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【小説】この世界で、ゴールデンブルースを聴くものよ:第7話

 記者会見は、米国のとあるオフィスビルの一角で行われた。
 フラッシュライトを全身に浴びて、ひとりの白人男性が記者の質問に答えている。

Q今回の事故の責任は誰が?

『アメリカとロシアと中国、あと北朝鮮も。自国の都合で破棄した衛星の破片はこれまでだって何度も問題を起こしてきた。誰が責任を持つかという問題は今すぐ答えを出せるものではない。事故原因も検証中だ』

Q死因は〝事故死〟で公表を? 彼の身体に刺さったものは、宇宙空間から飛来した人工衛星の破片だったんですよね。置き去りにしたのはどう説明を?

『当時の月面はパニック状態だった。いずれにしても、事故だった。運悪く障害物が飛来し、天道は負傷を負った。可能性が高いのは、持ち込んだ通信用アンテナの足の部品だ。ネジの留めに欠陥があった可能性は……それも調査中だ』

Qそれで、遺体はどこに。亡くなる直前に通信があったのでは?

『確認はとれていない。何せ急な事故だった。彼も必死に我々とコンタクトを取ろうとしたんだろう。故人には申し訳ないと思っている、彼を……月面に残してきた結果となってしまったことは』

Q遺体を確認できていないのに、事故死と判断したんですか。他のクルーは一体何を。

『彼らも非情に混乱している。当事者だからな、ショックも我々よりはるかに大きいだろう。日常生活に支障をきたしている者もいる。彼らの証言でも事故死の可能性が非情に高い。助ける余地もないまま天道は亡くなったのだと。だが、彼の功績は称えよう。月に到達した人類はわずか数名、彼もそのうちの一人だったのだから』

Q本当に月面に?

『なんだその問いは? アポロの時と同じか? ……この際だ。我々は世界中の人々に強く訴えたい。人類は月面に到達した。宇宙空間は地上で起こりうるあらゆる障害を取り払い、人を次の時代へ連れてゆく可能性を秘めている。この夢を、科学の力を、人類の長年の夢を疑うことは断じて許さない。見切り発車などと誰かが言うが、NNSAはこれからも宇宙開発を進めていく。どこの国よりも早く、より着実に。天道のことは非情に残念だった。以上だ』  

ジリリリリリリ――。

「……う、」  

 秒速465メートルの世界。  
 溜息を吐いて、目を開ける。朝の6時にセットされた目覚し時計を止めると、ルームメイトのキャシーが「大丈夫?」と歯ブラシを片手に顔を覗き込んできた。

「ああ、グッドモーニング……良い朝だね」
「とてもGOODって感じじゃないけどね」  

 その言葉には欠伸で返した。中途半端に伸びた髪を掻き交ぜて、紺色の窓を見上げる。  
 アメリカ合衆国カリフォルニア州。大都市パサデナの高級住宅街にある女子寮には、天の川模様のカーテンが付けられている。片側だけ引くと、爽やかな緑が広がった。

「グッド……良い芝だ」  

 コーヒーの匂いと、甘いグレープ味の歯磨き粉の匂い、それとトーストが焦げている匂い。私は親機関をNNSAに持つアメリカジェット推進研究所の寮で、複雑な匂いに重たい瞼を強く擦った。
 朝の身支度を済ませ、キャシーと共に共同キッチンへと下りる。

「Good morning, Ito.」
「グッドモーニング、リアン」  

 インド人の同僚に片手を上げた私を見て、隣にいるキャシーが「今朝は全然グッドそうに見えなかったけど、これからグッドになりそうよね」とウインクを投げてくる。ミルクを拝借しながら、「どうして?」と私はブロンドヘアーを見上げた。

「別にいつもと同じ朝だよ?」  

 私はイギリス人の彼女が淹れてくれた渋いコーヒーを飲みながら苦笑する。

「あと今朝も苦いよ、これ」
「だって! 今日からスカイラブ宇宙センターに派遣されるじゃないの。そこにいるんでしょ、あのMr.Tendouが」

 キャシーには倭と幼馴染であることを伝えていた。  
 イギリス出身の彼女は上流階級のお嬢さんで、紅茶の味にはこだわりが強いが、コーヒーはかなりまずく淹れる才能がある。黙っていれば凜とした聡明さだけが際立ち、立っているだけで画になるような美人なのだが。恋バナに花を咲かせるような年頃でもないが、キャシーは「チャンスじゃない!」と私の頬に顔を寄せた。

