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『子どものときに感じるそれよりも大きい』

おとなになると、当たり前にできることが増えていきます。


補助輪なしで自転車に乗れるようになる。
ひとりで買い物ができるようになる。
電車に乗って隣町に行く。
靴ひもを結ぶことができる。…etc


当たり前にできることが増えてくる分、できないことができた喜びや充実感は減っていく。毎日が同じことのくり返しのように感じ、何かドラマチックなことが起こりはしないかと妄想したりする。

退屈な日々が続くと、私なぞは、ミッションインポッシブルのトムクルーズのように、目の前で今にも崩れそうな建物のそばで動けずにいる少女を走って助ける、といったどう考えても起こりそうもない、呆れてしまいそうな場面を思い浮かべたりしています。そんなとは起こりもしないのに、ね…。(起こったら大変だろう!!バカたれ!!)



年齢を重ねるほどに、人って何か新しいことを始めようとは思わなくなるようです。30代半ばを過ぎた私自身、そうした実感が大きい…。



でも、おとなになってもできないことってあるし、できないことにチャレンジするきっかけも転がっていたりする。



私にとってできないことのひとつは、車の運転でした。運転ができなかった。というより、しなかったといったほうが正確かも。車の免許は持っているけど、運転するのは怖い…。

なんで怖かったかというと、警察のドキュメントものの中で事故の場面とかが映し出されるけど、そういうのを見ちゃうと、自分も同じようなことを起こすんじゃないかっていう気になっちゃう。車の運転をしてないんだから、起こるはずなんかないのにね。でも、自分の頭の中では実際に起こっている(この想像力をもっとほかのことに使えたらいいのに)。

もうひとつの理由は、家族の車に乗りたくなかったから。
免許取り立てのときに乗らせてもらったけど、父親が大事にしている車って、すごくピカッピカッに磨かれていたんです(今は磨く回数が減って当時の輝きはないけど)。車のそばに立つと、自分の姿はもちろんのこと、周囲の風景も映っていたりして。そんな車のハンドルなんぞ握った日には、手汗の量も尋常じゃないです。助手席に乗る父親の目も気になるし…。

そんなこんなで、車の運転からはとおーく遠ざかっていました。ざっと19年ほどでしょうか。
車の免許証が活躍する場面といえば、身分証明書を提示するときで、それ以外のときは、財布の中でじっと次の出番を待っているばかりでした(免許証がそう思っていたかは知らんけど)。


もう運転することはないのだろうか…。


運転したい気持ちを抱きながら、運転するという行動に移せずにいた日々でしたが、きっかけはどんな形で目の前に落ちているかわからない。

ちょうど1年4ヵ月ほど前、私は職場の異動を命じられました。新しい職場は同じ県内であり、移動距離もそれほど伸びたわけではなかったから安心しました。

でも、でもです!

新しい職場では、車の運転をする業務があったのです。
私は本を扱う仕事をしているのですが、本を回収したり、目的の場所に届けたりする業務がある。そのときに車の運転をする必要がある!

「戻ってくる時間が決まっているんですよ」

新しい職場に異動する直前、もともとその職場にいた人がそんなことを教えてくれました。

『戻ってくる時間が決まっているだと!?』

そりゃあ、プライベートじゃないんだから、無制限なんてことはないに決まっている。そんなことは当然ですけど、彼が口にした言葉はペーパードライバーの私を動揺させるには十分すぎるパンチのきいたひと言でした。

迷っている時間はありません。車に乗りたい気持ちと、『時間制限』という言葉にビビりながら、私はペーパードライバー講習を受けに地元の自動車学校に通いました。
久しぶりにハンドルを握った印象としては、悪くはありませんでした。むしろ楽しく、講習時間が思いのほか早く過ぎてしまったことを覚えています。

構内講習、路上講習と順調に進み、ペーパードライバー講習を終えた私は、異動先の職場で実際に車に乗ることになりました。
(異動先の職場では、車に乗りたいか乗りたくないか、確認してくれたので安心しました)

異動先の職場の車は、当然のことながら助手席に補助ブレーキなどついていません…。

すべては自分の運転にかかっています!!(怖!!)

何度か上司に助手席に乗ってもらい、運転の練習もかねてルートを回りました。

(いやいや絶対、私よりも上司のほうが怖かったはずだよ!!)

運転のセンスは悪くなかったようで、ハンドルを握る回数が増すにつれて、助手席の上司は驚いていました。これはうれしかったですね!


今ではひとりで車を運転して業務に当っています。そんな中で思ったのは、自分ではこれから先、できないと思っていたことができるようになった喜びや充実は、『子どものときに感じるそれよりも大きい』ということでした。

子どものときも喜びはあっただろうと思います。でも、おとなになると、いろいろなことが『できる』ということが当たり前になる。その『できる』日々が、子どものときのような新鮮な気持ちを忘れさせてしまうのではないだろうか、と考えたりしています(ひとそれぞれ思うこと、感じ方はちがうし、何が正解なのかわからないけど)。



おとなになっても、自分次第で喜びや充実は増やせるのでしょう。
実際、何に対しても挑戦しているひとって、キラッキラッしているように見えます。それって、喜びや充実に満ちていて、内側から溢れてくるそれらの感情がこちらに伝わってくるからなのでしょうね。

私なんかも『挑戦』と聞くと、大きなことを思い浮かべてしまいます。でも、ひとから見たら些細なことだったとしても、自分にとって『挑戦だー!!』と思えることであれば、何でもいいような気がします。家の前のゴミを拾うとか、職場で声をかけたこともないひとに話しかけてみるとか。車を運転してみるとか。

そんなことでも喜びや充実って感じられることもあるはずです。
ひとつ言えることは、同じくり返しの日々に、まちがいなく終止符を打っているということ。そう思うだけでも嬉しく感じられるような気がする!
私も日々キラッキラッした自分になりたいと願っています。そのためにも、できなかったことをやってみたり、やりたかったことに手を出してみたりしていきたいと思います。

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