祖母よ

3回目のコロナワクチン接種をした。
発熱と頭痛、腰痛がある。
激痛ではないが、元来痛みに弱いので、「シテ…コロシテ…ヤサシク…」と部屋で一人うわ言を言っている。

こう言う時は寝るか、ひたすらぼんやりするに限る。先ほどまで昼寝をしていたので、今は目が覚めてしまった。なので頭の中で連想ゲームのごとく考え事をしていると、子供の頃に祖母が体調を崩した時に作ってくれていたお粥を思い出した。
祖母のお粥は、鰹節で丁寧に取っただしを使い、ふわふわの卵とほぐしてあるが身が大きめの鮭と家で漬け込んだ梅で構成されている。食べ応えがあって、私は大好きだった。
お粥はおいしかったし、体が弱くて頻繁に熱を出す私に、毎度手間を加えて粥をこしらえてくれて、そのエピソードだけでも祖母の優しさを感じる。

しかし祖母の優しさや人間性を理解するのには時間がかかった。

いつ頃までまともに話していたかなと思い起こすと高校の頃には、すでに祖母含め家族と口を聞いていなかった気がする。

私の両親は幼少期に離婚し、私は父に引き取られ、その後は父と祖父母と生活することになった。家事は全て祖母が行い、祖母の味で私は育った。

祖母は快活な人だった。しかも周囲のおばあちゃん達とは少し違う快活さだった。
祖父とはどうやって知り合ったかしらないが、駆け落ちらしく、遥々遠い土地から愛だけ抱えて祖父の元に嫁いだらしい。
髪型はベリーショートカットで、好きなものは酒と演歌とパチンコ、幼少期よく連れ行ってもらっていたのは、スナックと喫茶店と洋食屋だった。
特にスナックには頻繁に連れて行かれた。夜会巻きをしたママと見知らぬおじさんおばさん達に手拍子されながら、人見知りの私は控えめな「ドラえもんのうた」をよく披露したものだ。祖母は皆んなでワイワイするのが好きらしく、よく度を超えて、深夜の帰宅になることも多かった。その度に祖母は祖父に怒られていた気がする。そして祖父の態度に気に食わず家出することもよくあった。

祖母は激しさを胸に抱えた人だった。

時を経て思春期になった私は、自分の家族が一般的でないことに気付き、陰気な性格なりに反抗していた。とにかく家族と口を聞かなかったし、食事の際は食卓で真正面に座る祖父を常に睨みつけていたし、父の就寝後に布団の側に立って顔を覗き、殴るフリをしてみたりもした。そして禁止されていた深夜のテレビ視聴を行い、「ゴッドタン」を内緒で見ていた。笑い声をあげると怒られるので歯を食いしばって見ていた。

反抗期は恥ずかしながら良い歳まで地味に継続してしまい、就職を機に実家から離れる時期になっても、家族とのコミュニケーションは最低限のものにしていた。
引越しの際も妙に大人ぶって家族の手は借りずに、不慣れながら自分で全て手配した。出発の日取りも平日の昼間に予定して、なるべく家族と最後顔を合わせないようにして出ていこうとした。
しかし要領が悪いので洗濯カゴとバスマットを段ボールに詰め忘れていた。向こうで買えば良いものの、お金がなかったのでケチって洗濯カゴとバスマットを抱えて、引越し先の他県まで行こうと決めた。大荷物で玄関を開けようとすると、「重いでしょ、せめてバス停まで持っていくに」と一人、家に居た祖母に話しかけられた。私はなんとなく頷いてお願いすることにした。

バス停までの道のりはなんとなく無言だった。
バス停に着いても、ポツポツと話すことはあっても、ほぼ無言だった。「カゴ、もう持つよ」と私は言ったが、「最後くらいいいよ」と言って、祖母は譲らなかった。私は気まずくて早くバスが来てほしいと思った。

ようやくしてバスが到着し、洗濯カゴを祖母から手渡された。「体に気をつけてね」と一言言われて、私は無表情で頷いた。
バスが発進し、私は窓から小さくなる祖母をひっそり見ていた。多分もう一生帰らないだろうなと思っていた。

その後社会に出て揉まれに揉まれ、自分のダメさに打ちひしがれて落ち込んだり、たまに火をつけたままうたた寝して「一回死んだわ…」と震えたり、むしゃくしゃしてめちゃコミに高額課金したりした。自分は思った以上に大したことなかった。全然「普通」になれなかった。本当にダメだった。

その後数年経ち、転職を機に馴染みある土地から東京に移り住むことになった。転職まで時間があるので1日実家に行こうと思った。
その頃にはトンガリまくっていた自意識は丸くなり、家族に対しても負の感情は起きなくなっていた。曲がりなりに仕事をする大変さや生活する大変さを学んで、社会人の先輩方として家族を尊敬するようになった。感謝の気持ちも抱いた。

久しぶりに帰省すると、冷蔵庫を買い替えた以外はあまり変化はなく、私が反抗期に彫刻刀で削り倒した勉強机もそのままだったし、家の傷を隠すために違和感のある貼り方をされたカレンダーから切り取ったネコちゃんのデカブロマイドも健在だった。

夜ご飯には祖母お手製のすき焼きを食べた。そのあとりんごも剥いてくれたし、更におやつにフライドポテトも揚げてくれた。すっごい食べさせるなあ。

しかし反抗期は終わったにせよ、気さくにコミュニケーション出来るかといったら別で、家族に問われたことは答えるが、非常にぎこちなかった思う。まだ顔は上手く見れなかった。なんとなく気疲れしながら、でも嫌じゃない疲労感を感じながら、久しぶりに実家で就寝時間を迎えた。実家にいた頃、祖母と同じ寝室を使っており、その日も祖母と布団を横に並べて寝た。そこで祖母がポツリと言った。

「もう一緒に寝ることはないと思ってたから嬉しいねえ、バスを見送った時にもう会うことないかなあって思ってたから」

歯を食いしばって泣いた。私の家族は、いい保護者であったかという今思い返しても微妙だ。ちょっとダメな大人だったと思う。でも私はもう子供ではないので、大人同士として仲良くなれたらと思う。

その後上京した。そしてすぐにコロナ禍になった。
仕事やコロナ禍を理由にして、それ以来帰省していない。でもあの日以来家族との関係性はほころんで、祖母はたまに電話してくれるようになった。帰省した時は気まずくて上手く話せなかったけど、電話を通して、少しずつ話せるようになってきたと思う。早く、会いたいなと思う。

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