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【小説】この世界で、ゴールデンブルースを聴くものよ:第1話

鉄工所を経営する宇宙オタクの父に影響され、「ロケット開発者」を密かに夢見る高校生の常磐糸。糸には、「宇宙飛行士」を目指す天才肌の天道倭という幼馴染みがいた。順調に夢を叶えてゆく倭の姿に、淡い恋心と羨望と嫉妬心を抱く糸。倭の渡米後も、日本で様々な困難に見舞われながら糸は夢を目指し続ける。
幼馴染みふたりの関係は、一度は途絶えたかに思えたが、宇宙開発の本拠地アメリカの地で、共に「宇宙飛行士」「ロケット開発者」として再会することに。そこで、倭の本心に触れるきっかけを得た糸だったが、糸が悪夢で見ていた事故が現実にも起きてしまう。
「宇宙とはロマンで行くところ」――夢を追い求め続ける若者二人の物語です。

 『スペースデブリが――』

 誰かの声は、肝心なことを言わずに途切れる。  
 満月の夜だった。気付けば窓の外は真っ暗で、月を見上げた時に『やっぱり、駄目だった』と同じ声が聞こえた。38万キロメートル先の〝月面〟からだ。  
 月面にいる、天道てんどうやまと宇宙飛行士からだった。  
 31歳の若さで月面着陸を成し遂げた栄光の裏で、わずか一本のネジと、宇宙軌道上に浮遊する人工衛星の破片(スペースデブリ)が不幸を招き、あの淡い光の中で死にかけている。

「倭……、やっとそこに辿り着けたのに……」
 
 手の中の新聞を握り締める。だが、あまりに感触が腑抜けていて、これが「夢の中」だと思い知らされる。何度見たかも忘れたほど、繰り返された悪夢。
 38万キロメートル。ロケットで飛べばあっという間の距離も、たったひとりの人間からすれば天国よりも地獄よりも遠い。国際宇宙ステーションなら、まだ地上から400キロメートルであったのに……この窓から見える坊ちゃん球場のドームくらいそばにあって、表面の凹凸まで裸眼で確認できたなら手が届いたかもしれないのに!  

「私が、もし……」
 
 視界がゆっくりと狭まってゆく。息が苦しい。鼓動と同じスピードで、窓ガラスの向こう側で闇夜が白光している。真っ白なピンポン玉がぽっかりと空に浮いていて、間違いなく月であるはずのその場所から『駄目だった』とまた声がした。  

「ここからじゃ……地上からじゃどうにもできないんだよ……私は、宇宙飛行士にはなれなかったから……!」  

 私の叫びは倭に届かない。
 新聞紙の灰色の紙面だけが目の前を横切り、『宇宙飛行士の理想に、ロケット開発の技術は追いつくか』と不穏な文字が滲んで、砂を攫うように消えさった。  

「誰か……世界一安全なロケットを作って……宇宙飛行士が二度と死なないように……誰かっ!」

 私は暗い大きな穴の中に落ちてゆきながら、必死に手を伸ばした。
 誰でもいい――世界のどこかにいる優秀な技術者が、世界一安全なロケットを作ってくれたなら。きっと歴史は代わる。紙面の記事は、書き変わるはず。3mmのネジで、たった小さな不運の積み重なりで、天道倭が宇宙で死んでしまう未来は、きっと変わるはず。
 だから。
 今すぐ、今すぐに、誰かがやらなければ。


「――っは……!」

 まず目に飛び込んできたのは、大きな鏡に映った自分のひどい寝起き顔だった。髪はぼさぼさに乱れて、着古したTシャツの襟ぐりがだらんと垂れている。

「おお。やっと起きたんか。何度も呼んだんやぞ、糸」
 
 “糸”とは、私の名前だ。鉄工所を経営する宇宙オタクの父が、この広大な宇宙で銀河団同士を結びつける「宇宙糸」からあやかって名付けたものだ。
 半分だけ開いた襖から、その父が作業着姿で顔を出す。
 髭剃りを動かしながら、顎をしゃくって「おい」と言う。

「よだれ。おーまえ、嫁入り前の娘が」

 父の言葉で、私は口の端を手の甲で拭った。ついでに、目の端のものもTシャツの袖で拭き取った。

「今、何時?」

 私が訊ねると、父は左腕の腕時計を見る。

「5時20分」
広大こうだいは、トイレ?」
「洗面所。次に父ちゃんが使うけん、はよ着替えや」

 父が居間へと向かって歩く足音を聞きながら、ようやく布団から出る。
 カーテンの隙間から、太陽の白い光が射し込んでくる。4月4日、高校の登校初日の朝だった。
 今日は、夢の中で何度も死ぬ彼が――天道倭が、この町に戻ってくる日だった。

「はぁー……」

 倭の幼い顔を思い出しながら、制服に着替える。父が使い終わった後の洗面所で歯を磨いて、顔を洗う。連日の悪夢のせいで寝不足の頭でも、倭のことを考えない日は一日としてなかった。