「13年ぶりに再会するんでしょう? 15歳の頃から会ってないなんて私からすれば考えられないけど、なかなかにドラマチックじゃない」  

 2019年の6月。
 幾度の冬も春も越えても松山市に帰って来なかった倭も、仕事のためには日本に帰国した。彼は、2015年にJADAの宇宙飛行士候補者に選定され、同年の5月に入社。その3ヶ月後にNNSAの宇宙飛行士養成コースを受けるために再び渡米した。

 28歳の現在、倭は月面着陸を射程に入れて訓練を進めている。

「彼、史上最年少で月面着陸をするかも知れないって言われているスーパースターの卵よ。今の内にちゃんと首輪を付けておかないと、ミーハーな女に横取りされちゃうかもじゃない。とびきり良い女だってことを相手に洗脳させておかないと」
「月面着陸計画の選抜試験も含めて、今が一番ナイーブな時期なんだよ。それに、彼とは昔馴染みというだけなんだから。冗談で邪魔をしたら悪いよ」  
 実際にその通りで、欧州宇宙局(EASA)の宇宙飛行士たちと共に、倭は他国の宇宙飛行士として数少ない椅子を求めてしのぎを削り合う。月面への最短切符は、世界最大規模のロケット発射場であるNNSAケネディ宇宙センターから配される。他国からの志願者は例年の数倍を記録中だ。
 キャシーは内緒話の姿勢をやめて、コーヒーカップを持ったまま地団太を踏んだ。

「だからダメなんじゃない! イト、こんな時に大人ぶるのはダメよ。愛はいつだって自分から手を伸ばさないと相手には届かないんだから。その歳でロマンスの一つもないなんてどうなのよ」  
 
 彼女が動く度に床に零れるコーヒーを布巾で拭いながら、「はいはい」と適当に相槌を打つ。スラックスに入れていたスマートフォンが三回振動して、メールの送信者を確認する。相手はカールからだった。

「君の彼氏からだ。はやく下りてこいってさ」  

 日曜日の今日は、テキサス州からキャシーの彼もパサデナに遊びに来ており、帰りの道中にヒューストンまで便乗させてもらえることになっていた。

「もう。カールったらブルースなんて歌うくせに、こういう繊細な会話には平気で水を差すんだから」

 女子寮の庭に横付けられたジープからクラクションが鳴る。濃紺色のカーテンが風に靡いて、私はキャシーと握手を交わした。およそ半年程度の派遣期間だったが、彼女は寂しくないようにと紅茶の缶を手渡してくれた。  
 テキサス州ヒューストンへは、ユニオン・マイクロソフト社(U・M社)と共同開発を進めている、VR連携型ローバー『オンサイト』の実用化検証の為にお呼びが掛った。2年後の月面着陸計画の為の宇宙飛行士選抜試験と時期が被ってしまったのは、運命の悪戯というか、神様のサディスティックさにはさすがにもう慣れた。

「先に味を言っておくわ。アールグレイよ。イト、あなたは素敵な女性なのだから、もっとお茶に興味を持ったり星に愛する人を重ねたりするべきよ。休憩中にブルースを聴くなんて、カールじゃないんだから。もっとラブロマンスに浸りなさい」
「そういえば、カールはメランコリー・ブルースも歌うのかな」
「……忠告しておくわ。それは彼の前じゃ禁句よ」  

 私はキャシーの不思議な言葉に見送られながら、カールの運転するジープの助手席に座った。しばらくしてから、ようやくその意味を理解した。「科学こどものくに」で佐藤さんが流してくれた名曲が、カールの一番の十八番だったらしい。  
 ボブ・ホープ空港までの40分のドライブの間中、カールの歌声は永遠に感じるほどリピートされた。 


◆◇◆

 カリフォルニア州からテキサス州に移動して、フライドチキンの油で胸やけしながら最初の洗礼を受ける。ランチについてきたポテトの量にびっくりしたわけじゃない。同僚からの冷たい視線と無視が、ウェルカムしてくれたのだ。  

