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【小説】この世界で、ゴールデンブルースを聴くものよ:第13話

 ピ――

『――……呼吸が、』


 ピ――

 
 はあ――。  
 誰かの溜息が聞こえた。
 何故だか、これは倭が見ている夢なのだとわかった。他人の夢に侵入していることを、五感を超えたどこかが悟る。暗い闇だけが続くと聞いた宇宙が、深い青に染まっていた。細かい塵状の光のせいだった。


 ピー……ピー……  


 アラーム音が規則的に鳴り、その光景を見てまさかと思った。青と白のマーブル状の小さな球体。その地球を背にして、どこか懐かしい声が聞こえてくる。

『カール……聞こえるか、……管制室、デブリが……』  

 デブリ――スペースデブリ。  
 簡易シェルターのネジが一本緩んで、その3mmのネジが宇宙空間に投げ出されたことが、すべての始まりだった。
 
 浮遊したネジは、秒速8kmで飛来するスペースデブリの軌道上に侵入した。30cm弱の人工衛星の破片は小さな衝突を受け軌道を変えた。推進力の働く角度が数度違っただけで、真空を彷徨う宇宙のごみは、宇宙服を纏った倭に背中から襲いかかる悪魔と化した。  
 宇宙服に空いた穴はわずかだった。だが、小さな隙間から吹き出す酸素は1秒と待たず倭を宇宙空間へ放り出した。ジェット噴射のように吹き出し、身体は無尽に回転する。倭は空いた穴を必死に探しだし、グローブに携帯されている緊急用のテープシートをどうにか背の穴に貼り付けた。  
 奇跡的に地面に向かって軌道を変えた身体をそのままに、地球の1/6の重力にしがみつく。全身から汗が噴き出した。だが、恐ろしいのはここからだった。宇宙服に空いた小さな穴からは空気が漏れ続けていた。30分以内に船内に戻らなければ、人体がもたなかった。

『ああ……』  

 恐らく、船から数キロ離れた場所まで飛ばされたのだろう。何故か通信がオフラインになっている。息が苦しくて冷や汗が止まらない。
 地球が、随分と遠くにある。そこに向かって指を伸ばす。その手は、大人になった倭の手だった。異物が宇宙服を突き刺し、月面で仲間とはぐれた倭が死の直前にいることは確かだった。

『やっぱり、駄目だった……』  

 はは、と乾いた笑い声が聞こえてくる。本来、真空世界では音は聞こえない。ヘルメットの中が二酸化炭素でどんどんと曇ってゆく。そこからは、遺言のような独白がはじまった。

『宇宙の大半は、目で見えない……我々が見ることができている、4パーセントの宇宙が、ここにはある……』  

 警報音が響く中、絶望的な群青色の世界で「宇宙」という言葉が響いた。  
 光を反射した透明な湾曲に、いくつもの歪みが重なる。地球は果てしなく遠い場所に静かに浮かんでいた。親指で隠してしまえば見えなくなるほど小さな球体。未知のエネルギーに覆われた宇宙の中で、恒星の光のゆらぎだけが「希望」にも「絶望」にも光りかがやいていた。  
 人間が、そのどちらかを選ぶことはできない――倭は言った。

『宇宙最前線の知恵をもって、ここへ辿り着き……残念ながら……このうつくしさを持ち帰ることはできない』  

 夢のメカニズムが未だ21世紀の科学でも証明されることが不可能なら、これはもっと厄介なものなのだろう。怨念や第6感などという、もっと乱暴で、粗暴な。  
 天道倭をいつか平穏な地上へと引き摺り降ろしてやりたいという自分の隠れた願望が毎夜枕元に現れるのならば、きっとそうだ。そうだとも。よりにもよって、月面で大切な人を失う夢だなんて。

『……ここは、宇宙だ。……スペースデブリの除去は、最優先で進める必要がある……ヒューストン、天道だ。通信がもう駄目なら仲間に託す……宇宙は、この4パーセントの宇宙は、あまりに』  