***

 天道家の実家がある松山市で、JADA(Japan Aerospace Development Agency:日本宇宙航空開発機構/ジェーダ)職員であった天道正一が5歳の息子を祖父母に預け、東京へと戻ったのが1996年のことだった。隣家だった常磐家にも同じく5歳の娘がいた。それが常磐ときわいと、私だ。
 有人宇宙ロケットの製作を夢見る常磐つよしは、5歳の娘とその隣家の息子に、宇宙探査のロマンを語り尽くした。
 その頃ちょうど、『星の会』と呼ばれる、NPO団体主催の小さなプラネタリウムの上映会が、近所の科学博物館でスタートした。幼い二人は私の父:剛の背を追ってプラネタリウムに通い続けた。その期間は、12歳に至るまでのおよそ7年間である。  
 倭はアポロの話を知って以来、宇宙飛行士として月面に立つことに憧れ、私は倭を宇宙まで連れて行けるロケットを作る開発者に憧れた。二人の口癖は『宇宙飛行士』と『ロケット』になった。
 理由は単純だ。倭は宇宙が大好きで、私は倭が大好きだったから。


***

 
 2006年、常磐家の朝は早かった。  
 二階建て木造一軒家の隣に、プレハブ小屋のような鉄工所がある。社長は、常磐家の大黒柱である私の父、常磐剛だ。社員は6名、朝食の握り飯から業務終了後の麦茶の用意まで、常磐家うちが面倒をみている。父の口癖が「社員は宝だ」ということだが、片田舎の小さな鉄工所では結束力がものを言う。同じ釜の飯を食う、というやつだ。

 これはまだ私が15歳の多感な青春期だった頃の話である。

 
 ――湯気が立つ台所、味噌の匂いと白米の香ばしいかおり。水や塩が散って、慌ただしくスリッパが床を蹴る。 居間と台所のちょうど真ん中にある洗面所では、ごうんごうんと洗濯機がフル稼働で仕事をしていた。特売セールでしか手に入らない108円の粉洗剤は、強烈な薔薇の香りを家中に充満させてゆく。

「姉ちゃん!」  

 洗面所の入り口に、ひょっこりと”いがぐり頭”が顔を出した。頬に米粒がついたままだ。

「今日、シャケ? 中に入れる具」
「そう、シャケ。瓶のやつ。賞味期限早いほうから開けて」
 
 支度は朝の5時半から。5合炊きの炊飯器と、アルミ鍋を使って毎朝9人分の白米を用意する。それと、作業服の洗濯に朝と昼用の麦茶とみそ汁の準備もだ。  
 常磐家の朝はいつだって時間との勝負だった。騒々しくて、忙しい。なにより、複雑な匂いがする。

「糸! 洗濯は父ちゃんがしとくわ。曜子ようこちゃんが来とるぞ。支度せえ」  

 味噌汁係だった父が洗面所に現れ、後ろから私のエプロンを引っ張ってくる。左手に填めた母からもらった腕時計を見てみると、7時20分を数秒過ぎたところだった。急いで台所へと向かう。

「広大(こうだい)! 姉ちゃんが御釜やっとくけん。入学式やろ、先に出とき」  

 真新しい学ランに身を包んだ弟の広大は、鉄工所に差し入れする塩結びを握った手を水道水で洗い、大量の握り飯を指差して頬を膨らませた。

「今日水多かった! 海苔で誤魔化しとるけど、結構べちょべちょや。せっかくシャケ入れとんのに。またオレん時だけ文句つくで、これ」
「今朝の水加減は自分でやったんやろ? ちょっと少なめの方がうまくいくって、前に自信満々に言うてなかった?」  

 広大の残した米を受け取って、急いで4つのおむすびを握る。使い終わった御釜を水に漬ける間も、隣でもじもじと言い訳が続く。

「違うって。やって米の銘柄が違うかったんやもん。コシヒカリはさぁーあ」
「分かったから。はよ行きって。朝は混むよ」

 今日から通うことになる松山五田渡中学校指定の鞄を引っ掴み、広大は運動靴の紐を不器用に結びながら、靴箱の上にある置き時計を見上げた。

「これさぁ、来週から新聞配達はやばいってぇ」

 ぶつぶつ呟いているその背を軽く叩いてやる。

「こら。紐、縦結びになっとるよ」
「痛っ。もー、ええんやって、靴紐くらい……」

 中学に上がるのを機に、広大も家計を助けるためにアルバイトを始めてくれるらしかった。紫色の学校指定のヘルメットを被って、勢いよく玄関を飛び出す。

「ほいじゃ、行ってくるけん!」

 開け放たれた玄関戸の向こう側で、紺地に白のチェックスカートが揺れる。呆れたような声音で、「今日も元気ねえ」とソプラノ声が聞こえた。慌てて、エプロンの裾で濡れた手を拭う。