「やあ。君が噂の日本人技術者か。NJPLでの活躍は聞いているよ。月着陸船の奇抜なアイデアを出した一件で、こっちでも君を知っている奴が結構いるんだ」

 私はその言葉に「なかなか刺激的な職場で楽しいです」と右手を差し出した。日本在住時に、小型人工衛星キューブサットを同期軌道上に乗せ、ビジネスとして確立させたことが自信になっていたこともある。米国企業から共同開発のオファーがかかり、櫻井さんと進めていたスペースデブリ回収事業の一部であるVRコンテンツは、海を越えて国境を超えた。宇宙のごみを減らすためにやれる事は色々とある。  
 ――かと言って傲慢な態度を見せたつもりはなかったのだが、何故か初日から私のあだ名は「GB」になった。櫻井さんから言われた「GK(ジャイアントキリング)」とニアピンだが、意味はだいぶ異なる。高校生の倭が同級生からスーパーカーにあやかってつけられたあの名前とは違う。
 1GB(ギガバイト)。
 ハードディスクなどの記憶媒体のデータ保存容量の単位でなかなかのビッグサイズな奴のことだ。決して良い意味ではないということが分かった上で、私も友好的に相手との距離を縮めようと努力はした。したつもりだったが――。

「WOW、どうしたんだいトキワ」

 カールに肩を叩かれるまで、私は休憩スペースの椅子に座り込み打ちひしがれていた。手渡された紙コップに、「センキュー」と礼を告げる。もう紙コップを握る握力さえないくらいだった。

「元気がないな。どうしたんだい。日曜日も随分と無口だったけど、どこか体調でも悪いのかい?」
「いや、日曜日は君のブルースが……」  

 カールが不思議そうに首を傾げて、私は咳払いをしてそれを誤魔化す。

「何故だか急に皆に嫌われたみたいでね。日本人の嫌われ者とは話をしたくないのか、誰も質問を聞いてくれなくて。トイレの場所も15分くらい探し回ったよ……」  

 観光施設としても有名なスカイラブ宇宙センターでは、宇宙飛行士訓練施設とロケットパークを一周するガイドツアーが人気で、日々観光客が多く訪れている。ロケットのぬいぐるみを抱えた幼稚園児の団体客と一緒にひとり作業服でトイレに並んだ時間は、とても切ない気分になった。

「職員用のトイレは後で僕が教えるよ。困ったな、彼等は職場の同僚である君にそんな事も教えてやらないのかい?」

 アフリカ系アメリカ人のカールは人情家らしく、同情した顔で私の肩を優しく叩いてくれる。キャシーが惚れた男性のはずだ、彼女のルームメイトということで気に掛けてくれている部分が大きいのだろうが、今はキャプテンアメリカ顔負けのヒーローにも見えた。

「ロケット開発は国家機密だからなぁ……。外国人にあたりが厳しいのは、彼らの愛国心の強さでもあるんだ。特に君は月着陸船の奇抜なアイデアを出しただろ? 日本人だからアメリカ人より劣るっていう考えは、僕もどうかと思うけどね」
「NNSAに来られただけでも奇跡のようなものだったから。見透かされているのかもしれない」
「自信を持てよ、トキワ。2020年には月は目の前だぞ?」
「まあ、なんとかやっていくよ……」
「ところで、今晩のパブはどうだい? 君、ビールは好き?」
「え?」  

 いきなり話題が変わってしまい、思わず素っ頓狂な声が出てしまう。

「親睦会だよ! 2年後のビッグプロジェクトに向けて精鋭たちが集まっているからね。小さなパーティさ」

 陽気な鼻歌と共に、カールは白い歯を見せて笑う。親指を立てたそのグッドサイン越しに、「お酒がタダで飲めるよ」とわくわくした瞳が輝いている。私の相談事がすでに忘れ去られているのがわかった。
 平穏な日常を望むほど、嵐の前兆は簡単に訪れる。高校の入学式の朝を思い出し、私は味のしなくなったコーヒーをごくりと飲み込んだ。


 ***


 ゴールデンズ・パブではじまったパーティは、午後8時にスタートした。 
 華々しくミラーボールが天井で回転し、BGMは70年代に活躍したバンドTOTOのアップテンポアレンジだ。私は7色に煌めく店内を見つめながらひとり固まっていた。

「Hi!」
「ハ、ハイ……」  

 アフロヘアーの男性からハイタッチを受けながら、腰を引く。NNSAの職員じゃない人間からは陽気な挨拶を掛けてもらえるが、新しい同僚たちからは素晴らしい連係プレーで無視が続行されているのだ。
 まさかアメリカに来てから3年目でこんなことになろうとは。乾杯には参加したが、参加したというよりも壁際にこっそり立たせてもらっていたというほうが正しいくらいだった。

