見出し画像

6歳__「東大医学部に行きます」/小説【その患者は、「幸せ」を知らないようだった。】

美原家は、至って普通の一軒家である。
母親の希代は専業主婦なので、咲希が下校した時はいつも希代が出迎える。

「咲希、おかえり。」

「ただいま…」

「どうしたの。元気ないじゃない。」
咲希の桃色のランドセルを受け取りながら、希代が声をかけた。

「今日の宿題、作文なんだ…将来の夢について、だって。」
咲希はランドリーで手を洗い、服を着替えた。
咲希の小学校は私服登校だが、美原家では、帰宅したら必ず綺麗な服に着替えること、という決まりがあった。

「あら、咲希、作文得意でしょう?この前の運動会の感想文だって、賞をとっていたし。」

「作文は得意だけど。将来の夢なんて、今聞かれてもわかんないよ。」

「え?」希代が驚いた。


「咲希は、東大医学部に行ってお医者さんになるんでしょう?」


声は出さなかったが、咲希は心底驚いた。
医師になりたいなんて、自分の口から発したことは一度もなかったからだ。

だけど…咲希は察してしまったのだ。
母親は娘が東大に行き、医師になることを望んでいる。
私は、そうしなければならないのだと。

「あ、…そうだった。あはは。それを書けばいいのか。」
咲希は、大げさに肩の力を抜いたリアクションをとった。

「そうよ。咲希ったら、何言っているの。宿題なんて早く終わらせて、ピアノの練習をしましょう。」


咲希は小学一年生にして、絶望という感情を知っていた。
絶望というよりは、気が遠くなるという感覚に近いのかもしれない。

学校から帰って宿題を済ませても、その後には数時間のピアノの練習が待っている。
ピアノの練習なんて、終わりがない。母親が今日はおしまいと言うまで、鍵盤を叩き続けなければならない。
それをやっとの思いで終えたとしても、母親が買ってきたドリルを解く。それも、終わりがない。一冊終えたとしても、また母親が本屋に行けば、同じことの繰り返しである。

がんばってもがんばっても、終わりの見えない絶望。

小学一年生にして咲希が見えていた世界は、あまりに暗かった。

そんな彼女にとっての唯一の憂さ晴らしが、蟻の虐待だったのである。

※のちに咲希の主治医は、幼少期から続いたこの報われない努力が、現在の難治性うつ病に起因しているとカルテに残している。


明日の時間割を参照しながら教科書をランドセルに詰め込み、今日も疲れたなあとぼんやりしていると、希代が近くに来てぱんぱんと手を叩いた。

「ほら、ピアノの練習をするわよ。再来月の発表会のために、今から譜読み始めないと。」

美原咲希(仮名)の人生は、たったの6年目あたりから歪み始める。
そのうちのひとつが、ピアノだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?