 固まった月面の表面は削り取られ、グローブを付けた倭の手が乾いた砂を握った。

『あまりに、障害が多く――』

《天道倭ロスト》《スペースデブリ》《やっぱり駄目だった》
 同じ言葉、同じ絶望、同じもどかしさ。15歳の頃からずっと見続けてきた悪夢が、また繰り返される。あともう少しで倭に手が届くような気がするのに、絶対に触れることができない。

『酸素が尽きるので……最後に、貴重な一言を……譲ってもらいたい』  

 電子音が連続して鳴り響き、不気味なイントネーションで《生命維持装置の故障(エラー)》が告げられる。主酸素タンクの破損と共に、二次酸素パックとタンクも機能を果たさなくなっていた。

(こんなばかなことが)

『ばかなことだと……言うだろうが……』   

 倭と私の声が重なる。どうしようもなく涙があふれてきて、私は倭の名を呼んだ。これが現実じゃないことは自分の夢の中の出来事だから分かっている。それでも、倭の身体を上から見ている視界とは別に、倭の目から歪んだ地球を見ている心は泣いていた。

『親友へ』  

 ――倭。
 私は、遺言をのこそうとする倭に向かって語りかける。
 ――必ず私はロケットを飛ばす。永久に緩まないネジを発明して、世界一安全な有人ロケットを地球から月へ、そして月から地球まで宇宙飛行士を無事に帰還させるよう私が開発する。宇宙にJAFがないなら、軌道上の事故を未然に防ぐシステムを開発する。スペースデブリが未来永劫増え続けようとも、それが宇宙飛行士を殺さないように。事故の原因を、私が根絶やしにしてやる。だから。  
どうか――。

『……宇宙で、待ってる……』  

 倭は静かに目を瞑った。

 暗闇はどこまでも続いていた。遠くから、異国の言葉が聞こえてきていた。  
 今では耳に馴染むそれらの言葉が、見知らぬ男女が何かを必死に叫んでいたために不思議な音の羅列に聞こえた。月面着陸計画のクルーメンバーである、JADA・NNSA・EASAの宇宙飛行士たちの声だった。  
 彼等は、飛来してくるスペースデブリにパニック状態に陥っていた。予定にない中国製人工衛星の爆破処理が突如実行されたからである。それは、月の調査のために2012年に打ち上げられた衛星だった。月周回軌道上にばら撒かれた無数のスペースデブリは、時速9kmを超えて飛び散った。
 通信機の中で、悲鳴と怒号とが飛び交う。帰還用のカプセルにそのひとつが当たり、船長は計画の中止をすぐさま取り決めた。ケスラーシンドローム(デブリの連鎖的な自己増殖現象)を危惧してのことだった。必要最低限の物資を回収し、別動隊として離れた場所にいたメンバーにもすぐに基地へ帰ってくるようにと指示を送る。

『全員直ちに戻ってこい! 調査はストップしろ!』

 NNSAの宇宙飛行士からすぐに応答があった。

〝まだ、ヤマト宇宙飛行士が調査から戻ってきていません!〟

『どうしてだ! なぜ同じ場所にいない!』  

 船長の言葉に、カールは〝デブリが!〟と叫んだ。

〝デブリが当たったんです! 宇宙服に穴が開いて、放り出された! 今ローバーに乗って助けに行っています! もう少し待ってください!〟  

 船長のヘルメット内には、カールと別の宇宙飛行士らの会話が通信機から漏れ聞こえていた。

アラートが鳴っていたのが聞こえたぞ!
宇宙服に穴が空いたんじゃないのか!
信号はどこからだった!
オフラインになっていて分かりません!
減圧警報だろ!
もう5分経った、20分が限界です!
ノー・ゴー?
なにがだ!
行くのか、行かないのか、どうするんだ!?