「エ、エクスキューズミー」  

 仲間に入れてもらえないのなら仕方がない。私はせめてドリンクを一杯だけでも飲んで帰ろうと、おそるおそる店のバーテンダーに声を掛けた。

「アーハン?」

 まだ英語の発音が下手なせいだろうか。紫色に光る虹彩に射抜かれ、私は二歩後ろへ下がった。カラーコンタクトもアメリカは規格外だ。蛍光塗料でも塗っているかのような瞳はすぐに私から興味を失い、目の前のブロンドの美女に愛想の良い笑みを送った。彼は一瞬で私が冴えないアジア人だと見抜いたらしい。カウンター席の別の客には、注文もされていないブルーハワイを贈っている。
 店にはドレスコードがあるのか、サテンやシルク地の赤や黄色と派手な色のドレスが網膜を刺激した。Tシャツにジーンズなんてラフな格好は、店にダンベルを持ち込んでいる筋肉隆々なタフガイと、壁際族の私くらいだった。

「……セ、センキュー」  

 特に何の施しも受けていないが、礼を告げてその場を離れた。 直後に、賑やかな笑い声が聞こえてきた。振り返ると、ミラーボールの7色の光の中でパッションピンクのキャミソールが跳ねる。ウッドデッキ造りの店内は予約客にダンスホールを貸し切りで提供しているらしく、そこだけが異様な盛り上がりを見せていた。今日の貸し切り客は――うちの職場だ。つまり、ビールを片手にフィーバーしている男女はすべてNNSAの職員達だった。

「…………」  

 無視をされて、挙句に飲み物ひとつも注文できない。
 さすがに心が痛くなってきて、私はこっそりと一人店の外に出た。カールが予約したらしい『ゴールデンズ・パブ』は1960年代オープンの老舗で、店の外観だけ見ればカントリー風の雰囲気がまるで洒落たケーキ屋さんのようだ。

「賑やかだなぁ……アメリカは……」  

 豪快な笑い声が外まで漏れ聞こえてくる。店の前の歩道には自動販売機が置かれていて、私はジーンズのポケットから1ドル札を引っこ抜いた。足りないだろうなと思って追加した50セントでようやく自動販売機のボタンが点灯する。
 選ぶのも面倒で適当にコーヒーを押したが、商品が落ちてくる気配が一向に無い。自動販売機の前でしばらく奮闘し、なんとか3ドルを投入した頃にジンジャーエールの350ml缶を手にする事ができた。

「……って、ま、まずっ」  

 50%の確率でしか商品取引ができない上に、まずい。めちゃくちゃにまずい。

「最悪だ……」

 日本に住んでいると気付く事が難しいが、日本人の真面目さと企業努力は世界トップクラスだ。故郷への懐かしさがこみ上げるのと同時に、何もかもがデタラメに思えて、私は店の裏の芝に腰を下ろした。ヤケ酒のつもりで月見酒――いや、月見ジンジャーエールを豪快に呷る。

「うっ……息を止めて飲んでもまずい!」
「Hey, Cool girl.」  

 突然の声に心臓が止まりかける。パブの裏は小さな物置倉庫があるだけで明かりも乏しい。店内のピンク色の光が漏れただけの暗い芝の上で、二人の男が立っていた。

「……!」

 咄嗟に立ち上がって、周囲を確認する。私の他には、誰もいない。こういう時は無言でこの場を離れるのが正解だ。私は、平静を保って男達から視線を逸らさずに距離をとった。それでも相手も近付いてくるので、後ろ歩きを続けるしかない。NNSAの職員ではなさそうだった。

「Hahahahaha!」  

 何がおかしいのか、男達は手を叩いて笑い始めた。ジロジロと動物園の珍獣でも観察するかのようにこちらを見てくる。面倒なことに、店の入り口は男達の背後にあった。店の中に逃げ込むにしても、この男達をかわさなければならない。
 私は左手に拳を握った。大学時代に空手を少しだけ習ったことはあった。だが、たったの3週間だ。カリフォルニア州のパサデナにいた頃はここまで自己防衛の必要性を感じる状況に陥ったことはなかったので、油断していた。体験受講程度の空手がどこまで役立つか。  

 ここはむしろ走って逃げたほうが――そこまで考えたところで「Hello?」という声がした。かさりと芝を踏み締める足音が聞こえて、私は「あ」と握力を失う。右手から落ちた缶ジュースは芝の上に転がった。
 橙色の街灯の明かりの下にいた天道倭が、黒のTシャツにベージュのチノパンというラフな格好で、こちらを見ていた。

