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NETFLIXアニメ『サイバーパンク エッジランナーズ』への違和感の正体

出典:サイバーパンク エッジランナーズ公式サイト(https://www.cyberpunk.net/ja/edgerunners


 予告編が公開された時から気になっていたNETFLIXオリジナルアニメ「サイバーパンク エッジランナーズ」を鑑賞した。テンポのいい展開とよく動くアニメーションで見るものを飽きさせない作品ではあるのだが、鑑賞後に嫌な後味が残った。その正体について考察してみた。

世界的ゲーム会社と日本アニメがタッグ



 PCゲームソフト「ウィッチャーシリーズ」で有名なCD Projekt REDが制作したオープンワールドRPG「サイバーパンク2077」を原作とした日本風アニメーション。それがサイバーパンク エッジランナーズだ。日本のアニメ会社が制作し、演出や描写はまさに日本アニメだが、次々と起こる出来事に追われるように対処していく展開は海外ドラマ的だ。サイバーパンクというタイトル通り、ブレードランナー攻殻機動隊に多大なる影響を受けた退廃的なサイバーパンクの世界観で、アンダーグラウンドな主人公たちの生き様が描かれる。

 9月13日からネットフリックスで全10話が公開され、海外では好評を博しているらしいが、個人的には生理的に受け付けないものを感じた。その理由を以下に解説しようと思う。ネタバレおよび批判的な意見が多数でてくるので、読みたくない人は注意してほしい。


犯罪者の世界へ転がり落ちる主人公



 主人公のデイビッドは、母の死をきっかけに軍用サイバーウェアを自らの体にインストールし、非合法な「サイバーパンク」としての道を歩みだす。母の死からわずか1日ほどで、危険な軍用品を装着する手術をして嫌がらせをしてくる金持ちの同級生に復讐し、前から気になっていたヒロインと知り合って心を許して彼女の家へ。情緒もへったくれもないスピード感と節操のなさにハリウッド映画っぽさを感じるが、そこはあまり問題ではない。

 ここからデイビッドは犯罪者の世界に転がり落ちるようにドツボにはまっていき、最後はお定まりの復讐と自己犠牲で燃え尽きる。わざと悪しざまに書いていると思われるかもしれないが、本当に書いたとおりだ。作品の序盤で、母親のためになじめない学校へ通っていたデイビッドのことをヒロインが「人の夢のために生きている」と指摘するシーンがある。驚くことにデイビッドはそこから1ミリも成長することなく、最終話で人生を終える。

 人の夢のためだとしても、葛藤を経て決断し、能動的に選んだ道ならいいだろう。視聴者もデイビッドにそうした成長を期待したはずだ。ところが、銃を取り人を殺そうとしたときも、体の改造を繰り返し組織を率いるようになったときも、すべて状況に流された末の結果で、デイビッド自身が納得をして決断を下すようなことは一度もない。

ほとばしるヒロイズム



 終盤、体の改造を繰り返した弊害で人格破綻をきたす「サイバーサイコシス」と呼ばれる症状が進行していく。これはあこがれた組織のリーダーの死に際と同じで、転落の仕方まで主体性がないというのはなかなか珍しい。そんな中でヒロインがさらわれ、仲間にも裏切られて、危険な軍用サイバーウェアをインストールせざるを得ない状況に追い込まれる。当然、デイビッドはインストールし、敵を皆殺しながらヒロインのもとへ向かい、「君を守る方法はこれしか思いつかなかった」と告げて華々しく死ぬ。

 物語の主人公は成長しなければならないなどと言うつもりはない。しかし、状況に流されるまま身を持ち崩して、最後は自己犠牲という名の自己満足のもとに死ぬというのは、自傷行為とヒロイズムに酔った妄想を同時に見せられているような気分になる。主人公の動機や決断は、見る者にとって作品を理解し、世界に没頭するための道しるべになる。ただ状況に流される主人公を見ているのは、一方的に展開を押し付けられているのと変わらない。    

 悪い言い方をしてしまえば、作り手が見せたいものを見せて満足しているだけではなかろうか。そういえば、気鋭のSF映画監督として2000年代後半に脚光を浴びたニール・ブロムカンプも、少し似た構成を好んでいたように思う。

問題は説得力の欠如か



 批判するからには言語化すべしということでいろいろと書いてはみたが、簡潔にまとめるとこうなる。悲劇的な展開や簡単に仲間が死ぬ世界がわざとらしく強調されていることに加え、主人公の一方的なヒロイズムに酔った死に様が生理的に受け付けなかった。少なくとも、その描写に説得力を持たせるものが、この作品にはなかった。

 この手の主人公の自己犠牲と、残されたヒロインを見て悦に入る作風は1990から2000年代の創作物でよく見られた。正直、現代の感覚には合わないように思うのだが、欧米で評価が高いというのはいまだに受けがいいということなのだろうか。それともサイバーパンクなSFを好きな層はちょうど刺さる年代だったりするのだろうか。

 ここまで書いておいてなんだが、もう娯楽主体の映像作品の内容に意味を求める時代は終わりつつあるのかもしれない。この作品も一過性の娯楽として何も考えずに見ることができれば、不快感の正体に頭を悩ませる必要もない。無心の境地はまだまだ遠そうだ。

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