なぜ「できない自分」に優しくなれないのか-自己嫌悪という刃-
今朝も、鏡の前で髪が決まらない。アイロンをかけ直すこと三回。それでも前髪は意志を持ったように反り返る。「こんなこともできないの?」という声が、心の中で響く。自分を責める声は、いつも目覚まし時計より早く起きている。
面白いことに、できない自分に出会うたびに、その発見を楽しんでいる自分がいる。電車に乗り遅れそうになる度に「やっぱり」と呟き、仕事で些細なミスをする度に「ほら、見てた?」と誰かに語りかける。自己嫌悪は、時として最高の観客となる。
先日、新しい料理に挑戦した。レシピ通りに作ったはずなのに、写真とは似ても似つかない仕上がり。その瞬間、まるで待ってましたとばかりに、自分を責める言葉が湧き上がってきた。「こんなこともできないなんて」。その言葉は、もう母国語のように馴染んでいる。
不思議なのは、自分を責める声のトーンが、年々洗練されていくことだ。昔は単純な罵倒だったものが、今では皮肉や嘲笑を交えた繊細な言葉に変化している。自己批判は、どうやら成長するらしい。
夜の部屋で、また新しい「できない」を発見する。書類の整理も、部屋の片付けも、明日への準備も。できない理由を探すことには妙に長けている。自分を責める刃は、使うほどに研ぎ澄まされていく。それは、ある種の才能なのかもしれない。でも、その才能が、少しずつ私の肩を重くしている。
「批判という麻薬」
今日も予定通り自己嫌悪に陥っている。締め切り間際のレポートは、読み返すたびに稚拙に見える。手直しをする度に「こんなんじゃダメだ」という声が大きくなる。その声は不思議と心地よい。自分を責めることで、かえって免罪符を得られるような感覚。
面白いのは、自己批判には段階があることだ。最初は「努力が足りない」という声から始まり、そのうち「能力がない」という結論に至り、最後は「私ってダメな人間ね」という諦観に落ち着く。この過程には、ある種の快感がある。まるで、苦い薬を飲み干すような。
先日、企画書を書き直していた時のこと。「これじゃ足りない」と自分を追い込むほど、どこか高揚感があった。自己批判は、時として最高の興奮剤となる。その刺激を求めて、また新しい欠点を探し始める。完璧な企画書より、自分を責める言葉の方が見つけやすい。
不思議なことに、自己嫌悪に浸っている時の方が、周囲の評価は優しくなる。「そんなことないよ」「十分できてるよ」。この慰めの言葉を集めることも、密かな快感になっている。自己批判は、他者からの承認を引き出す、巧妙な仕掛けなのかもしれない。
深夜のオフィスで、また新しい欠点を発見する。早く帰るべきだ、こんな時間まで残っているなんて効率が悪い。そう思いながら、この後悔すら心地よく感じている。自己嫌悪という名の麻薬は、こうして日々、私の血管を巡っている。
「他人への眼差し」
同僚が資料に誤字を見つけて落ち込んでいた。「そんなの誰にでもあるよ」と、私は即座に慰めの言葉を掛ける。その瞬間、自分の中の矛盾に気づく。同じミスを自分がした時は、何日も自分を責め続けたというのに。なぜ、他人には優しくなれて、自分には残酷になれるのだろう。
面白いのは、他人の失敗を見ると、妙に説得力のある言い訳が浮かんでくることだ。「疲れてたんだよね」「時間が無かったもんね」「こればっかりは仕方ない」。この言葉たちは、なぜか自分に向かう時だけ、途端に説得力を失う。
先日、後輩が新しい企画に失敗した。その時、私は珍しく雄弁になった。「失敗は次に活きる」「むしろ良い経験になった」。その言葉の数々は、本当は自分に向けて言いたかったものなのかもしれない。他人を慰めることで、どこか自分も救われたような気になる。
不思議なことに、人は他人の欠点に魅力を感じることがある。友人の不器用さが愛おしく思えたり、知人の失敗談に親近感を覚えたり。完璧な他人より、どこか抜けている人の方が、なぜか心惹かれる。それなのに、自分への評価だけは、異常なまでに厳格になる。
夜の電車で、誰かのミスを目撃する。改札を通り損ねた人に、駅員が優しく声をかけている。その光景を見ながら考える。もし、あれが私だったら。きっと、また新しい自己嫌悪のネタが増えるのだろう。
「失敗との付き合い方」
今朝、珍しく自分に優しく話しかけてみた。「まあ、いいか」という言葉を、試験的に使ってみる。その途端、背筋が凍る。この言葉を口にすることに、どこか罪悪感めいたものを感じる。できない自分を許すことは、努力を放棄することなのだろうか。
面白いことに、失敗を受け入れる練習には、意外な困難が伴う。先日、期限に間に合わなかったメールの謝罪文を書いていて気づいた。「申し訳ございません」という言葉の後に、必要以上の自己批判を付け加えてしまう。それは、もはや謝罪というより、自虐の儀式めいている。
他人の目を気にしすぎる自分にも、少しずつ気づき始めた。電車で足を踏まれた時、「私が邪魔だったんですよね」と謝ってしまう。レストランで料理が遅れても、「私の注文の仕方が悪かったかも」と自分を責める。この習慣は、いつから身についたのだろう。
不思議なのは、自分に優しくなろうとする試み自体が、新たなプレッシャーになることだ。「もっと自分を許せるようになるべき」という理想が、また新しい鞭となる。完璧な優しさを求めることも、また一つの呪縛なのかもしれない。
深夜、日記を書きながら、今日の自分を振り返る。できなかったことを、いつもより少し優しい言葉で記してみる。その筆致は、まだぎこちない。でも、この不器用な優しさも、きっと練習で上手くなっていくはずだ。
「優しさという技術」
鏡の前で、できない自分と向き合う朝。今日は少し違う実験をしてみる。「下手でいい」「遅れてもいい」「完璧じゃなくていい」。この言葉たちを、まるで新しい言語を習うように、ぎこちなく発音してみる。
面白いのは、自分を許すことが、意外と高度な技術だということだ。まるでヨガのような柔軟性が必要で、禅のような悟りが求められる。先日、友人が言った。「自分に優しくするのって、案外難しい技術よね」と。その言葉に、妙な安堵を覚えた。下手なのは、私だけじゃないんだ。
自己批判には、確かな効力がある。それは私たちを前に進ませる燃料だった。でも最近、違う可能性に気づき始めた。優しさもまた、違う種類の燃料になりうるのではないか。ただ、その使い方を、私たちはまだ上手く習得できていないだけなのかもしれない。
不思議なことに、自分に優しくなれない自分に、少しずつ優しくなれるようになってきた。「優しくなれないなんて、なんて意志が弱いんだ」という批判の声も、以前ほど大きくない。それは、諦めではなく、ある種の成長なのかもしれない。
夜の公園で、月を見上げる。月は満ち欠けを繰り返しながら、自分のペースを保っている。できない自分を責める声は、今も確かに聞こえる。でも、その声もまた、私という人間の一部なのだと思えるようになった。完璧な優しさは要らない。この不器用な優しさで、きっと十分なはずだから。