で仕方がない。依存してしまう。

そんな現象が起き、そんな時期が続きました。
(私の場合は「生きていけない」と思い、その後カナダへ逃亡しました。笑)


周りからの「私」vs自分で思う「私」

私は物心ついた時から、自分で思う「私自身」と、
周りからイメージされる「私」の違いに悩まされてきました。

小学生だったころ、クラスメイトから「優しいよね。」と言われたことがあります。私は特別その人に対して優しくしているつもりはなく、自分が優しいかどうかは分かりませんでした。

沢山の人から「〇〇ちゃん(私)は優しい」と言われ、
そのうちに、そう言ってくる人に対しては、
「優しく見られてるから、優しくしないと」という意識に変わりました。

大学生になってから、ある人に「中学時代はバスケ部だった。」と伝えると、「信じられない。走ることすらできなさそう。」と言われたこともありました。

徒競走が大好きで、小学校ではよく運動会で一番を取っていましたが、その事実をその人に伝えることは出来ませんでした。

音楽はヒップホップやR&B、日本のアーティストの方だと、YUI(flower flower )や椎名林檎さんが好きです。

しかし、それを周りに話すと、ある人からは
「〇〇ちゃん(私)はそんな歌聴いたらアカンやん〜!笑
YUIはいいけど、他はダメ!笑
だって〇〇ちゃん(私)のイメージが崩れる!」
と言われたことがあります。

「大人しい。」「癒し系。」
「か弱くて、世間知らず。」
「自分の意見とか持っちゃダメだよ。」
男性からも女性からも、そんな言葉をかけられることがたくさんありました。

何も言わなくていい。
とりあえずニコニコして、そこにいてくれれば良い。
社会人になると、そんなシチュエーションが増えました。

ある人からは、「望まれてるキャラを演じるのも大切なこと」と言われました。それから、見た目やイメージで判断されれば、望まれるままのキャラを演じてみたこともありました。

もちろんですが、自分がまだ何者なのかもわからず、
自分がどこに存在しているか分からないのに、
望まれるキャラを演じることにより、更に自分は何者かがわからなくなり、更なるアイデンティティ•クライシスを生むことになりました。笑


カナダで知った「人を判断しない」という意味

周りが言う「私」「私のイメージ」だけが一人歩きし、
自分が思う「私」はどんどん消えていきました。
完全に「自分」というものが分からなくなりました。

そして先程書いた通り、仕事も全て辞めて、
カナダへ逃亡しました。

そのカナダで、たくさん大切なことを学びました。
その中の1つに、”We don’t judge people.”
というものがあります。

直訳すると、「私たちは人を判断しない。」

最初にこの言葉を聞いた時、意味がわかりませんでした。日本語に直訳すると、”judge” = 「判断する」が、どうもしっくり来ませんでした。

しかし、カナダで生活をしているうちに何となく、
”judge”の感覚が掴めてきました。

「見た目で判断しない」という感覚が一つです。
色んな人種が住んでいるこの土地では、見た目で判断したり、予測を立てたりすると、色々間違うことがあるそうです。

見た目ではなく、その人と話をして、その人の中身を知る。それを受け入れる。その感覚が当時の私にとっては新鮮でした。

二つ目は、「assumptionをなるべく持たない」
という感覚です。
”assumption”とは「(証拠もなく)事実だと考えること、決めてかかること」です。

人を色眼鏡で見ない感覚です。
見た目や服装、メイク、話し方、仕草などの外側に
左右されずに、話している内容からその人を知る。
それをそのまま受け入れる。

私にとって、当時のカナダでの生活は、
「とても息がしやすい」感覚でした。
「自分が自分であっていい。」
「自分が自分であることを、誰も邪魔しない。」

そんな環境を持てたからこそ、私はアイデンティティ•クライシス(自己喪失)から少しずつ回復できた気がします。


自分がよく知っている社会は窮屈になる?

