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「きく」にあたって、いつもそこにいた記憶がない話

こんばんは
3/24-26にエンニュイという組合で「きく」
という公演をします
とても好きな作品で、早くいろいろな人にみてほしい
その作品に参加するにあたり、考えたことがあるので
書き起こします

考えてみれば、昔から自分が
本当にそこにいたのか、いるのか、よくわからない
感覚に陥ることがあります
記憶がないとか、無視されているとか、
そういうことではないような
浮遊しているような、
わかる、とわからないと狭間に生きているような
好きと嫌いの間にいきているような
しんでるといきているの間にいるような
ピザと味噌の間にいるような、ちがうか、

ぼやっとしてるんです、自分の皮膚感覚が
今にもそこに溶け出しちゃいそうな、
飽和状態
でも、この状態、自分が何かを表現する立場なのでとてもありがたい状態なんです
なんとでも とけあえる きがするから、
だがしかし
混ざれるひとやものがいないと
とてつもない寂しさを感じます

特に複数人いると、いろいろな人の思考や表情が自分の中に滝のように入ってきて、
あ、この人は話しかけられたそうだな、
この人は疲れているな
この人に自分さっききついこと言ってしもたかもな
花粉すんごいな
お腹すいたな
あの花瓶、倒れそうだな
冷房消し忘れたな

とかとにかくすごい量の情報が一度に同時にはいりこんできて

その人やもの、になった気がしちゃってというか
勝手にその思考になっちゃってて
記憶、とか残り香みたいなのが
身体や精神に残り
そのまま後遺症のように残ります
だから、どれが自分かよくわっかんなくなるんですね
後遺症はあるんで、動かしたはずのない筋肉の痛が出てくる
だから自分がそこにいたことも
なんか嘘だったみたいになっちゃって
面白いですねえ

これは私の癖、である
なんでも語尾にとかいってをつけがち
にもつながります
多分、自分以外(自分以外と一応定義するヒトモノ)が
持つ思考に とかいって をつけることで
ちょっと軽く?ふざけた感じにして
自分のその後の負担を軽減しているんでしょう
逃げています!

はい、ここでですね
私にとってエンニュイ「きく」は
聞く、こと聴くことをもう一度考えてみて、
存在をノックするきっかけになります
1000本ノックやぞ!

私はこの作品に関わってから
自分が人の話を聞いていないことに気が付きました
というよりも、聞こうとしていても
色んな思考がはいりこんできてしまって
しかも、なんとしてでも聞こう、という
また別の思考が入ってきて、
それまたなんとしてでも聞こうなんて、失礼だ、自然と聞いたほうがいいよな、とかいって
あ、いま自分聞いてる風な表情しちゃったわ、ばれたわ
とか、はははは
すごいな!ループだよ!
つまりなんなのか、自分も浮遊してるくらいままならないのに、
相手なんかもっと認識できないわけで
そのひとが話していることを、必死でしかし必死ぽくなく、かつ必死で自然に
きいてみてみせるわけで
この時点で1%も聞けてることになってないわけです
というか、100%きくことにはならないわけみたいです

みなさんも、きく、を観たらこんな体験ができると思います
これは演劇、でもないです
体験です、体感です、体幹、でもあるかもしれない
コミュニケーションの幹みたいな部分の
位置とか重さとか角度とかを一緒にはかる、お話です
とっても豊かな体験ができると思います

3/24-26にエンニュイで公演をします
「きく」@三鷹スクール

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「母親が癌になった」
一人の男の語りから話は始まる。
最近、言葉が溢れていて聞き取れない感覚に陥る。
「きく」ことによってその話を「背負う」。
聞いた話の足りない情報を想像で埋める。
「きく」ことの大部分は想像。
そんな「きく」ことを体験できる公演。
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チケット予約です
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