「男らしさの終焉」を読んで自分が男らしかったことに気づいた
グレイソン・ペリーの「男らしさの終焉」の感想です。
ざっくり要約
男性が書いた(白人を中心とした)男らしさの有害さについて書いた本
男らしさとは「意気地なしはだめ」「大物感」「動じない強さ」「ぶちのめせ」
男らしさを発揮できない時、周りのより男らしくない男性や女性に敬意を強要する
このような男らしさはジェンダー平等が叫ばれる現代にそぐわない
これからの男性には「寛容」「柔軟性」「多様性」「感情のリテラシー」が重要となる
現代は男らしさの締め付けが厳しすぎるのが問題
男性は自分も周囲も、男らしさが足りないという理由で責めることをやめるべきだ
感想
本書から
男性はヒエラルキーを追求するのをやめよう
多様性を認めて自分にも他人にも優しくなるべきだ
という大きく2つのメッセージを受け取りました。
前者については、要約にも書いた男性性の基本要素のうち「大物感」と「ぶちのめせ」が関係しています。
筆者によれば、男性は自身の中にある「本物かどうか」という基準をもとに、自分が他人に勝っている点をチェックして、自分が「本物」で「男らしい」ことをアピールし、敬意を強要するし、それが男性に推奨され、男性の憧れになっているのだと言います。
敬意が満足に集められない場合、ハラスメントや暴力などにつながるのだそうです。
「男らしさ」というとスポーツとか筋肉とか権力といったマッチョなものをイメージしますが、敬意を強要するのは体育会系の人や古い体質のおじさんに限ったことではありません。
それには、男性性のもう一つの要素である「本物らしさ」を追求する癖にあると筆者は言います。
着ている服のブランドや身につけた知識、見た目、趣味にどれだけ金をかけているかなど、それぞれの男性の中にある「本物らしさ」も他人と比較する際の要素となります。
ですから、体育会系の要素とは真逆の、ジェンダー平等やフェミニズムを理解していることが人によっては他人に敬意を強要する要素になりうると筆者は言います。
以上ことから、どれだけジェンダーについての知識が広まっても、ヒエラルキーを追求する男性性が推奨される限り、異論や弱者の排除が続くと考えられます。
したがって、真のジェンダー平等を達成するためには、まずは男性の権力を握りたがる傾向をあらためていく必要があると感じました。
次に2点目「多様性を認めて自分にも他人にも優しくなるべきだ」についてですが、これは男性にヒエラルキーの追求をやめて優しさを追求するようになるべきだと筆者が言っているのだと理解しました。
男性は本物に拘りますが、権力やブランドものといった「本物」を永遠に手に入れ続けることは、ごく一部の人しかできません。また、人は老いるので、いつまでもそれを保持し続けることができる人はまずいません。
筆者は、本物になれない男性は常に虚勢を張り、周りに敬意を強要している哀れな存在だと言います。
言い換えると、男性は常に本物の男性であろうと自らにプレッシャーをかけつづており、そのプレッシャーに耐えられず、周囲に威張り散らすことで発散しているということです。
しかし、ヒエラルキーの追求やめることで、男性自身がそのプレッシャーから解放されて、楽に生きることができるようになると筆者は言います。
男性性の締め付けは強く、本物を追い求めるほか、弱音を吐いてはいけないとか、常に強くなければいけないと言ったプレッシャーもあります。
こういったプレッシャーから解放され、自分にも優しくなれれば男性も生きやすくなるのだと思いました。
また、男性性の相互チェックがなくなり、他者の在り方や生き方が尊重されるようになることが、ジェンダー平等や多様性の尊重の本当のゴールと言えるでしょう。
まとめ
いかにも「自分は関係ありません」という感じで感想を書きましたが、自分の中にも本物を求め、他人に敬意を強要しようとする気持ちがあるということに気づきました。
カメラや登山が趣味なのですが、持っているカメラの種類、登山用品のブランドなど、常に目を光らせている自分がいるんですよね…。
また、ゲームが上手いとか、知識があるとかで、威張り散らしていたこともあったように思います。
持っているものや属性で偉いとか偉くないとか決まるはずもなく、持っていない人の意見を無視するようなことがあってはならないのは当然ですよね。
また、自分は恥をかいたり失敗をしたりすることを恐れる傾向があり、それが男性性に由来することもわかりました。
他人より下の立場になることは男らしくない、恥をかくのを男らしくない、といった規範を無視して、男性らしくない振る舞いを心がけたいと思います。
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