「カナダには、人を判断しない人しかいないの?」
というと、そういう訳ではありません。

カナダでも、人を判断する人はたくさんいますし、
偏見や差別もあります。

先日、この記事を書くにあたって、私の旦那さんと
アイデンティティについて話をしました。
(先程は書いた通り、私の旦那さんはフィリピン系カナダ人で、日本で2年ほど過ごした経験があります。)

彼は、「日本での生活を通して、やっと自由になれた気がした。やっと自分を見つけることが出来た気がした。日本は息がしやすかった。」と言い、私はビックリしました。

私は「あんなに窮屈な社会なのに?!」と思いましたが、彼にとっては、彼が育ったカナダこそが「窮屈な社会」だったのです。

つまり、自分の国の社会は窮屈に感じる。
他の国の社会は自由に感じる。

なぜこうなるのか…?を2人で色々考えました。

他にも色々要素はあると思いますが、私たちが考えた結果はこうです。

自分が生活している社会を深く知る。

知れば知るほど、周りの人が考えることや思うことが
手に取るように分かるようになる。
(これが思い込みや、人を判断することにつながる。)

その要望を感じれば感じるほど、
人はそれに合わせそうとする。

その結果、窮屈に感じる。
自分を見失いやすい環境ができる。

自分の育った社会は、その社会をよく理解しているが故に、窮屈になるのかも知れないと思いました。


大切なのは「人を判断しない」というマインド

「じゃあ、アイデンティティ•クライシス(自己喪失)になったら、海外に行ったり、環境を変えて、自分探しをすればいいの?」
という質問が聞こえそうですが、それはあまり良い考えではなさそうです…

ご自身の年齢などにもよりますが、海外の文化や習慣などの影響を受けて、余計迷子になるケースがあるそうです。特に、海外に長くいればいるほど、「自分は何人なのか?」という別のアイデンティティ•クライシスを呼び込む可能性もあります。

私の場合は、日本人としてのアイデンティティは確立されていた気がします。その上で、日本の社会に幻滅してしまい、自己喪失を起こしてしまいました。

カナダに渡ったのは24歳の時。
(19歳で一度カナダに渡りましたが、その時は自己喪失は起こしていませんでした。もしくは、その自覚がなかったです。)

私のパターンは珍しいものだったのかもしれません…笑


環境を変えるのも一つの手かもしれませんが、
一番大切なことは、どんな環境にいても、
自分自身を含めて「人を判断しない」ということです

自分も相手も「人を判断しない、決めつけない」というマインドを持つことによって、相手も自分も窮屈さが減り、どんな社会にいても自由度が増すのでないかなぁと感じます。

決めつけないマインドを持つ。
それにより、自分が自分であることを表現しやすくなる。強さも、弱さも、全て含めて、ありのままの自分自身を受け入れやすくなる気がします。


実際、私は帰国後、日本でも「息がしやすい」環境、
「自分が自分でいれる」環境を作ることができました。

相手も私も、ジャッジをしないこと。
それを心がけながら、日本で5年ほど過ごしました。
気がつけば私の周りには、本当に尊敬する、
本当に素晴らしい方がたくさんいました。
(結婚後、日本を離れるのが本当に辛かったです😭)

私を私として受け入れてくれる人がたくさんいて、
私の見た目や服装、イメージなどで、
「○○(私)はこういう人。」と判断する方はいなかったです。(今もいません。)

昔からの友達も、私への見方を常にアップデートしてくれている感覚があり、本当に感謝です。

日本でも「息がしやすい」環境が作れたことは、
私にとって本当に恵まれたことで、
周りの方に感謝しなければといつも感じています😊


アイデンティティ•クライシスから抜け出すには?