「やば」
「ほら、糸、お前も。曜子ちゃんを待たせんと」  

 優しい手が肩に置かれて、少し重たい油の匂いがした。『有限会社常磐鉄工所』――濃紺の刺繍糸で刻まれたその名が、ちょうど目線の位置にある。常磐糸の進むべき人生は、父が愛するこの鉄工所を受け継ぎ守り抜く事だった。母が体調を崩してからは、それが天命と呼べるくらい自然に身体に刻み込まれていた。  
 だから、これは通過儀礼のようなものだ。身体の弱い母と、夢多き父の下で弟にも夢を諦めずにいてもらうためには、自ずと役目は決まってくる。その節目となるのが、義務教育を終えた15歳の春だった。  
 居住まいを正して父に頭を下げる。”かたち”だけでも、しっかりやっておきたかった。

「どしたんぞ? 糸」
「常磐糸は本日から高校生になります。……ので、母さんのことは優秀なお医者さんに任せて、常磐家のことは私に任せてください」

 顔を上げると、目を真ん丸くした父がいた。

「父さんも、やりたいことやって。会社は私が継ぐけん」  
 
 自らの人生を「波瀾万丈だ」と語る父は、この数年間を電子レンジの製造に費やしていた。堪えなければならなかった。社員6名、家族4人の生活費、そして母の治療費のすべてを、大手電子機器メーカーの下請けになることでなんとか賄ってきたのである。  
 父には夢があった。他人が聞けば笑うような壮大なロマンだ。自らの手で、宇宙に人類を送ることを夢見ているのである。身内の贔屓目でもあるが、それを成し遂げるにふさわしい人でもあった。宇宙は、イマジネーションとロマンで行くところだからだ。

「鉄工所は任せな」

 私は啖呵を切るようにして言った。

「なーにが、任せなや」  

 父は私の頭を撫ぜて、「わしは、まだ夢を諦めとらん」と白い歯を見せて笑った。母曰く、父のこうした少年のような笑顔と、時折見せる男らしい背に惚れたのだと言う。

「ほれ、倭君も同じ学校なんやろう。よろしく言うとってな。3年ぶりやなぁ」  

 屈託のない父の笑顔に、私は胸がひやりとした。急いでローファーを履き、スマートフォンを操作していた曜子に「お待たせ」と大きめに声を掛ける。

「あら、朝の大騒動は終わったの?」
「終わった。――じゃあ父さん、行ってくるから」  

 手を振ると、油の沁み込んだ大きな手が大袈裟に振り返してきた。
 父さんは倭の事が大好きだった。宇宙飛行士になると宣言した少年は、ほとんど家族の一員のように常磐家に馴染んでいた。倭の両親がずっと東京にいたので、寂しくないようにと父が頻繁に家に呼んだということもある。私と倭は姉弟のようだった。
 だから、べつに逃げているわけじゃない。
 そう言い聞かせながら、新しい鞄を強くぎゅっと握り締める。「ずっと一緒だ」と誓い合った私と倭が中学進学と同時に別々の道を選んだのは、出来の違いという呪いみたいなやつのせいだった。私の一方通行の想いと、この醜い嫉妬が同じ道を歩みたがらなかったのだ。  
 知らぬ間にアスファルトを駆けていた私に、曜子のカン高い声が飛ぶ。

「糸、ちょっと待ちなさい……! ストップ、止まれ! 待て!」

 曜子が飼い犬のヨークシャリアに言うように怒鳴ってくるので、素直に足を止める。

「あーんたね……なに入学式の朝から青春みたいなことやってんの!」

 曜子が、はあ、はあ、と肩で息をつく。

「……短距離走のスプリンターとはポテンシャルが違うんだから。親友を労んなさい! 10分も外で待っててやったのに」
「ごめん」
「まったく……」  

 新しい通学路を歩きながら、曜子が空を仰ぎ、右手で太陽の光を遮る。片目を眇めたまま、あーあーと面倒くさそうな声で溜息を吐いた。

「それでさぁ。どうすんのよ。新入生の挨拶、天道君よ」  

 どうするのよ、と言われてもどうもしようがない。意地でもあったのだ。母の病気と、弟の進学、考えることはたくさんあって、そんな中でライバルでもあり憧れの存在であった少年がここへ戻ってくるのだ。運動神経が優れていて、頭も良い、両親はJADA職員で、松山にも東京にも住む場所がある。
 傲慢にも、松山市くらいは私に譲ってくれよ――と本気で思っていた。べつに、松山が私のものというわけでもないが。

「もう、よけいなことは考えないようにしたいんだ。……学校では方言を使わないし、陸上部にも入らない。煩わしいことはすべてなくしていって、常磐鉄工所がいつか世界一安全なロケットを作るのをそばで支えたい。宇宙飛行士が、無事に地球まで帰って来られるように」  

 心機一転、穏やかな高校生活をスタートさせる。この時はそれだけを願っていた。だが平穏な日常を望む時ほど、嵐というのは無情にも起こるものだ。


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