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化け物

 茸沢果子がしんだ。先週に起きた誘拐事件の被害者だった。
 彼女とは長い付き合いだった。物静かで髪の短い、一月の雪みたいに肌の白い子だった。好きなものは花と恐竜と靴で、嫌いなものは血の出る映画とトマト、そんな子だった。僕らは六年もの間付き合っていたけれど、結局は退屈な恋愛の果てに別れたのだ。十月のはじめ、切り出した別れ話に彼女は鼻をすすってうなずくだけで、言い終わりに顔を覗いたら、彼女は顔をそむけてそれきりだった。
 彼女の肌も、匂いも、退屈さも、もうこの世にはないのだと思う端から、感じたことのない虚しさが粟立つように胸の中を過ぎていった。底暗いさみしさに身が震えた。

 九貝府の男子中学生が入水をしたのはそれから二週間後のことで、帰りの電車で話し込む女子高生たちの声が、体温に混じって生ぬるい。
 携帯の画面をスクロールしながらニュース記事に目を落とした。関心のない記事が流れていく中で、ぴたりと彼の記事が目に留まる。タップして、記事へ飛ぶ。自殺の原因は同級生によるいじめだった、容姿をからかわれた、担当教師に相談しても「いじめられるほうが悪い」と撥ねつけられた、そこまで読んで携帯をしまった。僕はいじめていた側の人間だった。
 車窓からは塊のような建物の群れが景色を流れていく。その奥で桃色を孕んだ夕暮れの雲が浮いていた。車両に居合わせたひとびとは話したり、うつむいたり、携帯をいじったり、寝たふりを続けている。

 出勤前に浸しておいた釜には水がたっぷり満たしてあって、底の方にしゃもじで取りきれなかった米つぶが水を吸って膨らんだまま沈んでいた。入水した彼の悲しみも、この米つぶと同様に水底に沈んでいるのだろうかと気の重い想像が腹につかえた。釡を洗った。
 夕食を摂り、寝て、起きた。歯を磨いて部屋を出て、しばらく歩いて駅に出る。駅には人の群れが靴音を鳴らしている。
 生きている、と思った。誰も彼も息をして、思い思いの方角へ向かって歩いていた。彼がしんでも、果子が殺されても、僕らは、普段通りの生活を続けていくのだ。行き交う人はみな早足で改札を抜けたり、誰かを待ったり、携帯覗いたりしている。
 駅の中には数百、数千のひとの群れがすでに蠢いていて、途方もない化け物の姿のようで恐ろしい。彼の厭気が差した、果子のいなくなったこの世界が僕の知る世間とは違う場所のようにも見える。いま、二度と同じ形を取らない化け物の腹の中に僕はいて、その僕もまた、冷たい化け物の一部にすぎなかった。


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