『おい、カール』

〝はい!〟

『残念だが、ヤマト宇宙飛行士は後で助けに行く。君達だけでも戻ってこい!』

〝……なんてことを! 彼はまだ生きています!〟

『生存者を優先する!』

〝もう少し待ってください! 必ず見つけて帰りますから……!〟

『帰還カプセルの修理が先だ。カール、時間がない。大事な宇宙飛行士は、他にも……――』


 その時、自分の声が大きく響いた。   

「起きろ! 起きろ起きろ起きろッ、倭ォ!」

 右手を伸ばす。その手は、自分のものだった。

「倭ッ!」

 弛緩した腕を掴む。思ったよりも重い。この手を、もう二度と離してなどやらない。

「簡単に諦めるなッ! 担いで行くから、腕を回して!」  

 涙で濡れた鷲色の目。その目がヘルメットの奥で大きく見開く。怒号に驚いたのか、何故ここにいるのかと信じられないでいるのか。だが、そんな倭の葛藤などどうでもよかった。  
 壊れていないほうの予備用の二次酸素タンクにケーブルを新しく繋ぎ直し、メインの主酸素タンクは捨てて、倭のヘルメット内に酸素を供給することだけを考える。オレンジ色のメーターが動いて、すぐに倭の背中側へと移動する。空気が漏れ続けている穴を特殊フィルムで完全に塞ぎ、私の生命維持装置と倭のものとをケーブルとアルミホースで繋いだ。最後に新しいバッテリーを交換する。  
 宇宙服には他にも裂けた箇所があったが、裏地のリップストップ(裂け止め)が改善されたおかげで、断熱層8層など残りの13層の壁が辛うじて倭を真空状態から守っていた。この間はおよそ1分か2分という時間で、ローバーに乗ったカール達が到着したのがバッテリーの交換直後だった。  
 予備の生命維持装置をローバーから下ろし、壊れた倭のものと取り換える。宇宙服の命でもある「生命維持装置」自体を外から取り変えることが出来るこの画期的な宇宙服の開発に携わった仲間カールの手が、倭を力強く抱いた。

『待たせたな、ヤマト。焦りすぎてエンジンペダルを踏み過ぎた。溝に何度もはまり掛けたよ』  

 ローバーに手を添えながら、カールが倭のヘルメットを撫でた。中の顔がしっかりと瞬きをしているのを見て、カールは『主よ』と小さく十字を切った。

『あ、お……おいッ! あれ!』  

 そのとき、もう一人の仲間から悲鳴が上がった。いや、歓声だったかもしれない。  
 通信機の声に導かれて、青く輝く惑星のさらにその〝先〟を私達は見た。

「惑星、直列……」  

 太陽系惑星が、不自然なほどに美しい縦の列を成してそこに並んでいた。太陽を先頭にし、個性豊かな巨大な惑星たちは、闇の中で黄金の光を一線の閃光のように繋げていた。

『すごい……こんなことがあるなんて』  

 二人の仲間と共に倭の身体を支え、私達は並んで月面に立った。地に足をつけているのに、夢見心地だった。確かにこれは夢かも知れないが、目の前にある奇跡が頭の中の無駄な思考をすべて奪っていった。  
 厳密に言えば、月から見えたのは約5千万kmずつ離れた金星と地球と火星、その火星から5億km離れた太陽系中最も巨大な木星がかろうじて見えたに留まり、公転周期の早さの違いですぐに惑星たちは離れていった。時間にすれば、数秒程度だっただろうか。  
 惑星直列は、遠く彼らの特徴的な表面を浮かび上がらせながら、ショーの幕を閉じていった。

『さっきまで見ていたものは、』

 倭が何度か咳を繰り返し、必死に言葉を紡ぐ。

『酸欠状態からきた、幻とかじゃないよな……』 

 その倭の言葉に、カールは『いいや』と両手を上に翳した。無数の恒星が煌びやかに彩る、人類未踏の宙の果てに向かって。ゆっくりと伸びやかに、ブルースが響きだす。  
 メランコリー・ブルース。難しい曲で、鼻歌には向かない。だが、カールが身体を揺らして歌いだしてしまった。  
 私達は月からブルースを送った。地球に向かって、友へと向かって、ゴールデン・レコードに刻まれた歌を口ずさんだ。4人で手を繋ぎ、私の左手は月の土で汚れた倭のグローブを握っていた。