「君の友達?」  

 日本語だった。倭の言葉に「Ah?」と首を傾げた男の一人が、私に向かって右手を伸ばしてくる。半袖の腕から覗くドラゴンのタトゥーが強烈で、その大きく開いたドラゴンの口が私に噛みつく前に、ぱっと黒の残像に切り変わった。

「物騒な男だ。そんな刺青を入れるはずだろうな」  

 倭の手が男の腕を掴んでいた。酔った男達はドイツ系で、プロレスラーか軍人のような身体つきをしていた。私と倭を観察するように眺めた後、日本人を侮辱するスラングを口にする。ピアスの付いた唇が歪んで、190センチはある巨体がゆらりと揺れた。殴られる――咄嗟にそう思った。

「おーい! トキワ!」  

 遠くからカールの声がして、私は「神よ」と思った。店の入り口あたりから、こちらに駆け寄ろうとしてくれているカールの姿が見える。  
 その時だった。
 ドン、という鈍い音がして、鋭い風鳴りを感じた。

「……倭!」  

 腕にタトゥーの入った男が芝の上に伸びている。私は咄嗟に倭の名前を呼んだ。芝に膝をついて男を拘束した倭と目が合う。私は蛇に睨まれたマングースにでもなってしまったのか、倭と目が合ったままそこからもう一歩も動けなくなってしまった。カールが「トキワ!」と走ってくる。
 ウイスキーの匂いがして、今がパーティの最中だったことを唐突に思い出した。店にはカールと共に倭も参加していたのだ。今のこの瞬間まで目が合うことすらなかったが。

「大丈夫かい!? ヤマトが外に出たから何かあったのかと思ったけど……パブの外は酔った男がたくさんいるんだ。一人でこんなところにいたら危険だよ」  

 カールの言葉に、私は自分の軽率な行動を改めて自覚して、思わず俯いた。カールが倭に向かって「警察を呼ぼうか?」と尋ねる。倭は男の身体から手を離して、「気絶させてしまったし、今回は大丈夫だろう」と首を反らせた。後ろを確認しているのだ。店の裏庭にいたのは二人の男だ。もう一人は走って逃げてしまったらしい。    

「GB……」  
 
 低く、固い声音だった。暗がりによく響いた声に、私の背はぶるりと震えた。髪を短く切り揃えた倭は、まっすぐに立ち上がるとカールと同じくらいに大きかった。アジア系の宇宙飛行士の中では格別に体格が良いほうだろう。  
 ようやく見えた表情が、小さく口の端を歪ませていた。

「GB、なんて呼ばれている人がいたから。誰かと思ったら……」  

 そう言って、もう一度私と目を合わせてくる。私は急激に頬が熱くなるのを感じた。首筋まで赤くしているであろう私に、倭は「よく似合っている」と言った。一瞬その言葉がうまく処理できなくて、倭の薄い唇を見つめる。あの口が確かに『よく似合っている』と言った。直前まで話していた、GBというあだ名のことを、よく似合っている?  
 隣でカールが焦ったように「店員に言っておいたほうがいいよな、この暴漢のこと」と倭に声を掛ける。

「いや、店に戻ったら俺から伝えておくよ。それより、君はもう帰ったほうがいいんじゃないか」
 
 事務的な口調で、倭が服についた芝を払いながら告げる。

「おい、ヤマトっ」
「中に入っても居場所が無いだろう。外に居続けてまで、このパーティを我慢する義務も無いと思うけど」
「ヤマト、彼女は怖い目に遭ったばかりだよ……」  

 カールがしばらく私をフォローする言葉を続けてくれていたが、私は手の平で顔を隠しながら芝を見るしかなかった。 恥ずかしい。恥ずかしくて、相手の顔が見れない。

「ごめんなさい、あの、じゃあ先に……」  

 何と言って去ればいいのかも分からない。カールが呼び止めようとしてくれたが、私は耐えきれず、そのまま歩道に向かって全力疾走で駆けた。

 まばらな街灯の下を、陸上のトラックと勘違いしたようにひたすらに駆け抜ける。助けてもらった礼をせめて言うべきだった。様子を見に来てくれたカールにだってお礼を。そこまで考えて、涙線が緩んだ。
 イエローキャブがクラクションを鳴らしながら私を追い抜いていき、赤いテールランプが遠ざかっていく。見慣れない街並みは心許なく、水すら飲んでいない喉はカラカラに干からびていた。