他にもいろいろ、アイデンティティクライシスから
抜け出す方法が書かれていましたので、紹介します。

ここでは、メンタライゼーションというものが紹介されています。

メンタライゼーションとは
「行動の背景にある価値観や考えの洞察」でしたね。

(中略)

具体的には
①状況の確認
②自分の考えをメンタライゼーション
③相手の考えをメンタライゼーション
④自分と相手の考えのバランスをとる
という4つのステップを踏むことになります。

メンタライゼーションは、私がよくしている手法と
似ている気がしました。

私は本当に迷子だった2014年ごろに、ちょっと高級な
ノートを買いました。それに「大切なことノート」名付け、大切だと思ったことや自分の気持ちなどを書きました。(現在も続けており、今2冊目です😊)

モヤモヤしたら、そのノートを開けて、そのモヤモヤを書き出します。なぜモヤモヤしているのかを考えます。

ネガティブな感情の時、ポジティブな感情の時、
その他の感情の時も、出来るだけノートに書き、
なぜその感情なのかも書きました。

行動も一緒です。
過去の私自身の行動について、たくさん振り返りました。
なぜこんなことをしてしまったのか?
なぜこの行動をとったのか?
ポジティブな行動もネガティブな行動も、
それに伴う感情も、全て素直に書き出しました。

自分の行動と感情に、「なぜ?」を付け足す。

すると、自分の行動や感情を客観的に見ることができます。そして、登場人物の行動や感情も客観的に見れる。

当時の自分の思い込みなどが見えてきて、大きな発見となります。

例えば、小学生だったころ、クラスメイトから「優しいよね。」と言われたエピソード。
そのクラスメイトが私に「優しいね」と言った理由は、
私が物事を断ることが出来なかったからだけで、
小学生の語彙力で「優しい」と表現されたのだと気づくことが出来ました。

「運動が出来なさそう。」と言われたことも、
そう言った人は私の見た目で判断しただけで、
私の中身を否定したかった訳ではなかったのかもしれません。

自分と相手の行動、気持ち、そしてなぜ?をノートに書き出すことを通して、そんなことに気付くことができました。


「どんな私も、全部私」と受け入れる力を身につける

アイデンティティについて考える時、
なぜか旦那さんからもらったセーターを思い出します。笑

カナダから送られてきたセーター。
日本で着ると「分厚いな〜、ごついな〜」と感じるのですが、カナダで着ると「ちょうどいい」と感じます。

もちろん、セーターが薄くなったり、分厚くなったり
したわけではありません。笑

セーターはそのままです。違いは気候で、環境です。
アイデンティティは、そのセーターのようなもので、
環境(社会や周りの人)によって、感じ方が変わります。

「分厚い」と感じたセーターも、「ちょうどいい」と感じたセーターも、全て同じセーター。どちらも受け入れる。
それと同じで、自分のアイデンティティを考えるということは「どんな自分も全て自分なんだ」と受け入れる力を身につけることに繋がると感じます。

社会があっての自分で、周りの人が居ての自分ですが、
自分自身を見失った時は、一度立ち止まって考えてみることが必要だと思います。

私は、内向的な私も外交的な私も、全て私だと受け入れるまでに時間がかかりました。

人や社会に良いことができた日も、誰かから喜びをもらった日も、誰かを傷つけてしまった日も、誰かに傷つけられた日も、全て私が経験したことで、全て私なんだと感じるまでに、時間がかかりました。

これといった個性もなく、どこにでもいる日本人ですが、「それでも自分は自分」と思えるようになるまで、
自分について考える時間が必要でした。

そうやって、時には立ち止まって考えることで、
自分のアイデンティティを確立していくことができる気がします。

(参考にしたウェブサイトはこちらです。↓)

まとめ

今回はアイデンティティについて書いてみました。

過去、現在、未来。
ずっと変わらず、私を愛してくれる人がいる。
それは他の誰でもなく、自分自身。

私のアイデンティティは、どんな状況でも自分を愛すると決めた時、その愛し方を学んだ時、やっと確立されたと感じました。

もしそれが少し難しければ、
「今この難しい時代を生き抜いている」ということを
あなたのアイデンティティにしてみてください。

この世界で、日々を生きているだけで、
自分を誇れるようにしてあげてください。

いい意味で、アイデンティティに悩む人が増えて、
自分の人生を謳歌できる人が増えると嬉しいです。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました😊

To be yourself in a world that is constantly trying to make you something else is the greatest accomplishment. 
- Ralph Waldo Emerson


絶えずあなたを何者かに変えようとする世界の中で、
自分自身でいること。
それがもっとも素晴らしい偉業である。
-ラルフ ワルド エマーソン





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