「遅くなった」  

 そう伝えると、ヘルメットに青く美しい惑星ほしを反射させ、倭は私を見た。

『エスコートされる側になっちゃったな』

 濡れたまつ毛の奥の瞳をまっすぐに、目尻を赤くしてゆっくりと瞬きをする。それは、気恥ずかしくなるほどにきれいな笑みだった。倭を、ようやく月から取り返した。そんな気がした。

(ああ――、) 
 だが、きっと彼はこの場所に帰ってくるだろう。月はまた、倭と我々を魅了する。  
 宇宙飛行士だけでもいけない、技術者だけでも足りない。まだ何も成し遂げていないというのに、デブリ回収機能を持つ特別なロケットを開発し、宇宙飛行士としていつか倭の隣で月面に立つことが、28歳にして新たな将来の夢になった。天が選ぶのが倭だけであったとしても、私は自分の足でそこへ近付くだろう。
 38万キロメートル。たったひとりの人間からすれば、途方も無い距離だ。だが手を繋ぎ合ってブルースを口ずさむ今は、きっとそこへ辿り着けるのだと分かる。
 ゴールデン・ブルース。  
 そう、月から送る地球へのラブレターなら、そんな感じだろう。



◇◇◇



「糸、おい、糸……! 起きてくれ」
「宇宙飛行士に……宇宙、に……あれ?」  

 覚醒と同時に、シトラスの匂いに包まれる。すっかり日の落ちたヒューストンの倭の家の庭で、家主が目の前にいた。

「ぅえっ……!」

 目の前にある胸板を押して、起き上がる。手の平で触れた厚みのある肉体が、夜風で冷えていた。夢の余韻だけが、ぼんやりと頭の片隅に残っている。  
 今は日本にいるはずの倭が何故ここにいるのかと、私は呆然とその顔を見上げた。

「なんでここに……」
「それよりも、糸、空だ! 上を見てくれ!」  

 彼の食指が指す方向を言われるがまま見上げる。そこには、赤や黄色や橙といった光の粒が、雨粒に反射したクリスマスのイルミネーションのようにチカチカと瞬いていた。周囲の漆黒の闇も群青色に照らし出し、天の川を横断しながら8つの異なる光が一直線に並んでいる。

「惑星、直列……?」  

 惑星直列だった。あの奇跡の光景が、そこにあった。  
 夢の中では、太陽の光が全惑星に触れたのはほんの小さな一点で、その様子を例えるならば、この世の色をすべてグラデーションに染め上げた一本の”糸”のようだった。
 倭は、「間に合ってよかった」と言った。

「間に合って……?」  

 上弦の月を背にした倭は、私の身体に被さったままで口の端を上げた。

「そう……今回の事故で選抜メンバーから外されて、俺はとてつもなく暗くて寂しい場所にいたよ。起きてからそこが病室だって気付いてね。周りの方が大騒ぎでさ……俺がまるで死んだみたいに言って。『残念パーティ』をしてくれたんだね。瓶やお皿がテーブルに残ったままだ」  

 久しぶりにワインを飲んだせいか、記憶がはっきりとしなかった。片付けも適当にうたた寝をしたせいで、窓も開けっ放しになっている。ベンチで寝たせいで痛んだ背を、大きな掌が撫でた。そのままゆっくりと抱き起こされる。  
 よく見ると、倭は黒のジーンズにジャンバー、ショルダーバックという軽装だった。まだ夜風の冷たさが肌を刺すアメリカの地で、私の隣のベンチに座る。だが、そんなふうに優しく笑われても、私には状況がすぐに理解できなかった。

「いや、何が起きてるの……」
「突然糸に会いたくなってさ。急いでチケットを取ったんだ」
「事故の、後遺症は。身体は……?」
「正直、飛行機の中で何度も吐いたよ。……時間がかかっても、必ず完治してみせるけどね」  

 倭は、己自身に言い聞かせるように力強く頷いた。  

 3か月前の、2019年7月16日。  
 スカイラブ宇宙センターの訓練施設で事故は起きた。2年後に控えた、アポロ11号以来人類の歴史上二度目の月面着陸への成功に向けて、シミュレーション訓練の回数を増やした矢先の出来事だった。  
 人工的に宇宙空間を作り上げた実験ルームの中で、それは起こった。