「………はあ、はあっ」  

 鼻水も涙も生ぬるい風に攫われてゆく。走っても走ってもどこにも心が休まる場所はなく、私はガソリンスタンドの前まで来てようやく膝を折った。アスファルトに尻もちをついて、ポケットに入れていたガマ口財布が転がり落ちる。パーティに参加していた女性たちのドレス姿の中で、びっくりするくらいださい自分がいた。コットンのTシャツに、ネイビーのジーンズ。コンバースの靴がジンジャーエールで濡れていて、私の喉は「ぐう」と鳴った。
 なんでこんなに自分はださいのだろう。
 ちょっと成功したような気になって、また自分の未熟さを知る。倭に再会できて浮かれていることが、猛烈に恥ずかしく思えた。相手は何にも思っちゃいない。自分は、なんの夢も叶えていないのだから。誰よりも努力しなければ、出遅れた分に追いつくことすらできないのに。

「ばかか、私は……!」 

 喉から飛び出しそうになる嗚咽を噛み殺し、アスファルトの上で正座をする。金曜日の夜8時過ぎに歩道の上にこんな女がいたら、きっとアルコール中毒者か、おかしな薬を飲んだのかと疑われて通報でもされかねなかった。だが、ラベンダーの匂いがして、「お嬢さん?」と鈴の音が転がるような声が私を呼び止めた。

「あなた、大丈夫? どこか痛むの?」

 顔を上げると、目の前で薄紫色のワンピースがひらりと揺れる。老年の淑女が麦わら帽子を被って私を見下ろしていた。肩に羽織った白いレースのショールが、私の身体に掛けられる。

「かわいそうに。スリにでも遭ったのかしら」  

 そうじゃない。英語でそう告げた私に、彼女は、アジア人である相手に言葉が通じた事にほっとしたような笑みを見せた。道路に転がったガマ口財布を拾って、「お家はどちら」と尋ねてくる。何かが顔に押しつけられて、それはシルクのハンカチーフだった。

「この時間にバスはもうないわよ。良かったら温かい飲み物でも飲んで、心が落ち着いてからタクシーを拾わない? きっとあなた、今ひとりきりになったら駄目だわ。あたしもちょうど今夜はひとりでさみしかったの。なんの、人生には色んな悲しいことがあるわ。でも、女ふたりでホットワインを飲んだら大丈夫。大抵の事は笑い話になるわ」  

 差し出された手を、砂利が付いたままの手で握り返す。見知らぬ女性に付いていくことのリスクも考えた。ただでさえ、さきほど倭とカールに迷惑を掛けたばかりだ。だが、私はこのままひとりでホテルに帰ることのほうに恐れを感じた。

「なにも取って食べたりなんてしないわ。家ではチキンスープを仕込んできていてね。美味しいのよ。パンも買ってあるわ。ここのガスステーションに来たのはマーブルチョコレートを探しにね。日本のお菓子よ、それが好きな男の子がいるの」  

 私の汚れた顔を拭き終わった後、女性は「これよ」と日本で馴染みのカラフルなチョコレート菓子を見せてくれた。シンプルなキャンバス地のトートバックの中に、筒状のお菓子のパッケージが10本近く入っている。  
 手を引いて起き上がらせてくれた彼女は、コンビニの側に停めたクラシックカーを指差して「いかすでしょ」とウインクした。近づいて行ってよく見ると、TOYOTAのロゴシールがバンパーに貼り付けてあった。

「ハリウッドのセレブはエコカー自慢でプリウスにばっかり乗るじゃない? だからうちの車もTOYOTA製にしてやったのよ」  

 何と言って反応すればよいか悩む内容だった。彼女はお構いなしに運転席に乗り込み、月夜を見上げてぴゅうと口笛を吹いた。カーラジオの選局はメジャーロックシンガーが流れたところで、見た目に反してファンキーな彼女はアクセルの踏み具合も想定外だった。シートベルトに必死に掴まりながら、直線状の道路の先に浮かんだ満月を見上げる。

 人生には色々なことがある。何度もそう言い聞かせて、これまでの壁を乗り越えてきたはずだった。だが、NNSAにまで来て見上げた月は、どうしようもないくらいにしょっぱい涙を誘った。



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