「金閣寺」を読み、混乱する。
自分の生きている限り付いてまわり、
切り離すことのできない性質がある。
それを呪い、疎ましく思い
取返しのつかない引け目だと考えて
苦しみながら抱えているうちに、
その特質を持つ自分こそが
世界から切り離された、特別な存在だと
考えるようになる。
その性質こそが自分だと
自分には特別な役が与えられているのだと
それが唯一の存在証明だとでもいうように。
アイデンティティーといっても、
これは他人に認められていい物じゃない。
認められたら、私は自分を寛容する他人・この世界を認めなくてはいけなくなるから。
結果的に大事に抱えながら生きている訳だが、解放されたいという願いも常にある。
もしくは囚われたままでもいいから世界と和解したい、他人と同じように
「生きる」という事に踏み出したい…。
それを阻むのは他でもない自分。
自分の中で肥大化した理想。
欠点にとらわれる人間は、頭の中の
「完璧」に呑み込まれて動けない。
「生きる」ことへの隔たりを感じる。
この本を読んで、
自分の中のある部分が共鳴した。
難しい内容で、すべてを理解する事は
今の自分にはできないけれど、
理解する必要なんてないのかもしれないけれど…
三島由紀夫の小説「金閣寺」には、
吃音の主人公が登場する。
金閣寺の僧であった主人公が
金閣に放火し焼失させた、その動機に
彼の吃音とそれに伴う暗い思想が
影響している事が示唆される。
彼の人生は、吃音と寺の住職の息子であるという境遇によって
一般的な人々の生の営みから隔てられる。
少なくとも彼は、「隔てられた」と感じている。
孤独は、「美」への異常なあこがれ、
執着を作り出す精神的土壌を育んだ。
彼は、幼い頃から父親に
「美の象徴」としての金閣寺について
幾度も聞かされていた。
「金閣ほど美しいものは地上にない」と。
金閣寺は彼にとって究極の理想であり、
醜い特質を持つ自分には届かない
「美」という存在だった。
主人公の中の「美」は絶対的な完璧さで
屹立している。
彼の脳内に在り、
そして現実世界でも戦禍に焼かれず
存在し続ける金閣。
戦争で焼けなかったことで
永遠の美が約束されてしまった。
主人公とは絶対に相容れない存在となってしまった。
物語が進むにつれ
純粋な「美」へのあこがれは、
少しずつ形を変えていく。
戦争によって、友人の死によって、
苦い恥の体験によって。
私にとって印象的であり、
作中でも重要な事件として扱われている出来事がある。
主人公が現実世界に踏み出す一歩を、
「金閣」が絶対的な存在感で阻んだという体験。
有り体に言うと、
世の「普通の」若者たちのように
女性とねんごろになることができなかったという話。
友人にお膳立てしてもらい相手の女性もまんざらでもない様子だったのに、
自分の中の絶対的理想に邪魔されて、
現実の「そこそこ」な下宿屋の娘に
手が出せず軽蔑されたという話。
(私の読解力ではそれ以上の解釈ができなかった汗)
怖いくらい真剣で、悲しくも感じられる描写なんだけど
その場面や主人公の脳内をイメージするとちょっと面白くなってしまったり。
女性と致そうという瞬間に、圧倒的な
金閣のイメージが現れるって…
いや、やっぱり怖ろしいか。
この小説を読んでいると
難しいと感じる表現や描写なのに
やすやすとイメージが浮かんでくる。
感覚がリアルに文章へ興されている。
だけど理知的なその文章で
緻密に組み立てられた、感情の論理?のようなものを、
一、ニ度読んだだけでは
私にはとうてい理解しきれなかった。
よく分からないところが多かった。
小説に登場する二人の友人
鶴川と柏木は、天使と悪魔のように
真逆のアプローチをしてくる人間なのだけど、
主人公を「人生」に向かわせようとしてくれる点では同じだった。
けれど文中に、
「死刑囚が日頃ゆく道筋の電柱や踏切にも、たえず刑架の幻をえがいて、その幻に親しむ」ように、主人公は運命のように暗い結末へ進んでいく。
主人公は金閣寺を焼くという行動によって自分、そして人々の認識を変えようとした。それが破滅に繋がる行為だとしても。
小説はここで終わるのだけど、
主人公の「生きる」意思はここから始まったような気がする。
現実で金閣寺に放火した学僧は、
「金閣を燃やして心中しようと思った」と供述、心中に失敗して捕まったそうだけど。
三島由紀夫の描く主人公は、自分の近づけない永遠の理想を焼くことで「現実」に舞い降りたように感じる。
恥ずかしい文章になっていると思うけど、自分にとってハードルの高い小説に挑んだ記念。
読んでくれてありがとうございます。
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