 午後一回目の訓練開始からすぐのことだ。倭が着用していた宇宙服とヘルメットの両方に突如亀裂が走った。経年劣化による破損であったと後に検証・公式発表がされている。倭は、生身のまま真空状態に晒されたのだ。  
 空気圧が下がると液体沸点は下がる。SF映画では宇宙に放り出された人間が血液から凍っていくという描写があるが、そうまではいかなくとも、重力と共に気圧なき真空世界では、およそ10秒後には肺の血液が脳へと流れ出す。訓練開始から13秒後に倭は意識を失い、その1秒後に救出された。口腔内の水分が沸騰しかける寸前であったと言う。  
 これにより、約8カ月のリハビリが必要となる身体になった。三半規管へのダメージが大きすぎたせいだ。

「……糸。2年後の打ち上げ計画は、NNSAの従来型の宇宙服の不備が発覚して長期の延期になっただろう。どれだけ丁寧に訓練を積んでも、こういう日って、いつか必ずくるんだよな。宇宙飛行士がどれだけ優秀でも、プログラムやシステムが進化しても、機械も人も突然エラーを起こす。……不安を置き去りにして見切り発車をしても、月面には辿りつかない。それがよくわかった良い経験だった」  

 2010年のノートン宇宙飛行士の事故以前にも、1980年代にNNSAではヘルメット内で水漏れが起こる事故が発生しており、宇宙服の改良は課題の一つとして何度も議題に上がってきた。  
 倭の事故もこれが訓練ではなく、宇宙空間での実践であったならば今頃生きてはいないのだ。たとえ大気圏を突入し無事に地球へ帰還したとしても、海への着水時に事故が起これば、不備のあった宇宙服を着た宇宙飛行士は家族の元へは帰れないかもしれない。
 だからこそ、倭の言葉に、私ははっきりとした返事をもって「そうだね」などとは言うことができなかった。 
 倭は、ベンチの下に置いてあった花束を手に取った。

「カールが置いていったんだろう。後でお礼のメールを入れておくよ。それで、君はどんな夢を見ていたの」  
 
 自然な仕草で目尻に触れてきた指はかさついていて、わずかに薔薇の香りがした。

「夢、というか」
「うん」
「半分、現実みたいだったけれど……」
「どんな感じだったの」
「最新の宇宙服を着て……それを開発した友人達が、ローバーに乗って助けに来てくれたよ。……ずっと、正夢になるのがこわい悪夢があったんだ。アラートが鳴り響いて、スカイラブ宇宙センターで事故が起こったことを聞いた時、ああついにきたと思った。もう何度も夢枕で倭を失っていたから。あんな、ばかなことが……」  

 天空の彼方には、惑星直列の光の粒がまだ瞬いていた。地球からの距離と公転周期を考えれば、こんな絵に描いたように光が直線に並んで見えるわけがない。

「でも、糸が助けにきてくれた」  

 倭は、「飛行機の中で俺も見たんだ」と言った。
「時差のせいかな。数時間前に、アメリカ行きの飛行機の中で。俺もその夢を見ていた気がする。俺の夢なのに、糸がいるのがわかった。精神的に繋がっていたのかな。そういうスピリチュアルなことは、俺にはよく分からないけれど――」  

 鷲色の目が、幻想的な夜空の下で少しだけ濡れていた。天の川は早秋の頃、ヒューストンでは明け方前の4時頃に輝きを増す。それも淡く溶けてゆき、惑星直列のまばゆい直線の光を見失っても、もう手が届かないことはなかった。

「ありがとう。助けに来てくれて」

 倭に背を抱かれる。私は、歯を食い縛った。10年以上続いた悪夢の結末が、この夜、ようやく希望に変わった気がした。たとえ、それがただの夢の中の出来事だったとしても。

「……口の中の怪我は大丈夫なの」
「大丈夫じゃないけど、こんなものは気合いで治すよ」
「無理して喋らなくていいから」
「じゃあ少しだけこのままでいさせてくれ。ああ、なんかすごいな。まだ夢をみてるみたいだ」

 28歳の現在、倭は月旅行どころか地球の外へ行くことも叶っていない。トラウマになりそうな大きな事故と、後遺症も残った。ロマンとイマジネーションを掻き立てる世紀の天体ショーがあったとしても、現実はハッピーエンドとはほど遠いところにある。
 私は鼻を啜った。倭の冷えたジャンバーに手を当てて、その肩や腕を力強く擦った。

「はは。糸、力強いな」
「……月に行ってからどころか、訓練中に死ぬなんて、なしよ」

 倭の手が私の背中から外れる。膝の上に薔薇を置いたまま、左の耳に触れながらおかしそうに笑っている。まだ、耳の調子も良くないのだ。わかっている。私は、倭の左手を握った。

「生きてさえいれば、何度だってチャレンジできる。数年くらい好きに生きればいい。大丈夫。その間に、世界一安全なロケットの開発者と、最強の宇宙飛行士になっておくから。あなたはしっかりとその足で立って。私があなたを必ずその先へつれて行くから」  

 言ってしまった。
 倭の手がぎゅっと握り返してくる。

「糸、俺ほど月が似合う男もいないと思うんだけれど……どうかな」  

 私は倭の左手を握ったまま、一度天を見上げた。アメリカに来てから、確実に涙腺が緩くなった。まだ完全な表情を取り繕うことはできなかったが、どうせ前に進むなら明るいほうがいい。私は倭の調子に合わせた。

「もちろん、あなたが一番だよ。倭が月に行かないなら、他に誰が――」  

 ちゅ、というリップ音がして、薔薇の匂いよりシトラスの匂いが強く香った。

「……うん。必ず月にいくよ。糸の隣で」  

 薄茶色の瞳が、チカチカと光を散らしながら輝いていた。心からの本音を言えば、銀河みたいだった。すきだ、まいったな。それだけを思ってしまって、私は再び涙腺と鼻の奥の熱さと戦わねばならなくなった。

「糸」  

 倭の耳の状態は突発性難聴と診断され、他にもすぐには根治することが難しい症状がたくさんあった。乗り越えなければならない壁は山というほどある。

「糸、宇宙って知っているか」  

 戦友のように、家族のように、愛する人にそうするように、私達は互いの身体をハグし合いながら倭のその言葉に肩口で笑い合った。あの青春の日々から、ほんの少し前に進み、少しだけ後退し、そしてまた前に進んでゆく。

「……知っているよ。ロケットが行くところ。私が携わった、世界で一番安全なロケットが」
「うん。そうだ。俺が安全性を実証するよ。ちゃんと立派な宇宙飛行士になって、必ず君のもとへ戻ってくる。訓練を積んで、君の有人ロケットで月へ行く」  

 倭が私の肩に額を預けた。この倭の言葉は祈りでもあり、倭の決意でもあるのだとわかった。だから、私はこれからも前に進んでゆく。
 たとえこのまま倭が宇宙飛行士に復帰出来ることもなく、ひとりでこの道を進んでゆくとしても。

「宇宙は……俺にとって宇宙は、糸だった」  

 しばらく二人で並んで星空を眺めている時だった。私はカールのバラの花束を手に、驚いて倭を見る。

「糸……?」
「うん。宇宙はさ、糸なんだよ。ちょっと触れてみたらびっくりした。俺、本当にずっと糸のことが大好きみたいだ」  

 愛らしくて、少し子供っぽい表情。
 宇宙糸にあやかって名付けられた私の名前も「糸」だから、ややこしい。なにかの比喩なのか、本気なのか。色んな事を考え過ぎて、私は顔を手で覆った。今、目に映るものすべてが眩しい。ちょうど、朝焼けが世界中を照らしはじめていた。
 私達は顔の半分ずつを照らされ、陰をつくり、そのまま正反対の表情で近付き合った。薔薇の匂いは気障すぎて、最後は笑ってしまった。

「前に進もう」

 もうそれぞれの足で歩いて行ける。これはかなしい別れなどではなかった。私達は知っている。同じ夢を持つ者同士は、離れていてもいつか必ず同じ路に辿り着く。
 私達は握手を交わした。二人が前へと進むために。



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